業界独り言 VOL340 携帯電話業界という形態

気がつけば師走です。先月からほとんどブログとしての体を成していないことに反省する次第です。さて携帯電話業界の片棒を担いでいることから色々なご意見を頂戴する中で実務としてもいくつかの可能性方向性の中で仕事に取り組んでいるわけです。さて携帯電話プラットホームという耳当たりの良い言葉があります。従来であれば、各メーカーが自分たちのオリジナルなものとして各キャリア向けに開発提供してきたモノでした。昨今は、各通信キャリアの仕様増大と、端末需要の伸び悩みから開発コストが引き合わないという袋小路に入ってしまっていました。ソフトウェアの再利用や流通を進めて開発コストを抑えたいという思いに駆られて色々な方策がとられています。

現実問題として直面する流れは、いつか見たテレターミナル開発のようなデジャブであるようにも思い返されつつ時代は繰り返すのか、いつの日も起こる課題は、変わらないのかも知れません。ただ時代が移り巻き込む規模と、国際化の中で進めていく状況になっていることは違います。通信キャリアのご意向を確認しつつの金科玉条の仕様書をひたすらOEMとして理解して商品化具現化していくというモデルの中で費やされてきたリソースは、いつの日か回収できるなどとは考えていなかったはずです。すでに、開発費用としてのバランスシートの中に会社としてのセルライトのような位置づけに経理的には位置づけられていて、そのモデルを適用しないと購買の判断すらも的確に下せないという状況のようでもあります。

さまざまな意向やビジネスを志向しているキャリア間の競争から、ものづくり集約化を図り、日本発のレファレンスデザインを仕上げて国際的に通用するコストダウンの流れに少しでも近づけたいという高邁なスタイルなども様々な形で進められています。すでにOEMが自発的に取り組めるテーマではなくなってしまっているようです。匠の世界で積み上げてきた独自の日本の携帯電話の世界を、リンゴの木の下で見直すことになってしまっているのも不思議なものです。かつて、国策をあげてプラットホームづくりとして取り組んできた国産ソフトウェアの意識など、蹴散らされて積み重ねられた年月から、現在の技術者の意識にもないように見えているかも知れません。

携帯電話というソフトウェアの塊を、仕上げて出荷しうる状況にしていくのには、もはやOEMの力だけでは見通しも出来ず、キャリアの適切な指導のもとに実用性の観点での入念な確認に基づいて出荷判定しているというのが実情なのでしょう。一貫した使い勝手を蓄積強化していくという強固なフレームワークの達成という世界観、あるいは使命感というものを維持していく強い気持ちが必要なのでしょう。共通プラットホームという掛声や、オープンな環境で開発提供される西海岸の響きやら、リンゴをかざす悪魔の呼びかけなど様々な誘惑が、またOEMとキャリアにも影響を与えている混沌とした状況です。誰しも急に明日から世界の価値観が一転してしまうといったターニングポイントに至ることを不安に思いながら、そこそこに付き合っていくという状況が見え隠れしています。

現在をリセットしたいという麻薬のような内なる思いと、現在との互換性の先に積み重ねたい拡張された未来という矛盾したモデルを突き進んできたOEMメーカーが陥ってしまった袋小路をキャリアが手を差し伸べて対応しつつあるのは、いずれのキャリアでも同じような状況でしょうか。いったん成果ができてからの対応こそが、その開発モデルの成否を表わすキーポイントなのだと思われます。台湾に頼むもよし、リンゴをかじるのもありでしょう。オープンソースでJavaで作り直すのは良いかもしれません。気がつけば隣国の開発スタイルにも追い抜かれてしまっているのは、いかがなものでしょうか。

ここに幸あり

恵比寿のガーデンシネマまで、出かけた。何を思ったのか何も考えずにチケットを購入して割引申請を忘れてしまい1600円ほど無駄にしてしまった。ちなみに細君は気付いていない。せっかく二人で出掛けてきたのに割引1600円を無駄にしたのは痛かった。
「ここに幸あり」、フランス映画は、久しぶりです。ミニシアター系の映画と邦画が我が家の映画デートのパターンですので・・・。同時別シアターで上映していたのは、ダークファンタジーの「パンズラビリンス」でした。こちらは、前回チネチッタでカバーしていました。大臣の失脚から人生を逆に楽しんでしまうということに陥っていく様が実に肩の力を抜いて楽しませてくれるものでした。
女装で参加している監督さんの演技も含めて、主人公が誰なのかはっきりしなくなる気もするくらい、この映画はしたたかな大人の女たちと対等に付き合っている主人公のオフ人生がうらやましくも表現されていると思います。最後のシーンに主人公ではなくて、女友達らが母親を中心として楽しく食事をするシーンなのですが、気さくな雰囲気で気づまりのしない様子が、まさにこの映画のメッセージだったような気がしました。
恵比寿から、広尾まで歩くつもりがルートを間違えて、六本木まで歩く羽目になってしまった。細君には怒られるしまことに申し訳ない。途中で一か所曲がり角を間違えてしまい高根町に出てしまったのである。予定では、広尾のスーパーに出る予定だったのだが・・・しかたなく六本木の明治屋で用を済ませて、秋葉原まで地下鉄に乗り込む。目的は小さなエポキシ基板とコネクタ代用品の部品探しである。細君はといえば暇をつぶす別の充てがあるということなので、秋葉原のヴィドフランスでティーブレークした後にそれぞれ別行動。
ラジオデパートの中で部品を見つけて、レトロな関数電卓(HP-25ミニ)の電池収容部の破損箇所の修理方針を立てた。マックエイトのテストピンを横向けにつけて、電池への接点として代用しようというのである。折れてしまったエポキシ基板の部分にはミニ基板を加工して接着することにして、接着に必要なミニバイスを合わせて購入した。

また、涙してしまった

文化の日である。巷では、文化祭やら秋祭りやらいろいろである。仕事の状況は大変な中で集中を続けていく必要があり、気持ちを落ち着ける策として、封切映画の最初の回を予約しておいた。天気もよく、文化的なことに没頭するには最適な気持ち切り替えの日よりだった。楽しみにしていた映画とは「見えない指輪」の後編・・・ではなくて、続・ALLWAYS三丁目の夕日である。

細君も含めて昭和の時代を過ごしてきたものとしては、心落ち着くこの映画を見て本当に楽しみ、笑い、涙することが出来るのだ。はたして最近の平成生まれの子供たちが同様に感じてもらえるのかどうかは分からないのだが・・・。難病ものお涙ちょうだいの悲恋ものも良いのだが、もう少し家族としての感覚を再認識してもらうといったことを教えてくれるこのような映画が増えてきてもよいのだと思う。

最近の映画の予告編だけでもずいぶん涙を流してきた私なので、細君には笑われてしまうのだが・・・。

BSが映らない・・・?

朝から、実家からの電話攻撃があった。先日設置したプラズマテレビのBSが映らないということだった。 地上波デジタルのアンテナ工事を電気店に依頼していたので、その時にでも思っていたらしい。一週間が我慢の限界だったということでもあるらしい。まだ、懸案の電気店からの確認電話も工事の連絡も入っていないということが事実のようだが、困っているらしいので出かけることにした。昨日の台風で影響があったのかとも思ったのだが、わたしが先週訪問した後から直ぐに陥っていたらしい。わたしが知る限りアンテナの受信レベルもそこそこ出ていたのだが・・・。

挨拶もそこそこにテレビを確認するとビデオの電源が切れていた。配線は、アンテナからビデオ経由でテレビに接続されている。すなわち原因は、BSアンテナへの電源供給問題である。まずはBSにチャンネルをするとアンテナを確認してくださいのダイアログが表示された、さらにビデオの電源を入れると元気にBSの番組が映った。後は、まずはビデオの設定を確認することにしたのだが、電源切断後もBS電源を供給するという設定は見つからず、無操作で六時間で電源が切れるという設定のみを解除して自動電源オフにしないといことにした。最近のBSアンテナは各自から付き合わせ供給をするようになっていたらしく、テレビのBS設定もアンテナ電源を供給するという設定にして、ビデオ電源を切断しても受像することを確認した。先週の説明設置した際の確認が不足していたのはわたしの落ち度であった。

あとはつらつらと自宅に向けて戻る渦中でマリナードの30周年記念ライブを思い出した。そう、今日は、あの元気を呉れる阿里耶のライブがあるのだ。新曲のCDを出されているようなのだが、インディーズ歌手なのでなかなかレコード店では買えないのである。以前は、開港記念バザールのイベント会場でのライブで、一枚購入して残りは、ネットで探し出しながらようやくデビューCDなどをゲットしていたのである。時間の記憶は午後二時からだったので、いったんコーヒー屋で30分ほどホットコーヒーを楽しんでから会場であるマリナード広場に向かった。本来の趣旨からいえばマリナードのエクセルシオールで飲むべきだが、出口の前にある160円コーヒーのベローチェで飲んでしまった。後悔はしたものの、マリナードには感謝しながら、会場に向かった。オリジナル以外にも卒業写真を唄ってくれたのだが、彼女声質からすると今回のイベントからの要請としてやむなしか。

 
曲順は
1 車に乗って
2 卒業写真
3 年に1度の片想い
4 ありがとう
5 でも。。。あったまりたいの

最新のアレンジで「でも。。。あったまりたいの」と「年に一度の片思い」の二つのCDをサイン入りで、かつ握手までしていただき購入することが出来た。

早速自宅で細君交えて聴いたはいうまでもない。

台風をかわしながら

昨年に続いて、文化祭で母校を訪問した。ちょっと天候はあやしかったので傘を持ちだしての小旅行である。横浜東口のバスターミナルからは東京湾を挟んでアクアラインを経由するお得な?バス路線である。雨交じりのなかでの旅行は、高速事故の回避で、ルートは横羽線を通って羽田空港を横断するアプローチとなった。生憎と、海ほたるでの停車はないので長い海底トンネルを抜けたとたんに通過していることになる。風景が真っ白に見えるような状況の雨の中で金田海岸を目指して木更津についた。長い不況のトンネルの先が見えないといった風情の木更津の町はかってのにぎわいはない。駅前が特に寂れている感じがするのは悲しいものである。

禊が済んだと思われる、不二家で挨拶の茶菓を買い求めて学校までタクシーを駆るのだが、学校までのルートにもにぎわいが薄いのは致し方ないことだろうか。あいにくの雨の中での文化祭ではあるものの、地元の子供たちなどが遊びにきたりするのは昔と変わらない様子だった。女子学生が普通になったことや、昨今のゴスロリ服装でのメイド喫茶などを女装したと思しき怪しげな美少女たちが徘徊する魔城となっているようでもある。多くの先生は定年を迎えて、数少ない職員の方たちも来年あたりで総入れ替えになってしまうようだった。毎年顔を出しているご利益で、私はすぐに知り合いの職員の方たちと目線が交わすことが出来、しばし挨拶をすることができた。怪しげな美少年たちも当日は年に一度の父兄面接だというのだ。文化祭に両親を伴って中学生が進学相談に来るような時代になっているのは親が子供に対してかまい過ぎるのではないか。

自分で決めた進学が実務重視の高等専門学校であるならば、たとえ中学生であっても自覚の上でなければ無為な時間を過ごすことに他ならない。まあ、こんな過剰な親たちと同世代の先生が中学で教えているのならば致し方ないというべきか。「ガラスのような子供たち」と職員の方たちが評する最近の学生たちは、四年生まで進級すれば、ひと安心だとか。そこに至るまでに自覚して進路の過ちに気付いて親や教師の責任を言いだして去っていくものもあるようだ。そんなに腫れものに触るように育ててきたのだとすれば、可哀そうだけれど世の中に実務重視で巣立っていく高専のDNAを受け継いでいくことはできないのだろう。先輩でもあり、中三の時の文化祭訪問以来の関係をもっている先生を訪ねて一年分の会話をものの十分ほどに凝縮して互いの近況を確認した。

台風の余波で雲行きが怪しくなる中、気がつけば久しぶりに献血可能期間に遭遇した日本赤十字の看板で採血をしてもらい、いつも変わらぬ比重の状況を確認してお勤めを果たしてくることが出来た。さびれた駅前ではあるものの、ゆいいつあいているコーヒーチェーンが辛うじて学生がこの町や駅を利用していることを教えてくれている。バス待ちをしつつ遅めの昼食をとりつつ台風の中を逃げるように帰った。横浜についてニュースを聞くと、アクアラインも封鎖されたと聞いて判断が正しかったことを確認した。

武道館・・・

お気に入りの一人であるBONNIEPINKの初武道館ライブがあった。赤坂BLITZや渋谷AXでのライブにはいったことがあったので、7000人規模までになったファンの厚さも彼女の最近の活動の充実ぶりを示しているのだろう。今回はWOWOWでの収録も行われていたので、来年一月の放映も外せないということになる。ベスト盤が発売されてからのファン層も広がりを見せているようなので、ますます今後の活動は楽しみである。昨年のライブはNHKで放映されていてDVDにも撮っているので帰宅してからも確認でみることになるだろう。SpaceShowerTVで楽しんできた時代は、彼女のデビュー当時ということにもなるので当時から既に12年もたっていることになる。これは、ゆずよりもお姉さんということになる。 最近の忙しさの中でのストレスが解消される癒しの時間を楽しみ、ゆったりとした気分で飯田橋まで散策して、魚角で細君との夕餉となった。ライブグッズは、ツアーアルバムである。

なつかしい歌声が、CDで聴けるとは・・・・

最近の、ちょっと嬉しかった出来事と言えば、金井夕子さんのアナログアルバムがCDでまとめて復刻提供されたことがある。

改めて、すべてiPODに入れて聞きなおしているのだが、やはりいま聞いても新鮮である。とはいえ、実はアナログ盤もヤフオクで収集しなおして、すでに入れていたので、デジタルで再度入れ直したということでもある。尾崎亜美の曲が主体であり、当時アイドルとはいえ少し不満そうなわがままそうな顔立ちも含めてアイドルデビューの中では気になる存在だった。レコードは当時からよく聞いていたとはいえ、ライナーノートを改めて読んでみて込み入った事情もあったことを理解したりも出来た。年齢的には遅いデビュー故の曲調などのコンセプトを考えた上でのアプローチだったようだ。

また、この廃盤復活路線で見つけたものには、堀川まゆみのエルム通りの少女というのがある。松任谷正隆さんのプロデュースなので、私の好きなゆずとも血筋的には遠くなかったのだなとは最近の出来事からだったりもするのだが。まだ、復刻は決定していなくて予約枚数が到達しないと始まらないというのが難点だが、可能性がゼロではない。とはいえ、実は私もこのレコードは一応持っていてiPODには入れているのだ。シティーポップとでも、いうのだろうが当時はモデルとしても活躍していた彼女が出した、このアルバムも当時の私のお気に入りである。興味のある方は、下記のURLで予約をしてほしい。

http://www.sonymusicshop.jp/detail.asp?goods=DYCL000000060

なにしろ殆ど女性歌手のレコードばかり800枚近く保有していた独身時代のものが必ずしも入手出来るわけではないので私自身貴重なCD復刻版で入手できた幸せな歌手のアルバムはほかにもある。フィリップス時代の大橋純子のデビュー当時の二枚のアルバムも私の新入社員時代になんども聞き返していたものである。これも復刻盤として偶然入手できたし、同時期に聴いていたアイドル路線の讃岐裕子のアルバムもCD復刻版を入手できた。好きな人たちから見ると最近のヤフオクでの価格高騰などが頷ける次第でもある。

3DCGアニメ ベクシル 2077 日本鎖国

今日は、みなとみらいの109シネマズまで、”ベクシル”を見てきました。意外な話の展開で、夫婦ともども、いつのまにやら3DCGの迷宮に引き込まれていました。人によっては日本を崩壊させることで韓国に媚をうる映画だと評する人もいますが、私にはそうは感じられませんでした。

将来、日本がこのようなハイテクで鎖国するという展開になりうるのかどうかは別ですが、現在の日本を見ていると少し鎖国して自立するくらいの気概があってほしいものだとも思います。

さて、みなとみらいの町並みもだいぶマンションが立ち上がってきていて、今日は新しくできたツタヤでお買い物となりました。

実は、その前にランドマークの有隣堂でも相当のお買い物はしていたはずなのですが、経済貢献につながるのかどうかは不明ですが・・・。

業界独り言 VOL339 次世代の携帯電話に期待するものとは

世の中は、UIの新しい使い勝手や、システムオペレーションの姿をある意味で現状打破する形で紹介することになったiPhoneを大きく取り上げている。最近の携帯端末業界では、打倒iPhoneを旗印に掲げられなければ、何も進まないあるいは始らないといったことがまかり通るようになった。つまらない端末を作りこんでも結局とどのつまり時間と投資の無駄になる徒労に終わるということをトップの方たちが認識しはじめたからに他ならない。まともな意見だと思うし、ビジネスユースあるいはエンタープライズニーズといった言い方で呼ばれる仮想階層に向けての取り組みに、業界として市場性そのものに疑念がわいているのかも知れない。

PCの延長線上以上の期待値しか持てないプラットホームにおいて、各メーカーが差別化を果たすための仕組みを提供しうるのかという問いかけに回答が得られていないということでもあろう。もとより電源を切るためにスタートキーを押すという、坂村先生が特徴的に評する点などが根源なのかも知れない。携帯電話というシステム構築を果たしていくとプラットホームとは離れていわゆるBIOSの世界での機能網羅と自立が求められている点などが、もともと互いを補完しあえていない現実なども見えてくるようだ。そうした観点に立って北欧メーカーがOSメーカーを牛耳って自社専用環境としての追求をしていくのは帰結ということでもあるだろう。

バイナリーアプリケーション実行環境の開発の目的が何であったかといえば、よりリソースを要求しない形でのアプリケーション実現が当初のものだったし、開発していたチームが目指していたものがアプリ環境としての自立した開発を端末環境から独立させたいということでもあった。それらが相俟って良い結果を引き出したのは、PDCとCDMAの競争という意味での戦いでもあった。枯れたPDCと揺籃期のCDMAということでプロセッサに要求されるパワーの差異にはアプリに対しての余力という点で後手に回ってしまうという欠点でもあった。幸いにしてリソース遣いをベースとしてJavaサービスを採用せざるを得ない複合ブラットホームと単一プラットホームの構成を逆手にとってバイナリー実行環境として世に問う事になったのである。

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業界独り言 VOL338 携帯電話プラットホームとは何か

プラットホームを提供する立場で、複数のお客様が必要とする個別環境に向けて個別の形で技術提供をしていくということでは技が足らないのである。マイクロカーネル型のオープンOS、シアトルのベンダーが推進するOS、GPLを標ぼうする草の根OSの三つの異なったプラットホームに応えていくことがテーマとなっているのが携帯業界でのある半導体メーカーでの取り組みである。アプリケーションを搭載するという概念において必要なAPIをアブストラクション定義して構築したバイナリ実行環境も、またプラットホームである。

半導体メーカーとしてDSPなどの個別技術の上に、製品としてのプラットホームを構築していくという考え方に立つと共通化という目的でAPIセットを定義してRTOS機能すらもアブストラクションをかけるという技術によりテクニカルコンポーネントとして異なったプラットホームの上に共通のものとして提供していくことを考えていくというのは自然な仕事の仕方ともいえる。仮想化ではなく、実装としての抽象化が果たされていくということになる。アプリケーション実行環境として提供してきたバイナリ環境も、この考え方にそえばシアトルや草の根OSの上でも動作することになる。

世の中のキャリアには、プラットホームに依存しない抽象化したAPIセットでアプリケーションやサービスを共通化するという考え方を提示する動きもある。キャリア間の駆け引きや歴史もあり、理想とする姿として定義したそうした流れが実現されるのかどうかは、まだわからない。ユーザーにしてみれば、使い勝手の良い夢のある端末が開発提供されるなら、なんでも良いわけで現実的だけれど、つまらないソフトしかないのではプラットホームとしては落第だし、夢のある端末やソフトだけれども開発環境が閉鎖的ではこまるのだということも言われる。

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