VOL12 2000年入梅 2000/06/08

初夏を思わせる日差しの中、入梅が宣言されそうである。昨年のヘッドハント騒動からはや一年が経過した。渦中で相談を差し上げた方の訃報が届いた。読み返してみても当時のことは鮮明に思い返すことができる。辛口のコメントをいただく方ではあったが、それだけ親身に話を聞いていただくことができたとおもった。ご恩を返すことは、「継続は力なり」ということであるに違いなく、元気に快活に過ごしていこうと再度誓うしだいでもある。

最近のLINUXの世界は大きく広がりを見せている。クローズな世界での暮らしに懲りた人々や、オフコンなどの美味しい仕事にあぶれた人たちが手に業を身につけて切磋琢磨しているようにも見える姿は頼もしくもあり健康的にみえる。要求されるサービスの速度や機能は既に達成されていてそれを構築するための方法論にのみ終始することが可能になっている。こうした状況でSOHOな暮らしをはじめてネット起業する人たちも多いようだ。こうした要求に応えていくのがSEであるならば100万人のSEを唱えてきた業界から、ムックな資料のみでサーバーを立ち上げてサービスをしていく姿が続いてくるホームサーバーな世界なのであろうか。ムック本を読み漁る高校生SEが会社のサーバーを更新したりしている時代なのだ。新聞や就職情報誌などで華やかに脚光を浴びているSEという姿は既に変容しているのではないだろうか。

セキュリティをオープンソースな中に構築していく、地道にセキュリティホールをつぶしていくことが、やがてムック本として集大成された情報をさらっと読みふけって実現してしまう若い力でコストダウン実践されてしまう・・・。そんなコンビニエンスな時代なのかもしれない。

エンベデッドな世界は、やはりオープンソースな世界なのだろうか。各社毎にソースアーカイブを構築して自社のアーキテクチャを構築しておられるようにも見受けられる。最近流行りのブラウザ組み込みやかっての赤外線からブルーテュースまでも含めて自由な部品を構築しつつ無線携帯端末としての基本性能をギャランティしているというのが、その姿なのであろう。無論ITRONの時代でもあり、各社でこうしたOSも含めたモジュール管理が出来ていると考えたりしている。まだコストから逼迫するリソース不足を味つけする巨匠達が仕上げのバランスをみつつしているのだろうか。最近はcdmaとPDCを一体化するどっちつかずではなく国際ローミングという端末までも簡単に出てくる時代になっている。大御所はさすがである。値段をさておけば、こうした端末を短期的に開発が完了してしまうのは並々ならぬ物がある。コンビニエンスな環境とするには、きっと求心力のあるプロジェクトや組織があって達成しているに違いない。

あるメーカーは80名ほどのソフトウェア技術者の体制で8機種をこなしていると聞く。たしかにPHSもPDCもCDMAもあらゆる機種開発がなされている。我が社も200名弱の技術者の体制でcdmaの基盤技術開発を進めている。またあるメーカーは社員のみで開発しているともきく。このメーカーではcdmaしか開発していないのだが、貴重な人材は出産退職するとしても活躍できるような配慮がされているそうだ。

開発量をこなしていくために必要な人材のボリュームはソフトウェアのベースとなるものが構築されている、あるいは提供されているという形態の場合には、結構理想的に機能しているのではないかと考えたりもする今日この頃である。

コミュニケーション能力を高めて相互の力を発揮できるようにイントラインフラや人事考査などでの語学力などに重きをおくことで、国際分業して解決できつつあるのではないだろうか。

訃報が届く中で、うまく機能している顧客のかたの支援をしている。相談に符合するような内容が閃き回答と対策ファイルを作成して送付した。確認をとるべく電話をしたところ、「お帰りがけの所を申し訳ありません。」と応対され「いえ、確認をしてから帰宅するつもりなので結果を教えていただきたいので連絡をいただければ・・・」と返した。聞けば同僚も同様の経験をしているらしく11時過ぎに電話をとったとき「こんな夜中に申し訳ありません」と言われたそうだ。こうした状況が夜の7時30の電話からも周囲の風景が思い浮かび健全な開発の姿を垣間見たような気がしている。訃報の重苦しい気持ちをやわらげてくれた気がする。

VOL11 梅雨目前 発行2000/06/04

爽やかな季節に別れを告げて、初夏のような日と曇った雨の日が始まった。まもなく梅雨入りも宣言されるだろう。

仕事は昨年末から続いていてじめっとした感のある仕事にキリがついて、爽やかな状況に転じている。初芝通信の便りも時折届き、今年に入ってからは初芝魂への回顧が始まった印象ですとの朗報を寄せてくれた。ずるずるとした印象の仕事の進め方からきっぱりとした仕事の進め方に転ずるには大きなインパクトもあるだろう。

メリハリの利いた仕事の進め方は、社会貢献という公器の考え方にたてば必要不可欠であるに違いない。初芝時代に外部から指摘された社内通信インフラの整備の遅れはハードウェア的には達成したはずであるが、まだまだ心の事業部制をしいている限りには総合力を生かせるのはお召し列車の仕事のみになってしまうのではないだろうか。

初芝を飛び出して気がついた大きな点は、自分達の拠り所となる技術力の見定めをせずに日々を過ごしている人が多いように思うし、そうした拠り所となる技術の重要性についての認識が甘いのではないだろうかという点である。心の事業部制の壁は、自分自身の技術力を卑下したりすることで起きているのではないのだろうか。

インフラや会社の仕組みは用意できているのだから心のコンテンツをオープンにしていく事で解決を見るのではないかと内心期待している。業界を牽引していく初芝通信の技術者が気概を持たずに仕事を進めていて良いはずがないのである。そうした会社こそが、私の標榜する次世代通信技術の受け皿になってほしい会社なのである。

デュアルマイコンが携帯でも当たり前になろうとしている。こうしたデュアルな環境でのOS制御技術や言語処理の技術などを抜きにしては語れない。一万人近い社員を擁して多額な開発投資を共栄会社という形で使うにせよ、自らが求める技術像があればもっと有意義に使えるはずだと考えてしまうのだ。

自分達の技術で暮らしている現在の会社では、共栄会社という考えは当てはまらない。少なくともソフトウェアにしてもRFやベースバンドの技術は自分達で賄うのである。ベースとなる技術に立脚して整理していくことで徒労のない開発が出来ているのだとおもう。誰かが良く使う台詞だが、「三段の将棋は初段が三人いても勝てない」のである。皆が同じ方向で初段をとっても意味がない。それぞれの分野でスペシャリストを目指すべきなのである。

さあ、私もメリハリの利いたサポートをはじめよう。お客様からの支援要請に対して自分の専門分野を持たずに支援などできるものではない。

VOL10 がんばれ基本ソフト技術の匠たち 発行2000/05/23

驚愕の4MBの空間を使い切る

最近の携帯端末のソフトウェアサイズは,うなぎのぼりである。8MBのFLASHを積みながらもハードウェアの制約で4MBしかコード空間にはアサインできず残りの領域はデータファイル領域としている。EFSが組み込まれているのも最近の特徴かもしれない。UIでのアニメーションやカラー化の影響などでRAMも2MBは必要と言われる時代になっている。8MBのFLASHと2MBのSRAMが必須になりつつあるのだ。また、こうした状況では機能の取捨選択をするにも事欠き結果として積み込み一方となっているのも元凶かもしれない。コンパイラが賢ければ、もっと効率のよいことが出来るかもしれないがドライバとアプリケーションを同一方法論で搭載する時代は終わりに近づいているように思われる。KVMなどの搭載が叫ばれるこのごろであるがムーア博士のFORTH言語などの適用が、より実践的なアプリケーションサイズ削減に貢献するように思われる。コンパイラの出力コードをアセンブラからFORTHに切り替えて生成することを追及してみるのも現実的な技術として面白いかもしれない。すでにMicrosoftCではライブラリとして中間コードを生成して解釈系を作り出す機構が昔から搭載されていたようだし組み込みの世界もこうしたサイズオーバーの時代を迎えて直す必要があるのだろう。端末技術の追求の中でコンパイラにまで手を広げる必要があるかないかは意見が分かれるところだが開発環境やソースコードで提供していけるメーカーであれば考えてみる価値があるように思われる。

私が気になるのはコンパイラが生成する余剰空間の取り扱いである。たとえばポインターとして作り出すコードは32ビットを生み出すわけだがコード空間は16MBを超えることがないと仮定した場合にはポインターサイズは24ビットでよいことになる。しかしアーキテクチャの制限から32ビットのポインタを作り出してしまう。バイト型で十分な変数があるにも関わらずアーキテクチャの制限から不要なRAMをスタックやSRAMやFLASHに浪費している。こうした空き領域がどれほどなのかを検討してみるのも意味があるとおもうのだがいかがだろうか。無駄と思われるコードも性能を追求する部分においては正しいが機能を満たすことが求められているアプリケーションにおいては別の解決策があるように思われる。解釈系を介在させることによる効率化は計り知れないものがある。私は機能競争に拍車をかけるつもりはないがケータイに求められている機能が拡大している今日においては従来の方法論のまま進めているだけでは意味がないように思われて仕方ない。

開発の手を緩めることなくこうした技術革新にもてを染めていくことが総合メーカーの技術力として必要なことではないのだろうか。音声を圧縮するデジタル化技術は通話という技術のデジタル化に必須であった。今、通話・通信は出来てあたりまえで音質も良くてあたりまえになろうとしている。ことさらに方式の是非を比較するのは単なる宣伝効果を狙った延命策にすぎないのだ。今手を染めるべき次世代の通信技術や端末開発技術について革新的な方法論を考えているのかどうかが、今後発生してくる各種新技術の吟味の目を養うことにつながってくると思われる。携帯端末のサイズ競争や重量競争の時代を過ぎたことは、カシオの端末が売れていることなどからみても明白である。小さすぎて使いにくさが出てきたりすることが発生するとなんの競争なのかがわからなくなる。

リーナスが参画しているベンチャーではインテルアーキテクチャを活用する斬新なソフトウェア構造をもつ新型チップを開発した。消費電力あたりの性能などにも思いがまわり。またかつてバイナリーコンパイルという技術が登場し消えうせたかにみえたものも取り込み実は醸成していたことなどからも、まだまだこうした端末での戦場は,場所や品を変えて進んでいくように思われる。提供されるプラットホームを待っているだけではメーカーはいけないのではないだろうか。

やはりメーカーには基本OSや開発言語などへの基本技術の研究に携わる人材を活用していくことが、必要なのだと思う。不遇な人材がいるとしたら社会への罪悪である。公共の器を活用していくという翁の説話などからも、会社を叱咤する立場への転籍なども必要なことであろう。かつて第五世代開発などでICOTを興したりした日本ではあるが組み込み技術の大国でもあった匠たちの技を今失おうとしているのではないのだろうか。

VOL09 2000年5月発行2000/05/15

梅雨までのひとときを楽しんでいたのだが、もう雨がちな陽気に変わってきそうである。半年の研鑽期間を経て、とりまく環境も大きく変わろうとしている。巷ではブラフと言われていた弊社の基地局参入騒動だが、実際問題としてブラフなんかではなくて、まさに国際化の流れの渦中にいることを郵政省自身が気づいたのではないだろうか。国内三社のぬるま湯的な状況においてIMT2000の割付を進めてきていたところに、「無償でチャネルの権利を入手できる」というおいしい話を米国と共同で焚き付けたのだから大変だ。日本の通信業界は官民馴れ合いとなっていて、天下りを受け入れつつ仕事の人脈を広げていくまさに日本式のロビー活動なのかもしれない。ベルを分割して競争させ、周波数権利もオークションにかけている米国の状況が参入してくるとは考えてもみなかったのだろう。結果はDDIの技術トップの間違った判断を是正することで解決をみてしまい、面白みにかける展開となった。DDIを買いとるという選択枝もあったようだが、免許申請をすることの方が容易なのだった。

今回の波紋は、今後の日本の無線行政に大きな一矢をはなったと思われる。NTT法が改正され外部への展開が進むだろうという事とともに、双方向の大きな流れをまた産んでしまうと考えられる。こうした法の庇護の下で暮らしていた、ある種の業界にとっては大きな転機を迎えたともいえるだろう。

ベンチャーのよい特性がまだ残っているこの会社の前向きな取り組み姿勢は、私の意識にも共感する。無線機器の開発に限らず多くの製品・サービスは、ソフトウェアの介在なくては競争力を産まない。物づくりとしてのソフトウェアの力と先進な要素技術としてのソフトウェアの二面を追求していかなければならない。仕様書を定義してくれれば生産としてのソフトを構築出来るという感性の仕事と、サービス・製品の技術方向性を見定めつつソフトウェアの基礎研究を進めていくということが求められる。私自身もメーカーに在籍して四半世紀近く技術屋として暮らしてきた結果としてそういう事を認識してきた。日本では、そうしたサイクルを回すよい土壌としてNTTと各メーカーとの関係があったのだと思う。

メーカーとNTTとの関係を支えてきたのは、互いに補完しあう相互技術があったからに相違なかった。トラックの荷台に装置を積んで自動車電話の開発を進めてきたベンチャー精神を私は尊敬する。またそうした流れにのっとり子連れ狼ならぬ乳母車に積んだPHSの開発などもそうしたものに違いはない。そうしたベンチャー精神に支えられてビジネスモデルを提起して一事業を興してきた業務用無線の歴史なども興味深い。いまそうしたビジネスモデルの考案をしていくことも研究テーマの大きな範囲であろう。ビジネスモデルが特許になる時代なのだから。豊かな端末の提供で、PHSなどの価格100円や無料の広告などをみると「通信の水道哲学の領域にまで達したか」という見方もあるだろうが、サービス費用や能力などの面から昨今のi-MODEのサーバーダウンや投資効果という観点での技術力などにおいても、もっとシステム的な観点で取り組むことで道が開けると思うのだがトラック3に入札することで精一杯になってしまうのではまずいのだろう。

超高速なマイコンの開発というテーマが最近では、単位面積あたりあるいは投資コストあたりの最高速なマイコンの開発というテーマに変わりつつあるようだ。インテルの命令をバイナリーコンパイルしつつ自分の考える合理的な命令に置き換えて効率よく低消費電力で実現するこうした技術を、さらに利用して群体で動作するシステム提案が出来れば、ビジネスモデルの改善につながり顧客満足につながっていくのである。

端末の開発のみで手一杯という状況ではお先真っ暗というのが現在ではないだろうか。幸いにしてこうしたインフラサイドの問題提起は社会からの要請もあって順風になってきた。おもしろい素材もあふれてきた。しかし残念ながらそうした面白さを伝える仕組みがなくなっているように感じる今日この頃である。仕事や技術の本質に好奇心を持つことが大きな鍵なのだが難しいのだろうか。いろいろな創業の時代に出会っていろいろな好奇心を大切に育てる事ができて今に至っている。これからあらたな創業を自分自身からの提案も踏まえて周囲の方々の力添えももらって進められそうである。こうした楽しさを少しでも伝えて、メーカーの方々にご理解いただきエンドユーザーへのサービス提供をはかっていくのが
当面の私の存在意義である。

そうしたメーカーの方々への支援作業において、あらたな創業の芽がありそうで諸先輩のお知恵を拝借し自分自身で咀嚼しているのだがよく噛まないと腹ごなしが悪い物である。一つのアイデアがメーカーと同一レベルの開発部隊を擁して日本サイドで先行開発の雛形を示していくということである。このことにより、各メーカーで競合する開発の部分の合理化が図れるというものだ。しかし、米国と日本の相互で仕事を依頼できるようなソフトハウスでデジタル無線の技術力があって英語に問題がなくて、独立系というようなところはなかなか見つかる物ではない。今は、W-CDMAで日本では技術屋がショートしているのが実状である。Y2Kが終わってあぶれてしまったような技術屋を掴まされるのがオチでもある。ソフトハウスの紹介にいって逆に「すぐに、優秀な人材を100名そろえられますか」と京都で問いただされた事を思い出して苦笑した。30名でも良いのだが無理な状況であろうか。ソフトハウス詣でをするのは、メーカーがFLASHROMなどを求めてさまようのとにている。

VOL08 GW後半発行 2000/5/6

GWの憲法記念日など薫風のなかで歴史に思いをはせるのはよいことではないだろうか。皆さんは有意義な休日を過ごされただろうか。

最初の商用自動車電話にはサブルーチンがなかった。

富士通の出向研修を終えて、実務に戻った。事業部では、長年の開発で培ってきた自動車電話の出荷が始まり熱気に包まれていた。自動車電話では、マイコンを搭載して出来たと思われる人が多いのだが当初の自動車電話においては専用ステートマシンを搭載している場合も多かった。4bitマイコンなどでこしたステートマシンを構築した事例やRCA4000シリーズを駆使してCMOSのボードによるステートマシンを構築していたものもある。こうした商用サービス以前に開発されてきた試作マシンには、ロジックボードとマイコンボードとが別に出来ていたりした。

商用モデルにおいては、こうした自分達で開発したステートマシンの機能設計を利用すべくマクロ命令と呼ぶ仮想コードを解釈実行する構造を採用していた。アセンブラソースコードのイメージを抱いていた私にとって衝撃的な内容だった。フローチャート上にサブルーチンのアドレスのみが羅列されているようなコードと所々にラベルのような実際のコードが書かれていた。割り込み処理のような部分はあるのだが、メインルーチンというようなものが存在せずにフローが記載されているようなソースコードだった。

設計を担当されていた技術者の方々の英断により,当時高価で低速だったメモリインタフェースを取らずにドライバとインタプリタの通信速度を改善する目的で汎用レジスタの一部を相互通信用の高速スクラッチパッドレジスタに位置付けていた。すなわち割り込み処理で退避せずそのまま用いるということである。この英断によりドライバへの指示は、このレジスタへのビットセットにより行なわれ、また指示解除はリセットビットで行なわれていた。

Z80の裏レジスタの概念のように独立したレジスタ群を要求する声が多い中で逆転の発想でマイコンの仕様を見つめていたようだった。こうした犠牲になったレジスタは、スタックポインタであった。ドライバとマクロ命令という概念で設計を進められていた技術者にとってスタックポインタの効用を活かす道はないと判断して高速通信レジスタの位置付けで設計がなされていた。従って、この商用モデルにはサブルーチンというものが存在しなかった。しかしマクロ命令としての実装は実行すべきアドレスをそのまま機械語として配置した単純化した解釈系でありいわゆるFORTHのようなものであった。

しかしスタックポインタを犠牲にしていることなどからレジスタやRAMをインタフェースとしてマクロ命令の相互での情報のインタフェースは為されていた。サブルーチンのないこの商用化モデルの一号機は、華々しくデビューしていった。こうしたマクロ命令の機能を網羅する測定器としてフローモニターがあった。マクロ命令のインストラクションポインタとして配置された特定メモリの更新をトレースするロジックアナライザのような道具である。インタフェースは16個のLEDと放電プリンタである。

銀色の光沢のある、独特な用紙に電気を通して皮膜を破壊すると下地の層が見えて黒く印字される機構であった。昨今の方々はまったく知らない世界かも知れない。これによりリアルタイムトレースが実現されていた。仮想マシンの振る舞いをトレースするだけでは不十分であり、マクロ命令の通過情報のみをトレースするマーカーという機能も実装されていた。マーカーは特定アドレスへの書き込みのみをトレースする機能であり実際には、マクロ命令のトレースとの相違はアドレスの違いのみであった。こうした仕組みのよりパフォーマンスを時刻つきでリアルタイムトレースして検証できるようにしていた。富士通での研修成果は、こうした概念の理解を推進するのには役立ったが諸先輩の匠の技に到達するのは容易な所業ではなかった。
輸出向け自動車電話の端末開発チームはもぬけの殻
商用モデルの対応のなかで、解釈系処理の技術を身に付けつつあるなかで、輸出向け自動車電話端末の開発の応援に借り出された。自社でフルセットターンキーで納入する交換機・基地局含めての大規模な開発であった。100名を擁するソフトウェア技術者の集団が当時の初芝ソフトのビッグプロジェクトでもあった。端末開発は、8ビットマイコンで行なわれていて仕様からなにからすべて自社で開発したこともあり端末開発チームサイドの外人部隊二名は数多い仕様変更に耐えうるべくテーブル構造で端末動作を記述していた。これも国内向け商用モデルと同様の考え方ではあったが、彼らは割り込みとメイン処理とでレジスタを共有するほど多くのレジスタを持ち合わせてはいなかった。二個のアキュムレータとインデックスとスタックしかなかったのである。仕様変更の話などを聞きつつ彼らの応援をしていたが、いつしか彼らが蒸発してしまった。こなくなったのである。自分ですべて面倒を見ることになり8000行ほどのソースコードを引き受けた。問題の多くは端末の振る舞いをどのように実装するのかということとプロトコル自体があいまいであることなどだった。

このことによりソフトウェアの機能変更はしょっちゅうであった。端末の限られた空間8kBではその機能の実装自体が無理だったのかも知れない。テーブル構造の見直しやインタプリタの再帰利用などでテーブル自体のサブルーチン化などを達成しつつ日々機能追加とコード圧縮の日々となった。気がつくとソースは10000行に達していた。コードサイズは同じである。機能を網羅する部分と性能を満足する部分とがソフトウェアにはある。これらを同一の方法論で行なうと効率が悪化する。効率の追求をこうした限界状態で経験できたのはこの上ないチャンスであった。割り込み処理で倍速を達成すべく(途中で伝送速度を600bpsから1200bps)に向上させる必要が生じた。機能は毎日のように追加が要求された。コードサイズの増加は許されなかった。解釈系が機能網羅を果たし割り込み処理によるドライバは性能を満足させるという構図である。しかし、ハードウェアの不備があり性能はどうしても果たせないことがある日判明した。RAMが4bit幅でしか誤り訂正などの機能を実現できないためである。割り込み処理のスライディング配置など工夫は凝らしたものの要求水準としての着信応答あるいは発信接続には至らなかった。全二重通信が処理できないのであった。こうした極限下での動作は、インタプリタがあとから追いついて機能を満たしていくというのが目で見て取れる状況であった。最後どうしても機能が入らなくなった。アセンブラソースをいくら眺めてもアイデアが出てこなくなった。仕方なく機械語のダンプリストを眺めて一日過ごした。午後になり気になる点に気がついた。コードに偏りがあることが判明した。全般にテーブルが4kB近くありこのテーブルが16ビットのアドレスで出来ていたのだが、EとかFとかが多いのだった。6802を採用していたこともあり8kBのROM空間しか持たないことがこうした制御テーブルでのそれとしてはE000-FFFFまでのアドレスを示すことから仕方がなかったのだった。私が着目したのは、アドレスの上位3ビットが無駄に思えたのである。テーブル構造の見直しというよりも仮想マシンとしてコードの定義をすることにした。上位3ビットで命令をデコードするようにした。111ならばモジュールで011ならばテーブル内での分岐、101ならば条件分岐といった具合である。仮想マシンコードとしてのアイデア持込でようやく機能集約が可能になり出荷先での三度目のROM交換も達成できた。三度にもおよぶ回収費用は大変であったと思うがその後の出荷以降で採算が取れたようだ。私は、勉強を兼ねて最終ソフト完成後現地に三週間ほど初めての海外出張として赴いた。後年悲劇の地と呼ばれることになるDOHAである。

マイコンをシミュレータでデバッグする。
仮想命令を定義することは海外向けで技術的なメドだてを終えて以降のパーソナル無線の開発などに応用を果たしていった。時代は、アセンブラからC言語でという掛け声が連呼されたが、笛吹けど踊らずでVAXを一億円で導入するという当時の大英断にも関わらず利用者は、変わり者の烙印を押された私と当時の新入社員の女子大卒のうら若き乙女達だけであった。viでcのソースを開いていると勝手に画面に書き込みをしてくる実習テーマを与えた一部の指導員に文句も言いたくはなるが、将来の担い手である有望な若手技術者にそんなそぶりを見せてはいけなかった。初めてのc言語適用機種は4ビットマイコンを二個搭載したMCA無線機であった。

RFドライバCPUとUICPUの二つである。相互にシリアルでメッセージ交換をしてのシステム設計だったが、RFドライバマイコンは性能も含めて動作するもののUIサイドのマイコンにはフローが入りきれなかった。4ビットのマイコンという足かせは重く工夫の余地はなかった。液晶搭載のuiマイコンの一部のみを用いて8ビットマイコンとの組み合わせで製品は出荷された。この表示マイコンにのみc言語は適用されていた。c言語ではコードが三倍に膨れあがるなどと言われてはいたものの、それよりもアドレス空間の制限が4ビットの4kBという空間が重かった。

この悔しさをばねにして8ビットマイコン用にcコンパイラを開発してコードサイズのチューニングを果たしてアセンブラ並あるいはそれ以上の効率でコードを生成することに成功した。最初の版が、一ヶ月で出来たことに比べるとそれ以降5年近くは改善活動をしてきたのではあったが。このc言語を用いて新たな展開が出来た。お客様にソフトウェアを書いてもらうということが可能になったのである。新入社員にromライタとコンパイラだけを渡してツール開発に成功したのが、そうした感触を確かなものにしていた。まだunixでしか動作しないコンパイラではあったが、デバッグツールとしてマイコンシミュレータというものを海外から導入した。fortranのソースコードで書かれていたそのシミュレータは6301/6303をシミュレーションしてデバッグに供するものであった。機械語のインタプリタがシミュレータである。大阪の社員研修所でc言語中級というコースを開設してもらい、そこに講師として望んだ。自作のコンパイラで開発したターゲットコードをシミュレータを使ってvaxの上で動作させてデバッグする仮想的な開発環境である。いつか夢見ていたものが少し形になったような気がした。

パッシブインタプリタというアイデア
c言語環境にはまるきっかけになったのは、バーコード端末の開発環境として自作してしまったことが理由なのであるが、確かに周辺も含めて自作のコンパイラで全て開発していた。そうして開発環境をお客様に配布するまでになっていた。各地で説明会の講師などもしていた。Basicが、まだ流行っている時代に組み込みCコンパイラを作成提供したので、さすがに時代から浮いてしまった。BASICで財を成した人もいるし、評価されつつもBASIC98のようになった事例もある。文字列処理とインタプリタがマッチしたのであろう。倍精度整数型と文字処理のみに特化したインタプリタを開発することになった。小文字が嫌いな人たちには、行番号つきのソースは理路整然と映るのだろう。今までの仮想マシンの経験などから機械語と中間コードの入り混じった、パッシブインタープリタという提案をして開発をした。文字列演算の中間コードのみ例外処理として動作させて命令コード例外の領域に割り付けたのがアイデアである。整数演算のコードは文字通り、機械語そのものである。中間コードにあたると例外処理として割り込みが起こり中間コード処理を行なう。インタプリタが積極的に解釈しないという特性から、こうした命名をしていた。暴走しつづけているという考え方もあり動作の保証としては難しいという話もあった。インタプリタ本体よりもコンパイラの開発が大変だった。人に頼むという仕事は大変である。わかり易いコードを基に共有できる優秀な仲間にであえばよいのだが・・・・・。デモソフトなどを作成して地方巡業を繰り返したが、結局皆Cコンパイラを使うことになった。カタログリストには多くのアイテムが必要であることが判った。少しでも多くの項目があったほうが良いのだろう。

高精度シミュレータの開発
8ビットマイコンでは自作ですっかりはまったのだが、いつまでもそんなことをしてはいられないということで16ビットマイコンではメーカー製のコンパイラを使うことになった。時代は携帯電話で端末開放の時代を迎えていた。C言語で動作するOSの仕様が配布されて各メーカーが、そのOSと本体を開発するという形態である。8ビットでは日立のマイコンを使用していたが、16ビットでは三菱に変えた。アーキテクチャが8ビットの日立のものに似ていたことや、消費電力が低いことなどが主な理由であった。MOVA-Pの物語で有名な状況で劣悪な開発環境としてICEやCコンパイラの出来の悪さなどがあげられていた。開発環境の改善と「ハードについて詳しくなりたい」という部下の希望とを合わせて高精度のマイコンシミュレータを開発して性能検証が出来る正確なツールにしようという構想で開発を行なった。デバッグの使い勝手の追求も含めて一年余りでこれを仕上げていった。ICEで動作検証を行い外部バスからみたプリフェッチの動作も含めて機能を実現していった。システムテストも視野に入れて、連携する外部周辺機器とのシミュレーションなどの機能も含めて開発を進めた全社規模のPHSの開発にあわせて、
開発を進めていった。途中から三菱のコンパイラの出来の悪さも見えてきていたのでこちらにも手を染めかけたが格段に途中から良くなってきたのとコンパイラの開発チームが考えすぎて頭が痛くなったらしいことなどからこちらは中断した。出来上がった環境について外部でセミナーや日経エレからの投稿要請などがあり応じているうちに同期のマイコン開発をしている電子工業の技術者から呼び出しを食らった。仮想的なマイコン開発環境の必要性と将来方向について、意見を述べて電子工業自体も自社マイコンの環境の取り組みとして以降取り組みをはじめていった。低消費点力高速動作というマイコンを開発していたのだった。

Java以前からJava評価まで
開発環境の開発などに手を染めているうちに研究所への顔パスを手に入れた。PHSなどの開発を通じて関連部門との連携が深まっていった。エージェント技術を開発していたチームと出会い彼らがPHSで評価していた技術を携帯電話にスクリプト言語を実装してコラボレーションのアプリケーションが動作するようにという思いが駆け巡り当時開発をはじめようとしていた米国向け第二世代業務用携帯に適用するという思いに到達していた。無線でエージェントとして動作させることを狙っていた。このためにはVMが必要だった。こうした幅広い技術の開発をしているのが大企業のすごいところであり、また埋もれていたりもする。PHSのスループットとWSでのソースコードスクリプティングという評価形態から、中間コード+携帯+16kbpsという世界には大きな隔たりがあり、Tcl/Tkのような画面処理GUIを可能にしようという話にも、時代を超えたものがあり夢多い仕事では在ったが、コストと神戸の地震とが、いろいろな面で開発を凍結してしまった。普通は中止なるものを凍結というのは意外だったが、その後解凍することも冷凍していることも忘れ去られてしまったようだ。技術者の思いは一つであり何かきっかけを待って思い描いている技術を実現するときを待っていたようだ。開発中断後も情報交換を続けWAPの前進となったHDMLやJavaの誕生を知り、またこれを見守ってきた。デモを綱島地区によんでしてもらったときに米国向け開発で描いていたもののいくつかの答えを見ることができて感慨無量だった。当時の研究所のメンバーも今はやはりスクリプト言語の追求をしてデジタルテレビに対応していくようだった。スクリプト言語の技術を進めてきた中でJavaの技術を端末に適用しようという取り組みをJavaのソースを入手して行なうことになった。評価は二点、UI系での仕様記述と実用化の可能性またJavaVMの実装の可能性だった。技術本部と共同でこの検討を進めてまた大阪の研究所の手も仰いだ。旧知の仲間との遭遇などもありJava応用という熱い話を進めていった。VMが200kb程度になることとUIでのデモなどがJavaで出来るところまでは来ていた。

VAX仮想エミュレータの実用性
現場を離れて開発管理などをすることになり開発環境の保全という状況に遭遇してシステム件名物の開発環境としてのVAXの処遇が問題になっていた。5代目VAXが臨終の時を迎えようとしていた。山ほどある過去のツールはバイナリーのまま十年以上使われつづけてきていた。これを切り替えるには検証工数が膨大にかかる割には、保守のとき以外には表立ってこないのである。端末開発をしている事業部にはこうした責任はない。システム物でのみ発生する話なのである。VAXのシミュレータを開発して開発環境自体を動かそうとする提案をしたが実際に手をあげる人はいなかった。保守打ち切りを宣告されていたので産学協同という線も模索した結果、鳥取の元初芝にいた高専の先生を発見した。メールで説明をしてからの応対にひらめきを感じて米子まで夜行電車でおしかけた。半年かけて可能性の検証をすすめてきたが、課題は、UNIX4.2BSDのソースコードにあった。封印されてきた時代のUNIXで動作してきたツールが最近のFreeBSDなどと同様のAPIなのかどうかというのがかぎだった。しかしULTRIXにOSの切り替えをしてきたこともあって誰もソースの保全をしていなかった。UNIXのこうした時代も含めたフルソースアーカイブを配布している人がいるという情報を初芝の通信コミュニティから入手し、バークレーの先生にメールで顛末の説明をしたが、UNIXのライセンスシートが必要であるといわれてこんどはそれを探した。初芝ではまだ写植機にUNIXを搭載しているらしくライセンス管理をしている部署にそれはあった。FAXで送付してもらい、それを米国に中継した。米国からは許可をもらい早速発送してもらうとともに同様な事例をやったオーストラリアの先生を紹介しもらった。翌朝にはオーストラリアの先生からもメールをもらい彼のサーバにアクセスするパスワードを50回分もらった。初芝電器からは、なせ必要なのか説明にくるようにという呼び出しがあったが別件で大阪にいくおりまで話を伸ばした。こうしてから、半年かけて開発を進めてきた。昨年秋にこれが完成した。最近のPCマシンでFreeBSDの上で動作してFileアクセスなどの動作はFreeBSDが担当するという手の込みようである。今まで以上に高速で動作することになった。

x86仮想エミュレータの恩恵
初芝を離れていま、実はやはり仮想マシンにはまっている。今はvmwareというX86のシミュレータを動作させている。これがPENTIUMの400MHzクラスでは快適に動作するようだ。私は800MhzのpentiumIIIを使用している。なぜ使うのかというやはり古いツールが動かないからである。windos2000の上で一部にWINDOWS95の窓を設けてここでグループウェアのソフトを動かしている。linux版もあるそうなので、LINUXに変えようとも考えている。実機がない環境での開発という視点と古いツールを利用するという視点の二つが仮想的な環境を必要とする理由である。25年近く経過してなお続くこうした事情は、携帯の今後の開発でも同様に必要であるのだろうと思う。初めてシミュレータでツールを動作させた感激は、今も同様なケースで感じる。お客様の開発するソフトウェアの検証に自社での環境も必要でありそうした仮想的な環境についても、考えている。まだまだこれからも楽しめると思う。歴史は繰り返し、その都度新しい技術を学ばせてくれる。

VOL07 GW目前 発行2000/4/28

新人が現場に登場する時期である、当社も日本人スタッフとしてハードソフトともに若干名の方を迎えた。桜のあとの春の気持ちの良い季節を新人の季節にしているわが国では、代償として小学生の長い夏休みを学年中に迎えるということが課題かもしれない。効率的に考えると夏休みを学年から外した米国スタイルは、あながち否定できない。実は、この事が国民性に大きな影響を与えていはしまいか。新人時代から四半世紀近くを過ごしてきた。温故知新でバーチャルな世界をかえりみよう。

トレーサー
1976年に仕事をはじめてから、はや24年を経過した。昨年の転職からも半年を過ぎて、ようやく新会社での自我を確立しつつあるところである。さて、25年前に学生最後の年にやったのは卒業研究である。高専では当時最終学年での一年間が卒業研究に当てられていた。まだマイコンなどない時代であり学校に小型コンピュータを導入しようという時代であった。仮想記憶で動作するので大規模な計算も可能である鳴り物入りで説明を受けたマシンではあったが、実際にはページングの嵐となり実用的な計算には程遠いものであった。予算から割り出されたマシンにすぎなかった。この当時入りたての富士通のマシンの上でOSの構造を調べようとトレーサーを開発したりしたのが懐かしい。命令をワンステップずつ実行させていこうというものだった。仮想的にマシンのプロセスをデバッグしたいというようなものであったかも知れない。割り込みの概念を学び機械語を学んだに過ぎないともおもう。この機械語で開発したソフトをFortranで作成したローダーでローディングしてコンソールパネルに向かって仕事をしていた。おかげでFACOM230の機械語を覚えた。翌年初芝電器に入社してからは、一年の新人教育で図学や製図・工作といった高専のクラスのようなテーマや販売実習といったものを経験した。会社の仕組みの中での難しさといったものもいくつか経験した。一年間の研修の後に配属になったが早速富士通への出向を命じられて1977年入社の富士通の導入教育のラインに割り込んだ。はじめて見るCOBOLなどの世界をみつつミニコンの技術習得が目的であった。当時のミニコンピュータは現在のエンベデッドな世界ににていた。開発マシンとターゲットが異なったりすることや開発ツールが不備だったりすることもあった。富士通時代のお客様は自動車工業関係が多くあるお客様の生産ライン制御システムの仕事では先方の寮に3ヶ月ほどを過ごす結果となった。

シミュレータ
生産ライン制御システムの担当ではミニコンサイドの一切合切であり、新人(?)一人である。判らないことは先輩に聞くというスタンスだが先輩もミニコンに詳しいわけではない。当然の帰結としてマニュアルとドキュメントと首っ引きになる。富士通の会社としてミニコンを支援しているのは当時初芝と共同出資して興したPANAFACOM(現PFU)である。開発ツールを必要とするのは常だが固定ディスククラス(?)を搭載した大規模のミニコンでないと開発が出来ないということがあった。新橋に当時あったFACOMビルには地下にマシンルームがあり、その一角にミニコンのマシンも置いてあり時間を予約して利用したりしていた。マシンを使用するために、深夜の作業申請を行なうのだ。こうした環境を経る中でミニコンという特殊な環境にむけた開発環境が不十分であり、同僚達が和気藹々とカードパンチに向かってソースデックに積んでは、ときたまばらけてしまったりする風景とは相容れなくなっていた。ミニコンのエンジニアは”暗い”感じがした。昼間から使える皆と同様な環境のなかで出来ないものかと思案していた。

問題意識の芽生えであろうか。ミニコンの開発ツールとして大型で動作するSIMULATORソフトが開発されていた。ミニコンのソフト開発用に作成されていたようだった。システムソフトの開発としてはモジュールをくみ上げるシステム生成あるいはリンクと呼ばれる作業が必要であり、この作業がシミュレータで動くのかどうかが鍵だった。サポート部隊に連絡をするとそんなことは考えても見たことがないし動くのかどうかが不明だという。ありがちな回答である。前向きな回答を出したところで支援も出来ないからである。ともかく「やってみなければはじまらない」ので必要なソフトウェア一式の提供をお願いして磁気テープの入手とユーザーで稼動しているマシンは夜間まで運用しているので深夜停止後から朝までが勝負である。

システム編集
普段はリアルタイムOSで立ち上がっている中型コンピュータをシャットダウンしてバッチ系のOSに切り替える。シミュレータは、このバッチ系のOSで動作するように設計されていた。実際にシミュレータで仕事をする為には、仮想マシンがデバイスをアクセスできるようにする
ことが必要だった。マニュアルでの見て歩きによれば仮想空間に物理デバイスをマッピングできるようだった。システム編集というツールを動かすには磁気テープデバイスが動作すればよいのだった。またシミュレータの上で動作するシステム編集というツール自体は独立で動作するOSの不要なソフトウェアとして設計されている。ユーザー納入先でOSを編集する為には致し方ないブートストラップ的な位置付けでもある。稼動させたターゲットOSがバッチの機能をもっていれば、その上で動作するシステム編集ツールもあるのだが、そのときのお客様の用件はミニコンはセンサーあるいは配信用のFEPであってチャネルとよばれる高速インタフェースで接続されており特殊な端末群を制御するDI/DOといったインタフェースがもうけられている程度だった。シミュレータが動作するはずの仮想デバイス経由での磁気テープの操作を仮想のミニコンコンソールから行いテープが「カクッ・・」と動作するのを確認した。「これで・・いけそう」と思ったのであるが実際問題システム編集ツールを稼動させると時々思い出したように「カクッ」と動作しているような体たらくで仮想マシンのスループットと実務のギャップを世界に先駆けて思い知った。磁気テープというものは、「ククッククックーッ」といった音で動作していくのが通常の動きである。こうした周辺装置とのやりとりは100倍以上の処理時間との差があることから、OSというものの価値があったのだが仮想世界では物理デバイスに指示を与えて次の命令を実行していくうちにもう入出力処理が終わってしまっているというのが実情であった。通常の処理時間に比べても10分程度で終わる作業が、その日の夜間マシン時間を殆ど食い尽くして終わるころには、朝が白々あけてきていた。77年のことである。市場にはTK80が登場していた。

遅くても効率的?
一晩かかったシステム編集作業であるが、マシンを求めて群馬県のお客様のところから大田区や新橋のマシンセンターまでの移動時間を考えるとあながち非効率ともいえなか
った。出来上がったソフトウェアは高速チャネルインタフェースで瞬時にターゲットのFEPであるミニコンに転送されて立ち上がる。ミニコンにはディスクもなくRAMのみで動作していた。デバッグコンソールを使って確認を進めていく。こんな生活をしていると一週間は三日でおわる。月曜日に出社して火曜日の夕方帰宅、水曜日から木曜日、金曜日から土曜日という次第である。何週間かへた結果,残業時間が180時間を超えていることに気が付いた。初芝から派遣・出向としてきている関係で初芝の組合統治からは外れていた。こうした勤務形態自体も学ぶべき対象ということであろうか。もとより深夜勤務などが強いられていた富士通にあってはこうした残業時間の考え方が昼過ぎから出社して徹夜をするB勤務などがあった。初芝にはA勤務しかなかったのでA勤務8:00-16:45を超えた時間はすべて残業時間としてカウントされ翌日は休日をとったことになっていた。こうした結果残業時間が180時間というような事態になっていたのである。昼間でもつかえる開発環境がほしいという痛切な願いと仮想的な環境でも今後はつかえていくようになるだろうという思いとが交錯して過ごしていった。ほどなくお客様の別工場に少し大規模のミニコンが導入されたことでこのマシンを借りてシステム編集が出来るようになったのでシミュレータとの付き合いは一ヶ月ほどでおしまいとなった。

続く。

VOL6 2000年4月 発行2000/04/13

すっかり、3月の独り言が抜けてしまった。忙殺の日々であった。残念ながら、体が資本で元気は満面なのだが毎日タクシー会社での送り迎えを続けている。初芝通信のAVMの動作をモニターしているような日々だった。すでに立て替えたタクシー代金は、50万円に届こうとしている。ようやく、そうした生活にも終止符が打たれようとしている、時は春でさわやかな季節である。

新人を迎える季節ではあるが、弊社においてはベンチャーでもありなかなか例年社員を迎えるという季節感はない。たまたま今年は人員増強を図るべく活動を進めているのだが思いのほか米国系の会社への転籍希望の声は出てこないようだ。英語の問題以前に、まだ皆終身雇用が続くという幻想を抱きつつもレイオフのほうが現実感があるのだろうか。倒産とレイオフは明らかに異なりレイオフはある意味において会社の積極的な展開といえる。

社内失業が最近取りざたされる中で日本の製造業においても積極的な人生観をもった後輩が出てくるのではないかと期待もしている。そんな中で、渦中の会社の支援を通じて製造業をはだで感じることができた。空洞化が進むこうした製造業といわれているが実際そうしたことでは物が出来てこないのであってやはり抑えるべき人達はいるのである。

支援している会社に手取り足取りしつつ支援をしていく過程には、商売という側面から致し方ないと思いつつも教えを受けておられる方々のプライドもやはりあり、そうした事を理解しつつのコミュニケーションが求められてきていた。人生の勉強は日々続いてゆくものである。

久しぶりに日本の社員食堂での暮らしをするなかで、水準以上のものが、そこにはあり大阪と横浜で経験してきた会社でのそれと比較しても楽しめる生活であった。立場を逆転したとはいえ対等に話を進められるバックボーンがあり自分自身が会社の代表としての接し方をしていくことを日々責任を感じつつも充実した生活となった。

米国本社との協力を得つつの生活ではあり、技術トップのVPを迎えて一週間みっちり自分自身のOJTも兼ねつつ日本のお客様の設計手法と米国のそれとの差を学びつつ互いに議論していた。気が付くと英語で独り言をしゃべっている自分がいた。横にいるVPとの意識共有をしていく上では英語でしゃべり考えていることが必要なのだったが思いのほかそれは実際問題慣れで解決するのではないかと最近は思っている。

こんな中で支援先のRFエンジニアの方に引き抜きの話が来ていることを伺った。休日を圧して共同作業しているときではあったが私の境遇をしっておられることもあって、悩みを打ち明けられたようだ。確かにRFエンジニアに限らずソフトウェアエンジニアも含めて業界が流動的になっているような面も見聞きする機会が増えている。

物をつくりたいという思いの人にはメーカーという選択肢がベストであろうし、長年そうした中で仕事を進めてきた過程で指導や共通的な先進技術を志向していくことを良しとする人にとってはわが社は悪くない選択肢であると思うのだが、みな人生の一大事ということもあってなかなか実を結ばない。

すこしでも相互のためになるという解の一つは不遇な人事処置を取られた現場の技術屋さんの転職である。cdma業界からの引き抜きはそうしたバックボーンに根ざしている。自分の境遇に不満をもちつつも積極志向をすてない人がわれわれの求めている人材である。わが社に引き抜いた場合には他社も含めて業界の前進につながるという理解をしてくれるというのが最近ようやく迎えたT社からの後輩の事例である。とはいえ「最後まで英語の日常化という観点が大きくのしかかっていた」とは後輩の弁でもある。いっそ大学を向こうですごした学生を最初から狙ったほうがよいのではないかという話もあるが帰国子女といった線もまだ捨てきれないでいる。

境遇や会話能力よりも考え方がしっかりしている人であれば何でも出来るのになぁと技術者から転身して数学の先生になってしまった女性を思い出してみたりする。自分の人生の演出を会社からのシナリオに縛られてしまう人が多いのではないかなと思うのだが、自分自身の8ヶ月前を思い出してみてもなかなか自分の殻をぬけるのは至難の事なのだろうと納得してみたりもしている。

母校を訪問して新世代の学生をベースに話を進めてみるのも一興かとおもうが、そうした事を前の会社でもしていたなと思い出している。「先輩がいたので、この会社に来ま した」と話してくれた後輩に退職の話を切り出すのが苦しかったのを思い出した。しかし、学校訪問の時の自分と今の自分には何の差もなく、このまま自分のシナリオと会社の台本とに大きな開きがあるままに自分自身を偽れないという思いがあったのだ。

忙殺される日々を縫ってほかの人から紹介を受けた候補者の面接をしたりもしてみるがなかなか皆さん。難しいようだ。いっそ自分の見知った人でもって腐っている人がいないかと思うのだが会社も離れてしまうとなかなか話し掛けるのもつらい。いつでも門戸は、開いているのだがと事あるごとに伝えることしかなさそうだ。

たまの休日に祐天寺のカレー屋さんをたずねた。優秀な後輩を思い出しつつはじめて 降り立った祐天寺である。模型が配達してきたカツカレーはまた格別だった。またぞろ気持ちが騒ぎ出してTechnoWaveよろしくウォーキングをはじめた。世田谷線が見たいという細君の希望にそいバスで三軒茶屋まで抜けて住宅地を走った。こうしたところに引っ越すのもよいかなと都心への移転も考えるようになった。

借金返済のカセがなくなると人生自分自身にさらに新たな課題を自由にかけられるようになる。二子玉から等々力渓谷までのつもりが多摩川園まで堤を歩いてしまった。桜が満開だった。いつも街道沿いに見てきた桜を車窓から見るようになった。東横線の高架線計画の完了は今年中なのだろうか。夜桜でなくグランド越しの昼の桜を見たいものだ。

VOL5 2000年2月 2000/02/28

業界独り言を書き始めて、毎月一回のペースを守ろうとしていたのだが・・・。ニッパチのたとえもなく忙しく毎日が深夜タクシーの日々である。

初芝を離れてから初めて初芝通信の家庭用PHS端末を購入した。コードレス電話である。コードレス電話であり、外部では公衆として使えるという本来の売りがようやく我が家にも遅ればせながらやってきた。既に利用していたシャープのPHS端末も苦労のかいあって登録できた。しかし、ナンバーディスプレイ対応のこの親機を使うためにはTAを買いかえる必要がある。本来のISDNの機能をインバンドで実現しているナンバーディスプレイの機能のためにまたTAを買いかえる羽目になったのは納得しがたいものがあるのだが・・・。

こうした矛盾をついていても仕方が無く必要な機能のためには目をつぶって導入して行くしかないのだ。もうISDN接続の親機を作るメーカーはいないのだろうか。通信機メーカーのリソースは全てCDMA関連や次世代の5Gに向けられているようだし2005年には有線電話はなくなると豪語しているメーカーもあるようだし、ISDNに固執しているとどこかの研究所のように誤った方向をとめどなく追求しているようなことにもなりかねない。

レトロ趣味として取られてしまいかねないのだが、PHSの実力はユーザーからみるとたいしたものでパケットONEでもなんでも価格もスピードもたいしたものである。i-MODE版のEDGEが一番よいのだが無いのだ。電車での通勤が多いので(朝は・・・)車内での会話は携帯のメールの費用に終始しているような気がしている。それくらいメールが携帯ですることが当たり前になっているらしい。WCDMAが始まる前にi-MODEでトラフィックを低速分散させる狙いは功をそうしているがそうした流れとWCDMAで期待する価格との開きに付いてはよくものを考えて行く必要があるだろう。

会社に頼んで必要に迫られてDDI-Pの64KPHSカードを導入したが中々よいのだ。個人所有していたシャープのそれがようやく奥さんのモバイル用途に専任できそうである。通信と時差を超えて暮らしているのだが積極的に時差を活用して相互の力を発揮すべく立ちまわりたいと思いつつ深夜を越えて時差の国と電話をしてしまう実情の自分に腹を立てている今日この頃である。

自分の存在理由を確認すべく一年間をその模索の日々として捉えてきたが半年が経ち、いくつかの存在意義を明確に認識し活動のベースポイント切替を行うのが来月の仕事である。半年で英語があまり苦にならなくなってきたのは良いことであるが、日本のお客様の実情を米国のメンバーの開発方向性にまで反映して行くことの難しさは会話の単語能力の差を思い知ることで毎日がやはり勉強の日々である。中々アーサーランサムを読み進めようという目標が達成できない。

業界独り言 VOL04 2000年突入

イリジウムのおかげです。メーカーからみると悪魔の囁きのようだったイリジウム電話である。ニーズは確かにあるのだがメーカーの皮算用から見れば無いのに等しいのかもしれない。無いのに等しいようなユーザーに身内がいた。実兄は、昆虫標本商を営んでいるのだ。東南アジア地区でのPHSの基地局が蟻に襲撃占拠されるなどの事件ではお世話になったが、その後、例によって音沙汰がなかった。

正月の実家訪問で数年振りに、その実兄と会った。最近標本商以外に新たな商売をはじめたそうである。生きている昆虫、とくに甲虫類の斡旋ができるように法律が改正されたそうでこの商売を始めているようだ。南米の奥地から、モンゴル高地や東南アジアの島々に派遣している採集人とよばれる人々との連絡にはイリジウム電話が有効であるようだ。

DIMEに出てきそうなどこかの冒険先生みたいな輩が身内にいたとは灯台もとくらしという奴である。さて、くだんのイリジウムがモンゴルにあると何が起こるのか、・・・・・。実は、用も無いのに電話をかけてくるのである。「新種の蝶がつかまった」というような嬉しい電話ならともかく、「今日は収穫が無かった」という電話が入ってくるようになった。

続きを読む

業界独り言 VOL3 99 年の瀬

近頃タクシーに乗ることが増えた。師走に限らないのだが、初芝通信そばの某メーカーに通うことが増えたためである。初芝時代に開発した無線機が搭載されているタクシーに出会うと懐かしい仲間に出会った気がする。幾つかの交通手段があるのだがいずれの駅からもそこそこ同じ程度のタクシー料金となる。先日は、初芝の裏を抜けて鴨居駅まで歩いた。ボーナスが出た街には賑わいがあるようにも思える。

外資系にいると日常が日米の文化の狭間に悩むことがおおい。サンクスギビングに続いてクリスマス休暇である。よりによってこうした時期と日本の御客様の開発支援が重なってしまう。お客様の問い合わせが堆積していく。電子メールによる照会システムの入力がキューのままになってしまう。ジョブ割付が自動化されていないためでもある。感極まって、西海岸まで訪れるお客様も出現するが、クリスマス休暇の直前に訪問しても技術者はすでに休暇に入っている。人によってはそのまま年越しの休暇に入る人もいる・・・。

のんびりしていると思う反面、年の瀬の挨拶が日本で始まる頃にクリスマス休暇明けのメンバー達は、30日まで出社して仕事を続ける。日本オフィスは時差もあって二日早く休みに入る。年明けは、日本は5日くらいが良いところだが向こうは2日からは始まる。平均すればどちらも同じだろう。仕事を頼みたいときに向こうが休んでいると腹が立つのは情けないことだ。マイペースの気持ちをもう少し来年は取り入れたいものだ。2000年問題の年の瀬であり、システム対応のお客様もいらっしゃり麻雀卓を囲んでのんびりと会社で過ごす役員の方もいるらしい。

はじめて、コミケに出かけた。文学オタクのコーナーもあるようだった。アーサーランサムの同好会があるときき出かけたのだが見つけることができた。英国で書かれたこの冒険小説は、私の文章に影響を多大に与えている。来年は、英語の語彙をもっと増やしたいと思い、この昔読んだ冒険小説を原書で読むことにした。文書をよみつつ心躍らす領域にまで達したいと思う年の瀬である。