業界独り言 VOL212 肩の力の抜き方

自宅の新築工事という暴挙に走ったのは、気の迷いだったのかもしれない。先の見えない状況でどうするのかという声もあるだろう。今のマンションの支払いが残っているので身動きが取れないという仲間もいるのかもしれない。私自身社宅、中古マンション、中古一戸建てと移り住んできていて新築を購入したことが無いことが幸いしてか残債に悩むほどの暮らしではないことが良かったのかもしれない。とはいえ下落傾向の不動産の中で自宅の売却も購入価格の半分ほどの価値となってしまうのは致し方ない。幸いと残高よりそれでも売価の方が高いことが救いともいえるかも知れない。売却損の計上で来年度は税金の還付が行われると思われる。売却損は500万円ほどになるだろうから税務署にとっても税金還付は致し方ないことだろう。来年の税金還付を細君は当てにしてパソコンのリニューアルを画策しているようだ。借金を考える肩の荷を下ろしてくれたのは細君だったかも知れない。

不動産価格の下落傾向がバブルの結果だとすれば、何もせずに高まっていったこうした資産価値というもの自体は流動的な日本の景気の指標だったかもしれないしあがり続けるはずの無いものが破綻したのは致し方ないだろう。都内を毎日のようにテスト走行を続けているのだが、新しく華々しく立ち上がったビルと共に町並みにビルごと破綻してしまった幽霊ビルも多くなってきた。ビル横の広告も会社名から貸し会議室のようなものに変わってきている。バブリーとも映っていたホテルでの会議室を借りて行ってきたQuad社のトレーニングも、昨年からこうした貸し会議室を借りたりしている。無料で開くこうしたトレーニングに対して社内研修のような意識で新人を送り込んでくるというような状況がメーカーの方には見え隠れしている場合があったりしていたからだ。まあ食事・コーヒー付というスタイルで運用してきたトレーニングを時代に合わせていくという意味も含めてよかったのかもしれない。

借りた貸し会議室ばかりのビルは店子が居なくなった古いビルで、渋谷の駅からのアクセスは便利だった。幽霊ビルのような状況は随所に見られて不用意にもたれ掛かった防火扉が止まらなくなってしまったりしたのもご愛嬌だった。借りた貸し会議室は昼間は持ち込み機材などの保全の意味も含めてロックアウトする必要があった・・・。今までのホテルでのトレーニングで配布されるありきたりのサンドイッチを食べることよりは好きなランチを各自が好きなチョイスが出来てよかったかもしれない。床や壁が傾いたような気がする、こうした古いビルの横にはマークシティの新しい高層ビルが出来上がっていたりするのは、なんだかな・・・。お客様たちは、マークシティのレストランでランチを取ったりしていたようだった。相互補完は果たされているのかもしれない。私などは手弁当だったので、お茶を買い求めてデパートの屋上で食べることに相成りました。肩の力を抜くのは必要なことである。

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業界独り言 VOL211 3GPPへの疑問と求人

QUAD社の本社には、T君のようにスタンフォード大学の大学院からストレートに就職してくるケースもあるのだが、QUADジャパンのオフィスでは中途採用しかないのが現実だ。直ちに実践で使えるひとに入っていただく必要があるという建前と、教育の仕組みが全て米国サイド中心になっている現実とがある。ソフトウェア開発支援というお仕事に従事している仲間は、みなメーカーでの通信機器開発関連の経験者ばかりである。無論QUAD社のお客様だった人も4割はいる。そして、ソフトウェア技術者として支援の仕事をしている仲間達は、みななぜかヘッドハンターを通して入ってきた人ではないというのも現実であり興味深いことだ。

ソフトウェアという仕事が見えない性格の仕事であることも手伝うのかもしれないが、エージェントに求人探索を依頼して送られてくるレジメを見ていてもピンとくるようなケースは殆ど無い。したがって読み捨てになってしまう。無論Quad社にはホームページで直に求人広告も打っているので、かかれている内容は同じなのだが・・・何故か申し込んでくる候補者(ただしい訳なのかどうかは不明だがCandidateの事)の質というか意識は異なるようだ。見知ったお客様の中でモチベーションの維持に苦しんでいる先端技術者がいれば、仲間達や営業サイドからも声がかりがあったりする。また何故かお客様が転職してしまったさきで、また同じ仕事を続けてお客様であったりするケースもよくあり、この業界は狭いものである。

同一業界に居ながらお客様の間を互いに技術者が青い芝生を求めて異動していくのは不思議な気がする。移っていった技術者が移った先を「青い芝生で満足しました」というのなら、問題はその人が所属していた組織の瞬時値の問題だけだったのかも知れない。悩むひまも無く、仕事に忙殺されていて気が付けばその忙しさの根底となっていた仕事が無くなったりしている事態もあるかもしれない。せめて、自己の携わっている仕事の世界観を確実なものにしたうえで仕事をしていくのが技術者としての務めだと思う。工場や事務所の屋上が立ち入り禁止になったりする現状を見ていると、そうした世界観を持たずに一方的に会社に身を預けてしまっている公務員のような感覚の仕事のしかたをしているのかしらと首をひねるのだが・・・。

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業界独り言 VOL210 勤続疲労の行く末は

世の中は、ゆとりを求めて一律な勉強を目指さないことを奨励して自らのゆとりを持たない先生たちにはさらに、子供に対してオーバーワークをしながらゆとりを教えていくという矛盾を課した。そうして制度だけが先行して、時間や単位をすり減らし学校生活の先に待ち受ける社会生活とのギャップは、ある程度は大学受験という課題クリアということで維持しつづけていたようだった。しかし、大学生活にも受け入れがたいような状況の学生を受け入れざるを得ない状況を作り出し大学で補習しなければならない状況だとか。また、大学から社会に巣立っていく場合でも会社側で受け入れがたい状況を作り出して再教育をしているのが現実のようだ。マニュアル社会を標榜した結果なのか、学生たちが勤められる先はマクドナルドかデニーズのようなマニュアル本の徹底している組織にしか入れないようだ。

企業が自らの手で中高一環教育をしていくという姿をみたり、新卒就職不況の背景には働きすぎた過去の日本の高度成長時期からのギアチェンジを教育の手抜きという側面にだけ課したことが大きな要因だったのだろう。イデオロギーばかりにこだわる教育現場に近い人たちにしてみれば若者の意識改革をしたいという戦略もあってのことだったのだろう。目指したい理想の姿を共産主義的な姿に置いている人たちからみた日本の付加価値の低落傾向についての認識のなさが、そもそもの発端だろう。高度成長時代には確かに悪いツケもあっただろうし良い蓄えもあったはずだ。ツケの支払いのみに注目してリラックスした生活を目指した結果は、厳しいとも映る現在に繋がってしまったようにみえる。流れに身を任せるままに暮らせてしまった時代に清貧の思想も何も無く流されてきたものたちが企業の中核になる段階でバブルは破綻してしまった。

無論バブルとは無関係に、海外で学生生活を終えて、そのまま仕事に就いていた技術者たちも居る。最近雑誌で紹介されたQuad社でのT君などは稀なケースといえるのかもしれないが、彼を見ていると「日本の技術者のスキルを貶めているのは会社の組織そのものなのではないか?」という気にすらなってくる。組織の変革を求められているままに変身しきれずにダッチロールしている感のある日本のメーカーの現状で苦しんでいる様と、まだ31歳の彼がディレクターとして製品開発の陣頭指揮をとりつつ技術開発に取り組んでいる様には大きな溝がある。彼を見ていると日本人は捨てたものじゃないということを再認識させてくれる。しかし、現実の日本企業の中で組織の壁に苦しんでいる知人達は、孤軍奮闘して新規事業や技術開発を進めようという自己意識と現実の組織の壁に阻まれて自分自身のモチベーション維持すら困難という状況を甘受している風景に出くわす。

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業界独り言 VOL209 Part5 無線から組込みソフトへ

コンパイラーSDK編

組み込み開発環境が自分の手元のパソコンで動作し始めたのは、ある意味で凄いことだった。それまでは一億円もするスーパーミニコンでしか動作出来なかったCコンパイラが使える速度で小気味よく動作する机上のマシンはエプソンの98互換機のミニフロッピー版モデルであった。20万円ほどで当時導入できた640kBのメモリ搭載と2FDDというモデルにHDDを付けてコンパイルが出来るようになったのは凄いことであった。IBM-PC主流の開発ツールの世界にあって日本標準機に向けて開発ツールを移植して呉れた導師の成果は組み込み市場にとって凄いことだったのではないかと私は思っている。TurboPascalで開発環境に一大ショックを起した後にTurboCを投入して開発環境を必要とする現場にあわせた米国並みの価格で提供してくれたことが大きな一石だったと私は認識している。DOSにより実用的なサイズのコンパイラーが使えるようになったことは私にとってようやくコンパイラを実感する時代でもあった。19800円のTurboCの事実は、強烈なメッセージだった。

実は、私が個人的にコンパイラを買ったのはTurboCが初めてではないのであった。時代的にさらに遡り会社で8ビットパソコンが流行したことがあった。この際にシャープのキットを購入してキーボードの半田付けを楽しんだ後はBASICインタプリタの改造に励んだりしておもちゃのようなメカプリンタを接続して遊んだりしていた。さらに個人的に精工舎のワンドットプリンターなる安価なプリンターを購入してシャープの純正プリンターと同等に動作するようにBASICインタプリターの中身を改造するということを趣味の範疇でやったりしていた。逆アセンブラーで解析したコードにパッチを当てるという今から考えれば怪しげ極まりないものだった。シャープの販売代理店の目にとまり、買い上げてもらったのだがすぐに精工舎からシャープ対応品が販売されておじゃんになったようだ。小遣い稼ぎになったので、キャノンの一眼レフカメラを浮いたお金で購入したりしていた。そんな中で、フロッピーベースの環境などを利用しつつもまともなOSとコンパイラの利用には興味深々ということもあった。

シャープのMZ80から富士通のFM8に乗り換えたのは、漢字表示が出来たりといったことやカラーということもあったのだが、究極の8ビットマイコンと呼ばれていた6809の為に作られた、このチップのパフォーマンスを評価する目的で作られたBASIC09という高速ベーシックがあり、この機能などを使いこなす上で当時のモトローラ系OSとしてあったFLEXといったOSとは一線を画するマルチタスクのOS9というものが提供されるからでもあった。このOSをFM8で動作可能にするための周辺ユニットなどの一連製品を売り出したベンチャーがあった。ボーナスや蓄えの費用を大枚投じて50万円もの当時としては高額な現金を懐に入れてアキハバラに乗り込んだのだが、当時たまたま来ていた従兄弟には「次郎君が50万円抱えてキャバレーに行くといって出かけていった」と聞こえたらしかった。まあ確かに大金だったのだが、OS9という先進のOSに触れる経験はある意味で変えがたいものだった。確かにTSS環境のように8ビットマイコンが振舞ってくれたのである。マルチウィンドウが確かに動いていた・・・。

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業界独り言 VOL208 Part4 無線から組込みソフトへ

大きな会社で組織の壁に阻まれて変わりたくても変われないでいるという人がいる。お客様の立場を駆使して仕事を得てうまく会社の方向性を変えていこうという動きにはなれないのだろうか。次の一手を読みつつ自己修正をしながら取り組んでいくという姿が必要なのだと思う。トップメーカーとして果たすべき役割を認識して、時代を捉えて次代に繋がる開発をしていくという観点で見た場合に技術と営業の接点は限りなく密接な連携を取るべきだ。一時代をなしたリーダー達が、営業費用を散財していたという非難は的を得ていない。彼らは投資のための情報収集に投下していたのである。結果として得られた情報には、正しい方向性と必然性のやり取りの結果として入手してきたことにより意味を持つのだが、そうした意識なく取り込まれた軽薄な情報では会社の方向性を見失ってしまうだけだろう。

過去を振り返るシリーズが続く中で、アセンブラーベースの開発から高級言語に移行していく過程で考えて取り組んできたことについて記していく事には幾ばくかの意義があると考えてのシリーズ化となっている。大規模なシステムとなった分散マイコンによるシステム開発の成果はアセンブラーベースであった当時でも、隙間産業としてコンピュータメーカーに対抗しうる製品をくみ上げられることを教えてくれた。アプリケーションを開発する意識の人たちにトランザクションベースのソフトウェア設計を考えさせることの難しさもあったしアプリケーション設計とシステム設計といった階層の違いについて肌で体験することが出来てきた時期でもあった。機能が、高級化するなかで細かい対応をアセンブラーベースで追いかけていくことが難しいと感じつつもC言語でのコード効率やデバッグなどには手が引けている実情もあった。

そんな状況下でトップが示した新環境・開発スタイルへの移行ということについて成功した理由は、次のようなものではなかったか考える。新環境(UNIX)利用者への便宜を図り、旧環境の拡大を禁止する。新環境利用者のフィードバックを推進していく、支えていくためのチームを作る。次世代の若者を最初から新しい環境で育成する。ディープでコアな開発を新環境で進めさせて開発スタイルでの問題点を洗い出していくといったことである(であったらしい)。当事者という立場で、私はコアな開発をしていた。ツールが無いので自作しながら臨むというのがUNIXのスタイルであり文化でもあったようだ。毎日のように開発ツールを作りつつ実際の開発を進めていった、どちらもC言語で書くことにより言語への習熟にとっても意義のあることであった。

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業界独り言 VOL207 続々 無線から組込みソフトへ

待ちに待ったDVDが発売された、ダーククリスタルである。オリジナルの映画は83年のファンタスティック映画祭のグランプリをとったものである。83年というと約二十年も前のものであり、当時は新婚ほやほやの状況で最新のメディアであった30cmのレーザーディスクをVTRも持たずに購入していた。そんな状況であったのでダーククリスタルの作品はLDの作品として購入してみていたのだった。リアルタイムに映画館で見た記憶は無い。実は結婚当時、とんでもない状況下で生活していたのでそうしたゆとりなどこれっぱかしも無かった。結婚式を予定はしていたものの当時は両家からの連絡がつかないような状況で生活していた。家にも帰らず、会社と近くのホテルの間を行き来しつつ最後の詰めをしていたのだった。そんな時代を思い出させた当時のマリオネーションとも形容のしがたいファンタジーな映画だったのだが年月の経過でか、レーザーディスクが再生不能な状況に陥ってしまってDVDでの再来を待ち望んでいたのだった。

そんな思い入れのある映画を細君と見ながら、ようやくこの映画の当時の状況などをメーキングシーンなどから知ることが出来たのは、また素敵なことだった。コンテンツとしての形態がアナログ時代のレーザーディスクと現在のDVDのそれとでは大きく違っているのだが、当時のLDの中のブックレットを取り出してみると写真と文字で書かれていたものが、今回のDVDでは動画として記録されていた。20年間の技術の進歩発展は凄いと思う反面、こうした映画が作られなくなってしまった状況は発展とは呼べないようだ。この映画は構想から五年かけて様々な人たちの出会いとで完成に至ったと説明されているが、確かに当時の最新の技術で作られた撮影方法は斬新である意味で日本の円谷プロの怪獣たちと同系列なのかと考え込んでしまったり、映像の凄さはなぜこの迫力が作られるのだろうかとも改めて思い直してしまったりもするお奨めの映画でもある。

さて、そんな20年も前の自分はと言えば、駆け出しの技術屋から中堅のまとめ役への変身を迫られる中で分散マイコンシステムのシステム開発をしつつボードのネットワークドライバーを開発していた。目指す目標は、小型コンピュータシステムをマイコンで置換するこという大胆不敵なプロジェクトだった。システム商品といえば、以前であれば系列のコンピュータメーカーのミニコンに手足のI/Oをつけて作るのが関の山であったのだがカリスマのプロジェクトリーダーが提案したのは圧倒的な斬新なものというコンセプトでもあった。自動車電話のプロトコルや端末としての機能実現に心を割いていた時代を駆け出しの頃に過ごしていた自分を社内でのトレードで移籍させられた先では、趣味では使用していたZ80の世界に踏み出すことになり端末での68系列との対比が自分としては端末とシステムの違いでもあった。ソフトを守備範囲としているものにとってハード中心の世界での常識に少しずつ工夫を加えていくということが楽しみでもあり自分の存在理由だと考え始めていた頃でもあった。

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業界独り言 VOL206 夢のシステム作りへ

IPリーチャブルな時代を迎え、「安価なコストでビジネスチャンス拡大がいかようにでも可能」という時代に突入したと見るのは早計なのだろうか。既にアマチュア無線などでは法改正も終えていわゆるインターネットパッチを実現しているようだし、核となる技術はオープンソースの隆盛が、PCハードに限らず組込みLINUXなどまでも実現する状況となり電力問題なども解決を見ていると映るのだがいかがなものか。十数年昔に登場した当時のZ80互換チップセットが産み出した夢のボードが未来の姿を予見させてくれたように、今では自由なソフトとハードでシステム構築が意のままに出来るという時代となっていると思うのだ。人智の及ばぬ状態が大好きなのか、幾種類ものバベルの塔を作りつづけるように見える姿がシステム業界の一部にはまだ見られるようだ、しかし、彼らの言い分はこうだ「いつ無くなるとも知れない部品を使ってシステム開発などは出来ないんだよ」。

自分達の開発した基板を大事に抱え込み、積み上げたソフトウェアを保守していくためのリソースをあてがいそれでもハードを構成する部品の廃止などによる代替品種を捜し求め維持していくというのが長期保守という概念を持つシステムの開発スタイルだ。開発コストと部品コストそして供給責任の面から考えると致し方ないのだろうか。日本人という最も高いコスト部材を使って設計や旧品種の生産維持を続けていくことがコスト高を呼んでいるのではないだろうか。さて、そんな状況とはまったく別の理由から日本国からの要請でオープンソースなシステムにせよという方針などが打ち出されてしまった場合には二の句も無く変えなければならないのだろうか。無論システム商品すべてがオープンソースなOSで構築出来るわけではないだろうが組込み専用のOSとの組み合わせでもって開発が為されるのだろう。

消費電力を抑えるファンレスでシステム構築するために工夫配慮してきた世界に突然ファンやクーラーが必須といった状況に飛び込むわけにも行かないのだろう。家電品への組込みを志向してきたx86互換CPUなどを見ているとそうした状況の掛け橋になってくれそうな気もしてくる。ようやく手元にある台湾製のそうした小型マザーボードなどを見ていると、そんな時代がやってきたなと思わせる。同じ品物を維持していくという考え方には相反するものがあるのかも知れないが、同じ機能をソフトウェアあるいは同一のインタフェースを通じて提供していこうというのがこうしたシステム作りでのポイントだろう。組込みLinuxなる世界も登場し始めてきていて、SDRAMなどの利用をベースにしてコストダウンと高性能の両輪を回そうとしている部分もあるだろう。携帯などでもSDRAMの利用が始まってきた、コストと性能の両面から出てきた話しでもある。Flashの置き換えとしての位置付けともいえる。

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業界独り言 VOL205 認識の相違

旧い話しで恐縮だが日本政府の話としてオープンソースで行こうという方針が出てきているようだ。デジタル家電時代に米国OSの台頭を許してしまうと国として破綻するというのだ。さて、同一条件でやっている韓国や中国に対しての優位性というものが果たして日本にあるのだろうかという話を基点にしているようなのだ。オープンソースの使いこなしなどについても、日本に優位性があるということは無いし単に自国の設計生産コストの比較論に陥ってしまうのであれば、それも根拠がないように見える。日本人のみが開発に日本語を利用している実情や技術を志向しない若者達を導出した今までの政策の結果が足を引っ張っているように見えるのだがいかがなものか。

中村さんのLEDにしても、旧くは三極鉱石の時代でも日本という国が突出を認めないという文化感情があることに起因しているのではないだろうか。いくらアイデアを出しても会社が認めずに特許足り得なかった事例など幾らでも挙げられるのではないだろうか。サブマリン特許におびえる現状と、逆にそうした特許を出せずにいた今までの国策にしても会社の方針なども幾らでも反省すべき点があるだろう。セキュアOSの調査研究という予算が大金の5000万ドルを用意したと聞いて、なかなか本気なのかなと思ったりしたら実は誤解らしく5000万円の間違いだったようだ。調査研究とはいえ何ができるのだろうか、恐らく調査研究会が開かれるホテルの会議室代で消えてしまうのが落ちなのだろうと思っている。

先を見据えた開発や研究投資といったものを進めていく風土を島津製作所の田中さんに乗じて作り上げていこうと言うのもいかがなものだろうか。今の時代を構成する人たちが、戦略も無いままに韓国と中国にやられまくっているのであって米国にやられているのではないという認識をもってほしいものだ。無論LDを開発したパイオニアが特許の継続する限りでの次期技術開発に傾倒してナビ開発に走った事例などもあるだろう。無線機から通信業界に入り込んでいったベンチャー企業も昨年限りで社名返上をしてしまったりもしている事例もある。ベンチャーが次々と技術を出しつづけていくことは困難なのだろうか、ベンチャーがベンチャー精神を忘れてしまうことに問題があるのではないだろうか。安住の路を模索するようなバブルの毒が、技術者や経営者の色々なところに回っているような気がしてならないのは何故だろうか。

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サンディエゴ通信 VOL23 「嵐を呼ぶ男?」

今は6月始め、早くも今年4回目のSD出張である(書き始めからまとめるまでに、3ヶ月以上かかり、結局は10月なのだが…)。日曜出発一週間の予定で、SDを訪問されるお客様へのアテンドだ。

火曜日の夜、お客様と一緒に、おなじみの居酒屋「さくら」で夕食を食べていると、日本から携帯に電話が入った。マルチメディア関連で、いつも二人三脚で仕事をしているシスターJからだ。「東医研さん、実はお客様が、来週どうしても Boulder に行きたいと言ってるんだけど…」と切り出してきた。「何を言おうとしてるかわかるわよね?」という問い掛けに対しては、「まあ一応!」と答えるしかなかった…。Boulderは、コロラド州の州都 Denver の北西に位置し、ロッキーマウンテン国立公園のお膝元の都市である。また、コロラド大学がキャンパスを構える学生の街という面も持つ。ここBoulder には、Quad社の小さな開発拠点があるのだ。水曜日にはBoulderオフィスからも、受け入れOKの返事があり、Boulder 行きが確定した。日本のセクレタリに連絡を入れ、移動のフライトと向こうでのホテルとレンタカーのアレンジをお願いした。月曜日の移動になるので、SD の週末滞在分も延長しなければならないが、こちらは自分でやる事になっている。

ホテルの延泊はフロントに電話をして、あっさり OK となった。次はレンタカーである。契約書の指示に従い、車を借りた Budget の SD 営業所に電話をかけた。自動応答のメッセージに従ってキーを押していくと、最終的に Voice Mail システムに繋がった。契約書番号や連絡先、最後に延長したい日数をメッセージで残せというのでその通りにした。あまりに簡単で「これで、終わり?」という感じだ。若干不安になったが、返却時には何も言われなかったので、多分大丈夫だったのだろう。

さて、このところ、一度に訪問されるお客様の人数が多く、ミニバンを借りる事が多い。最初は、大きな車を運転する事に対して、かなり不安を覚えたのだが、実際のところ車の大きさを意識するような事態は殆ど無い。こういうところは、やはり車社会のアメリカである。今回も、ミニバンとして予約したのだが、結局借りられたのは、大型 RV の Explorer だった。乗客が多いせいもあって、いつもよりも気を使う運転ではあったが、久しぶりに RV 独特の乗り味を楽しませてもらった(以前はRV乗りだった)。

ただ、閉口したのは、燃費が非常に悪かった点だ。いつもならば、一週間でタンク半分ちょっとしか使わないはずなのに、今回は金曜日の夜の時点で、燃料警告灯がつき始めた。翌日は、二班に分かれて帰られるお客様を空港まで送らなければならない。空港まで二往復は到底もちそうもないので、仕方無しに夜のうちに給油をしておく事にした。現在カリフォルニアはガソリンが急激に値上がり中で、年の初めは、ガロンあたり $1.79 位だったのが、今は、$2.25 と三割ほど値上がりしている。結局、満タンで$50 を越え、かなりびっくりした(原稿を仕上げている10月は、さらに値上がりし$2.50を越える状態だ)。一方で、次週の Boulder では、まだ $1.79 位であった。このような違いは、州税の差が原因との事だった。

お客様がお帰りになった後は、お楽しみの週末である(こちらの話しは、別編にしようと思う)。ただ、日曜の夕食は、小窓師匠が来週滞在の別のお客様を連れてSD に入るので、そのお客様と夕食をご一緒する話しになっていた。

月曜日になり Boulder へ移動である。普段使わない United Air での Denver に移動ということで、例のスペシャル・セキュリティ・チェック “SSSS” マーク入りの搭乗券だった(安全のためだから、しょうがない)。手荷物を検査機に通すと、担当者が「ケーブルがやたら入っている」とぶつぶつ言うのが聞こえてきた。東医研も小窓師匠同様に(さすがに、Ethernet HUB までは持ち合わせないが)何処でもオフィスを持って歩いているのだ。大量のケーブルに関しては、追求される事も無く、SSSS のお決まりの、金属センサーでのチェックと手荷物を開いての検査で済んだ。

Denver までは、陸地の上の飛行である。SD を出ると、直ぐに荒涼とした砂漠のような赤茶けた風景になり、それが延々続いた。残り30分(SD から Denver までは、2時間半のフライト)というあたりからはロッキー山脈の上になったが、雲が多くかなりゆれた。そして、まだ、山脈の上だというのにどんどん高度を下げていくので、ちょっとひやひやしたが、山脈が切れたと思った瞬間、前方にはDenver 空港が見えてきた

空港内のAVISのカウンターで手続きを済ませるとバスで広大な駐車場に連れて行かれ、自分の予約した車の前で降ろされた。空港からは、一時間ちょっとのドライブになる。空港を離れると、西にはロッキー山脈(山の上部は雲で隠れていたが)が見え、東は広大な本当に何も無い平原という風景である。車を進めるうちに、山にかかる雲の下で、稲妻が走り始めた。やばげな雰囲気である。Boulder のダウンタウンを通り過ぎ、すごい田舎道を走りつづけた後、Quad社の開発拠点のある小さな町についた。

Highwayという名の田舎道Quad社開発拠点

Quad 社の開発拠点の場所を確認した後、そこから車で3分ほどの宿泊先の宿にチェックインした。Quad 社の開発拠点のあるブロックは、ベンチャー系の企業の集合しているリサーチパークのようなところであり、隣は Ericsson、向かいは Kyocera という大手企業であったが、それ以外の二十以上の企業の名前には全く見覚えが無かった。以前、金沢の先端技術大学院大学の近くにある、ベンチャー企業にスペースを貸している建物に出張で行った事があったが、ここも、コロラド大の近所という事で、このような場所が設立されたのであろう。

宿泊先のホテルは、ニュアンスとしては民宿で、部屋数も少なく、住み込みの inn keeper がいるようなところである。そこで、応対に出たのは、腕にタトゥをいれたリーゼントのロッカー風兄ちゃんだった。親切に応対してくれたので良かったが、街中で出会ったらちょっと避けて通るかもしれない。金曜日の夜に会った際には、黒の皮ジャン・皮パンツという完全武装であり、やはりそっち系の人だったようだ。チェックイン後は、早速近所のモールのスーパーまで地図を買い込みに行った。ところが、ホテルに戻ると、急に頭が痛くなってきた。天気も、激しい雷雨になってきたので、「今日は夕食をご一緒できない」旨お客様に連絡を入れ、何もせずにさっさと寝てしまう事にした。

翌朝は、頭痛もおさまり食欲も出てきた。どうやら、1700mという標高に一時的に高山病状態になったようだ。TV のニュースによると、昨晩はDenver近郊で、Tornade が8個も発生したとのこと。結果的に昨晩の選択は間違っていなかったようだ。ある日の夕方にテレビを見ていると、急に「ピーガリガリ」というモデムのような音がし出した。放送事故か?と思うと、放送の音声が途切れ、画面の上部に 「Tornade Alart : ○○ county と×× county でトルネードが発生しています。この警報は8:45 まで有効です」というテロップが流れた。緊急災害放送である。そういえば、空港でも、トイレの入り口に Tornade Shelter の掲示が掛かっていたのを思い出した。一瞬、頭の中を映画 Twister の場面よろしく宿や自分の車が空に舞い上がる映像が頭をよぎった。発生地点の county は、Denverをはさんで Boulder の反対側ではあるが、その晩も食事に出るのをどうしようかとしばらく悩むこととなった。

結局滞在中の一週間は、ほとんど毎日雨で、夕方 Thunder Storm という天気が続き、最高気温が摂氏10度にいかないような気温だった。実は、このような天気は非常に珍しいらしく、年間300日以上が晴天で、夏は暑い日が続くというのだから、現地の人間は相当びっくりしていた。結局、東医研がDenverを離れた土曜日の午後ぐらいから、天気が良くなったという話しを後から聞いた。

初日に昼食を食べに行った近くの街並み後の日は雲が低く垂れ
込めてました
Denver airportの建て屋は
吹けば飛ぶよなテントでした

話しは変わるが、火曜日の夕食で入った、Sunflower というオーガニックレストランで、いきなりウエイトレスが日本語で「いらっしゃいませ」と切り出してきた。さすがに、流暢な日本語とい訳にはいかないが、「飲み物、どうする?」、「注文、決まった? もすこし待つ?」等、いろいろなバリエーションを繰り出してくるので、ちょっと驚いた。(「学校で習ってんのよ」という答えを期待して)「どこで、勉強したの?」と聞くと、「サイパン」という答え。どうやら、しばらくサイパンで過ごした事があるらしい。「あそこに来る人の90%は日本人なのよね」言っていたが、確かにその通りである。昨年の夏休みを過ごしたグアムも似たりよったりで、げっそりしたのを思い出した。初海外出張の時は、日本人が居るとホッとしたものだが、最近は日本人を見てもほっとするよりも、ちょっと避けたいなと思うようになってきた。ちょっとはグローバル化できたのかなぁと思うのだが、食事だけはどうしても日本食から離れられない。こちらは、グローバル化とは別次元で、単に歳をくってきたからなのだろう。

Boulder での食事は、内陸だし、(日本人が多いとは思われないので)日本食レストランも無いだろうと、全く期待していなかったのだが、Sunflower で食した、「期間限定のアラスカサーモンのグリル」は、絶品の「とろサーモン」だった。学生の街であり、リゾート至近の街でもある事から、食べ物に関しては、大雑把なカリフォルニアよりは洗練されているようだ。

さて、Boulder は、晴れていればかなり景色が良いところだそうなので、今回は非常に残念だった。スキー場も近くにあり、スキーシーズンに合わせて出張を組みたいと思う反面、やっぱり無理かなとも思う。それは、実のところ、お客様が来ると、開発が完全にストップするという理由で、Quad 社 Boulder のメンバーはあまり歓迎してくれていなかったように感じられたからだ(前職の会社で、当事者として悩んだ、開発とサポートの両立という課題が、Quad 社に移っても、付いて回っている)。恐らく Quad社 Boulder の面々には、いろいろな意味で、嵐を呼ぶ男として映った

業界独り言 VOL204 続 無線から組込みソフトへ

組込みソフト開発という新しい分野の黎明期からの取り組みには、参考となるものは自分達の手で準備していくべきものが殆どだった。試作の自動車電話に続いて開発テーマとしてもらったのは商用自動車電話の改版だった。仙人のような先輩達の労作に手を入れるなどとは、設計データは回路図のようにスペーシングチャートに書き込まれた処理フローにアセンブラーで掛かれてはいたものの実際のソースコードというファイルは存在しなかった。そう、機械語で開発されていたのだった。開発環境だよと示されたものは、コアメモリーを搭載したミニコンピュータとケーブルで繋がれていたブレッドボード、そして繋がれていたのはお手製デバッガコンソールであった。

当時の初期商用モデルで採用されていたマイコンは、当時の戦略部品ともいえる16ビットマイコンであったのだ。このチップはミニコンピュータからのサブセットのようなアーキテクチャで設計が為されていたのでデバッグのための機能としてアドレス一致停止とステップ動作のための機構がマイコン内部に用意されていたのであった。こうした機能を利用してデバッガコンソールはピアノスイッチをつけた私にとっては親しみの持てるものでもあった。ブレッドボードへのソフトウェアのローディングはミニコンピュータ経由でDMAで行われような機構になっていたのだった。まさに今のICEの原型のような機構が厳然とそこには作りこまれていた。

ミニコンピュータのコンソールパネルでコアメモリの修正を行い、ミニコンピュータの小さなソフトを動作させてそのクロスターゲットのデータをダウンロードするのである。トータルで8KWのコアメモリのうち4KWがクロスターゲット用のデータ領域として使われていた。自動車電話の端末開発として必要なものにはエアープロトコルを動作検証するための基地局も必要となり擬似基地局装置もあわせて開発されていたのだが部屋の横のラックに組み込まれた別のミニコンピュータとお手製の無線機三台とで各チャネルのデータの送受信が出来るようになっていた。この電機メーカーとしての戦略的な開発の位置付け窺い知れる途方も無い開発規模だったとも言える。

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