業界独り言 VOL215 Linux携帯の行方

電源ボタンを長く押すと、内部ではshutdownコマンドが発行されます・・・・なわけは無いか。cursesライブラリで画面更新・・・っていうのもなんだかな。マルチメディア処理も含めてアプリケーションプロセッサに潤沢なリソースアサインをして端末のバッテリー持ちは、PDA並で・・・という訳にはいかないしな、やはり頑張らんといかん訳でクロックを下げても動作するような結局はアプリケーションコードの質を上げるしかあるまい。鈍重なコードを書いてしまってリソースを使っているようでは消費電流もおぼつかないのでね。というような会話が始まりそうな時代になってきた。まさか、個人の携帯電話にUnixのような環境が似合うのだろうか・・・という愚問はなしだ。既にシャープのザウルスにはlinuxが搭載されている。状況からだけでいえば、各社が携帯電話の為に開発してきた独自のMiniWindowsのような環境の保守ならびにそこへのアプリケーションの流通性や利便性を考えての対応だろうと思うのである。

知人の知り合いに、Linux環境の構築などに明るいソフトウェア技術者のM嬢がいらっしゃる。メーカーでの研究所の開発研究作業を支援するという職歴を経るなかで独特の技術文化形成を行ってきたようである。Naviの開発などではWindowsが搭載されたりするなかで研究所という機能に求められるものは、新技術の実用化プロトタイプまでの開発というのが最近の流行なのだろうか。彼女もそうした流れの中で、研究所に課せられた課題を主体的に走り回るというソフトウェア開発仕事に没頭しているらしい。予め断っておきたいのだが、彼女は知人の知り合いであって直接の知り合いではないのだ。だから、私がここで書き連ねていることの多くは私の想像の域を出ないのだが、出典となるようなネタは知人経由での情報であったり業界の動きからの類推であったりする。

ソフトウェア開発技術者として、メーカーに出向して仕事をするのは日本では、ごく一般的なことである。一通りの仕事が任されるのかどうかということについては派遣先の文化に依存するようだ。Quad社には基本的にサブコントラクターは居ないので、仲間達と一緒に日本に訪問してお客様の支援をするときに皆が吃驚することのひとつでもある。お客様の仕事の仕方として通信バブルが弾けてからというものの、ソフトウェア開発業界自体は買い手市場に変わってしまったようであり、元気なお客様のもとに集うように変わってきている。業界が減速あるいは失速しているなかで開発費用のデフレーションも始まっているようなのである。アプリケーション開発をしている上での指揮者自体は依頼元の開発技術者であるべきなのだが人材不在なのか、育成教育の不在なのかとんでもない担当者しか居ないケースもあるようだ。

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業界独り言 VOL214 気が付けば新幹線

「まもなく京都です・・・」聞きなれたアナウンスが耳に入ってくる。先ほどまでは新梅田のホテルに居たのだが、急遽テスト切り上げになり予約していた走行テスト用のジャンボタクシーも単なる新大阪行きタクシーとなっていた。電話会議を続けながら傍らには、切り上げになったテストチームが乗っている。電話会議の相手はサンディエゴとお客様であり、車内も含めて複数の会話が進行していた。淀川越えをしつつの携帯電話での参加はCDMAでもタフな状態となっていた。予定の思いを巡らしつつ、コミュニケーションを支えていた。日曜から始まった今週のテスト支援作業は、福岡入りに始まり大阪へと移り、いまは帰途についている。エジプト人と台湾人が今回のメンバーだったのだが限られた二週間の日程で相当数のフィールドテストデータを取得していた。毎日が粗解析・データ送付・電話会議というサイクルを時差越えでまわしているのであった。

第三世代というオープンな規格の中での奔放な各インフラベンダーでのオプション選択の中で、実際の端末開発や通信キャリアのサービスインに向けては不自由極まりない様相を呈しているようだ。欧州での第三世代のスローダウンがあまり明白にはしてはいないものの内実からみると火がついたら大変だという思いが正直なところである。そんな中で国際標準に準拠するという方針を出したキャリアが選択したインフラベンダーは三社購買であり、各インフラベンダーの完成度や規格準拠の仕方もまちまちである。共通していることは3GPP準拠という錦の印篭であろうか。水戸のご老公がかざすそれとは大きく異なるのはどれもが本物であり、それを本物として鑑定している3GPPという規格に照らすと我儘ともうつる振る舞いの差異は許容されるべきものであるのだが・・・。

温度差のある各国の状況の中で始まった3GPPの規格ゆえに、各社の戦略や背景に根ざした技術オプションが多数あるなかで規定するというよりは多くの選択を認めるような規格となっている。一つの規格として国際標準という形に纏めていく上ではIS95のような一社の独創(独走?)で規定されてきた規格のようにはなりえないのかもしれない。国内発の通信技術であってもどこかの強大な通信キャリアとの共同研究で規定されてきたような通信規格となれば、各メーカーが我をはれる範囲は少ないのだが、そういった意味では国内通信メーカーは護送船団スタイルに慣れ親しんでしまったからなのかもしれない。国内通信機メーカーで独自の通信規格を打ち出し世界に打って出ていったメーカーもかつてはあったのだが、いまやそうした歴史については語られることもなく埋没しているようだ。

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業界独り言 VOL213 意味不明の職責タイトル

日本流に言えば、担当部長というタイトルから来る響きは、現場を出回ったりするという印象ではないようだ。こんなフレーズで始まったのは、18年振りに友人Kと会ったからでもある。友人Kはといえば、とあるショッピングモールの専務理事であらっしゃるわけで、まあお互いに茶化しあっているわけなのである。彼とは、前の会社の入社試験で出会って以来の付き合いなのである。オイルショックの後の最悪の経済環境下での就職活動は、バラ色と歴代の先生から伝えられてきた高専のご利益なんて無くなっていた。そんな中でも就職の門戸を開いてくれたのは例年の求人活動を止めてはいけないと考えている大企業か、良い人材が取れると考えてきたが、それまでは求人実績などもない中小の企業だった。

そんな中で二人の高専生が、目指したのは関西の家電メーカーである。電子回路を極めていきたい彼と、ソフトウェア関係をやっていきたいと考えた自分であった。しかし二人は入社以前に接点はなく、大阪で行われた入社試験会場で初めて出会ったのである。通常ならば会社が用意した宿に投宿するものの、私はといえば宇治に住んでいた従兄弟の家にお邪魔して会場に向かった。会場において初めて出会い、しかし何か気の合う同質なものを感じたのは互いが高専生ということであったからかも知れない。互いの母校の名前を話し出すと試験会場の席次が北から並んでいたことが知れたりしていた。試験問題の解答について話題がまわると、互いの理解度などの実力も知りえたりしていた。全く理解していないと思しき仲間もいたようだった。

二人が再会したのは、内定者の懇談会であった。関東地区の学生を東京支社の人事部門が集めたときのことである。出会ったのは彼だけでなく互いに「こいつは他にどこが凄いやつなのか」と勘繰るような仲間もいたのであった。無論そんな意識を持ったのは私と彼だけであったのかも知れない。それだけ同質な意識があったのは驚きでもある。同期入社ということや、不況で配属先が無いという時代の新人研修を一年余りも過ごす中で互いの志向がわかりつつ配属先が確定したのは翌年のことでもあった。不況ということもあり、彼は十数年配属されたことがない事業部門に配属されたのである。実習時代には、その事業部にはマスター卒の同期が実習生活を過ごしていた。電子回路専攻のマスター卒の同期君は、実習先での精密加工と電磁気・物性の世界の実習先での生活を日々過ごしながら配属されるのではというおもいにおびえていた。しかし、そこに配属されたのは自動車機器の事業部で実習していた高専卒の同期Kであった。

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サンディエゴ通信 VOL14 シンプルで危ないエレベータにニヤリ

発行2003/2/13

本社出張時の定宿は、Marriott LaJolla というホテルである。行き先のオフィスに至近なのが一番の理由なのだが、ここに宿泊している限りグループセクレタリのビックママからお小言をもらうことは無いというのも、大きな理由である。以前同系列の Residence inn というコンドミニアムタイプのホテルに泊まった時は、「小汚い」という意味のスラングを連発した上で、”I don’t like there!” とキッパリ言われた。ビッグママは困った時に大変頼りになるので、言うことを聞いておくに限る。

さて、Marriott には、4階建てのパーキングがあり、ロビー階に停められなかった場合には、別の階に停めてパーキングのエレベータでロビー階に向かうことになる。このエレベータの動作アルゴリズムが中々シンプルで良いのだ。2基並んでいるエレベータが全く独立して制御されている。制御アルゴリズムは「客が乗っていない際に、どこかの階でボタンが押されると、その階に向かう」というものである。例えば、三階でボタンを押すと、どこに居ようとも2基とも三階を目指すのだ。先に来た方のエレベータに乗りかかっているところで、「ピンポーン!」といって隣のエレベータが空いた音がする。両方とも三階に居た場合は秀逸である。2基のエレベータが「ピンポーン!」とユニゾンで音を奏で、ドアが同時に開くのである。人気の無いパーキングで思わず「ニヤリ」としてしまう瞬間である。日本のエレベータ会社ならば、さまざまな条件を考慮して、至近のエレベータのみを向かわせるという方式にし、大変なテストを行うところだろう。このような適当なアルゴリズムでも十分用事が足りるものである。

ホテル内には、さらに3基のエレベータがあり、こちらでもシンプル制御アルゴリズムを見て取れる。15階建てのホテルであり、さすがにパーキングのエレベータのような奔放な事は無く、ボタンを押すと一基だけが目的階に向かってくる(一番近いエレベータが向かってくる訳ではない所が謎である)。こちらのシンプルアルゴリズムは「どんな状況でも、ドアが開くときには、その階の案内をアナウンスする」というものである。例えば、既にロビー階で停まっているエレベータ(当然、客は乗っていない)がある状態でボタンを押すと、”Lobby floor. Registration and lounge. Going up.” とアナウンスが流れる。アナウンスの前半は、「これまで乗っていた客に到着した階を告知するものだから」という理由で、客が乗っているか居ないかを判定し、アナウンスするしないを決定するという制御をするのが、日本のメーカだろう。こちらも、細かいところにこだわらなければ、物作りも相当シンプルになるはずだと思わせる。

さて、このホテル内のエレベータには、危険が一箇所仕込まれている。写真を見ていただくと分かるのだが、「開」のボタンを上下からはさむように、呼び出しボタンと警報ボタンが配置されている。以前一度、ドアが閉まりかけてる状態で駆け込んで来た人を乗せてあげようと、「開」ボタンを押したつもりで、警報ボタンを押してしまったことがある。程なく「どうかしましたか?」とインターホンから声がし、動揺した状態で、英語で言い訳をした経験がある。よくよく聞くと、同様の失敗をしたのは、私1人ではない様で、やっぱり設計が悪いようだ。まあ、ここは細かいことに拘らないアメリカである、こちらが注意すれば良いだけのことだ。

Quad 社で仕事をしていると、「細か過ぎる事に拘らない」アメリカ人と、「さまざまな条件に細かく対応させたい」日本のお客様との狭間で、同様な物作りに対する意識の差で悩まされることが多い。お客様の言うことをアメリカ人の同僚に理解いただくというのが、日本オフィスのメンバーである私の役柄なのだが、お客様の言い分にも「それって変だよ」と思う事が無いことも無い。シンプルな設計思想に切り替えてもらえれば、私の仕事もどんなに楽になるのだろう。無頓着な気質になりつつある今の日本でも、シンプル思想で十分通用すると思いませんか?

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業界独り言 VOL212 肩の力の抜き方

自宅の新築工事という暴挙に走ったのは、気の迷いだったのかもしれない。先の見えない状況でどうするのかという声もあるだろう。今のマンションの支払いが残っているので身動きが取れないという仲間もいるのかもしれない。私自身社宅、中古マンション、中古一戸建てと移り住んできていて新築を購入したことが無いことが幸いしてか残債に悩むほどの暮らしではないことが良かったのかもしれない。とはいえ下落傾向の不動産の中で自宅の売却も購入価格の半分ほどの価値となってしまうのは致し方ない。幸いと残高よりそれでも売価の方が高いことが救いともいえるかも知れない。売却損の計上で来年度は税金の還付が行われると思われる。売却損は500万円ほどになるだろうから税務署にとっても税金還付は致し方ないことだろう。来年の税金還付を細君は当てにしてパソコンのリニューアルを画策しているようだ。借金を考える肩の荷を下ろしてくれたのは細君だったかも知れない。

不動産価格の下落傾向がバブルの結果だとすれば、何もせずに高まっていったこうした資産価値というもの自体は流動的な日本の景気の指標だったかもしれないしあがり続けるはずの無いものが破綻したのは致し方ないだろう。都内を毎日のようにテスト走行を続けているのだが、新しく華々しく立ち上がったビルと共に町並みにビルごと破綻してしまった幽霊ビルも多くなってきた。ビル横の広告も会社名から貸し会議室のようなものに変わってきている。バブリーとも映っていたホテルでの会議室を借りて行ってきたQuad社のトレーニングも、昨年からこうした貸し会議室を借りたりしている。無料で開くこうしたトレーニングに対して社内研修のような意識で新人を送り込んでくるというような状況がメーカーの方には見え隠れしている場合があったりしていたからだ。まあ食事・コーヒー付というスタイルで運用してきたトレーニングを時代に合わせていくという意味も含めてよかったのかもしれない。

借りた貸し会議室ばかりのビルは店子が居なくなった古いビルで、渋谷の駅からのアクセスは便利だった。幽霊ビルのような状況は随所に見られて不用意にもたれ掛かった防火扉が止まらなくなってしまったりしたのもご愛嬌だった。借りた貸し会議室は昼間は持ち込み機材などの保全の意味も含めてロックアウトする必要があった・・・。今までのホテルでのトレーニングで配布されるありきたりのサンドイッチを食べることよりは好きなランチを各自が好きなチョイスが出来てよかったかもしれない。床や壁が傾いたような気がする、こうした古いビルの横にはマークシティの新しい高層ビルが出来上がっていたりするのは、なんだかな・・・。お客様たちは、マークシティのレストランでランチを取ったりしていたようだった。相互補完は果たされているのかもしれない。私などは手弁当だったので、お茶を買い求めてデパートの屋上で食べることに相成りました。肩の力を抜くのは必要なことである。

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業界独り言 VOL211 3GPPへの疑問と求人

QUAD社の本社には、T君のようにスタンフォード大学の大学院からストレートに就職してくるケースもあるのだが、QUADジャパンのオフィスでは中途採用しかないのが現実だ。直ちに実践で使えるひとに入っていただく必要があるという建前と、教育の仕組みが全て米国サイド中心になっている現実とがある。ソフトウェア開発支援というお仕事に従事している仲間は、みなメーカーでの通信機器開発関連の経験者ばかりである。無論QUAD社のお客様だった人も4割はいる。そして、ソフトウェア技術者として支援の仕事をしている仲間達は、みななぜかヘッドハンターを通して入ってきた人ではないというのも現実であり興味深いことだ。

ソフトウェアという仕事が見えない性格の仕事であることも手伝うのかもしれないが、エージェントに求人探索を依頼して送られてくるレジメを見ていてもピンとくるようなケースは殆ど無い。したがって読み捨てになってしまう。無論Quad社にはホームページで直に求人広告も打っているので、かかれている内容は同じなのだが・・・何故か申し込んでくる候補者(ただしい訳なのかどうかは不明だがCandidateの事)の質というか意識は異なるようだ。見知ったお客様の中でモチベーションの維持に苦しんでいる先端技術者がいれば、仲間達や営業サイドからも声がかりがあったりする。また何故かお客様が転職してしまったさきで、また同じ仕事を続けてお客様であったりするケースもよくあり、この業界は狭いものである。

同一業界に居ながらお客様の間を互いに技術者が青い芝生を求めて異動していくのは不思議な気がする。移っていった技術者が移った先を「青い芝生で満足しました」というのなら、問題はその人が所属していた組織の瞬時値の問題だけだったのかも知れない。悩むひまも無く、仕事に忙殺されていて気が付けばその忙しさの根底となっていた仕事が無くなったりしている事態もあるかもしれない。せめて、自己の携わっている仕事の世界観を確実なものにしたうえで仕事をしていくのが技術者としての務めだと思う。工場や事務所の屋上が立ち入り禁止になったりする現状を見ていると、そうした世界観を持たずに一方的に会社に身を預けてしまっている公務員のような感覚の仕事のしかたをしているのかしらと首をひねるのだが・・・。

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業界独り言 VOL210 勤続疲労の行く末は

世の中は、ゆとりを求めて一律な勉強を目指さないことを奨励して自らのゆとりを持たない先生たちにはさらに、子供に対してオーバーワークをしながらゆとりを教えていくという矛盾を課した。そうして制度だけが先行して、時間や単位をすり減らし学校生活の先に待ち受ける社会生活とのギャップは、ある程度は大学受験という課題クリアということで維持しつづけていたようだった。しかし、大学生活にも受け入れがたいような状況の学生を受け入れざるを得ない状況を作り出し大学で補習しなければならない状況だとか。また、大学から社会に巣立っていく場合でも会社側で受け入れがたい状況を作り出して再教育をしているのが現実のようだ。マニュアル社会を標榜した結果なのか、学生たちが勤められる先はマクドナルドかデニーズのようなマニュアル本の徹底している組織にしか入れないようだ。

企業が自らの手で中高一環教育をしていくという姿をみたり、新卒就職不況の背景には働きすぎた過去の日本の高度成長時期からのギアチェンジを教育の手抜きという側面にだけ課したことが大きな要因だったのだろう。イデオロギーばかりにこだわる教育現場に近い人たちにしてみれば若者の意識改革をしたいという戦略もあってのことだったのだろう。目指したい理想の姿を共産主義的な姿に置いている人たちからみた日本の付加価値の低落傾向についての認識のなさが、そもそもの発端だろう。高度成長時代には確かに悪いツケもあっただろうし良い蓄えもあったはずだ。ツケの支払いのみに注目してリラックスした生活を目指した結果は、厳しいとも映る現在に繋がってしまったようにみえる。流れに身を任せるままに暮らせてしまった時代に清貧の思想も何も無く流されてきたものたちが企業の中核になる段階でバブルは破綻してしまった。

無論バブルとは無関係に、海外で学生生活を終えて、そのまま仕事に就いていた技術者たちも居る。最近雑誌で紹介されたQuad社でのT君などは稀なケースといえるのかもしれないが、彼を見ていると「日本の技術者のスキルを貶めているのは会社の組織そのものなのではないか?」という気にすらなってくる。組織の変革を求められているままに変身しきれずにダッチロールしている感のある日本のメーカーの現状で苦しんでいる様と、まだ31歳の彼がディレクターとして製品開発の陣頭指揮をとりつつ技術開発に取り組んでいる様には大きな溝がある。彼を見ていると日本人は捨てたものじゃないということを再認識させてくれる。しかし、現実の日本企業の中で組織の壁に苦しんでいる知人達は、孤軍奮闘して新規事業や技術開発を進めようという自己意識と現実の組織の壁に阻まれて自分自身のモチベーション維持すら困難という状況を甘受している風景に出くわす。

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業界独り言 VOL209 Part5 無線から組込みソフトへ

コンパイラーSDK編

組み込み開発環境が自分の手元のパソコンで動作し始めたのは、ある意味で凄いことだった。それまでは一億円もするスーパーミニコンでしか動作出来なかったCコンパイラが使える速度で小気味よく動作する机上のマシンはエプソンの98互換機のミニフロッピー版モデルであった。20万円ほどで当時導入できた640kBのメモリ搭載と2FDDというモデルにHDDを付けてコンパイルが出来るようになったのは凄いことであった。IBM-PC主流の開発ツールの世界にあって日本標準機に向けて開発ツールを移植して呉れた導師の成果は組み込み市場にとって凄いことだったのではないかと私は思っている。TurboPascalで開発環境に一大ショックを起した後にTurboCを投入して開発環境を必要とする現場にあわせた米国並みの価格で提供してくれたことが大きな一石だったと私は認識している。DOSにより実用的なサイズのコンパイラーが使えるようになったことは私にとってようやくコンパイラを実感する時代でもあった。19800円のTurboCの事実は、強烈なメッセージだった。

実は、私が個人的にコンパイラを買ったのはTurboCが初めてではないのであった。時代的にさらに遡り会社で8ビットパソコンが流行したことがあった。この際にシャープのキットを購入してキーボードの半田付けを楽しんだ後はBASICインタプリタの改造に励んだりしておもちゃのようなメカプリンタを接続して遊んだりしていた。さらに個人的に精工舎のワンドットプリンターなる安価なプリンターを購入してシャープの純正プリンターと同等に動作するようにBASICインタプリターの中身を改造するということを趣味の範疇でやったりしていた。逆アセンブラーで解析したコードにパッチを当てるという今から考えれば怪しげ極まりないものだった。シャープの販売代理店の目にとまり、買い上げてもらったのだがすぐに精工舎からシャープ対応品が販売されておじゃんになったようだ。小遣い稼ぎになったので、キャノンの一眼レフカメラを浮いたお金で購入したりしていた。そんな中で、フロッピーベースの環境などを利用しつつもまともなOSとコンパイラの利用には興味深々ということもあった。

シャープのMZ80から富士通のFM8に乗り換えたのは、漢字表示が出来たりといったことやカラーということもあったのだが、究極の8ビットマイコンと呼ばれていた6809の為に作られた、このチップのパフォーマンスを評価する目的で作られたBASIC09という高速ベーシックがあり、この機能などを使いこなす上で当時のモトローラ系OSとしてあったFLEXといったOSとは一線を画するマルチタスクのOS9というものが提供されるからでもあった。このOSをFM8で動作可能にするための周辺ユニットなどの一連製品を売り出したベンチャーがあった。ボーナスや蓄えの費用を大枚投じて50万円もの当時としては高額な現金を懐に入れてアキハバラに乗り込んだのだが、当時たまたま来ていた従兄弟には「次郎君が50万円抱えてキャバレーに行くといって出かけていった」と聞こえたらしかった。まあ確かに大金だったのだが、OS9という先進のOSに触れる経験はある意味で変えがたいものだった。確かにTSS環境のように8ビットマイコンが振舞ってくれたのである。マルチウィンドウが確かに動いていた・・・。

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業界独り言 VOL208 Part4 無線から組込みソフトへ

大きな会社で組織の壁に阻まれて変わりたくても変われないでいるという人がいる。お客様の立場を駆使して仕事を得てうまく会社の方向性を変えていこうという動きにはなれないのだろうか。次の一手を読みつつ自己修正をしながら取り組んでいくという姿が必要なのだと思う。トップメーカーとして果たすべき役割を認識して、時代を捉えて次代に繋がる開発をしていくという観点で見た場合に技術と営業の接点は限りなく密接な連携を取るべきだ。一時代をなしたリーダー達が、営業費用を散財していたという非難は的を得ていない。彼らは投資のための情報収集に投下していたのである。結果として得られた情報には、正しい方向性と必然性のやり取りの結果として入手してきたことにより意味を持つのだが、そうした意識なく取り込まれた軽薄な情報では会社の方向性を見失ってしまうだけだろう。

過去を振り返るシリーズが続く中で、アセンブラーベースの開発から高級言語に移行していく過程で考えて取り組んできたことについて記していく事には幾ばくかの意義があると考えてのシリーズ化となっている。大規模なシステムとなった分散マイコンによるシステム開発の成果はアセンブラーベースであった当時でも、隙間産業としてコンピュータメーカーに対抗しうる製品をくみ上げられることを教えてくれた。アプリケーションを開発する意識の人たちにトランザクションベースのソフトウェア設計を考えさせることの難しさもあったしアプリケーション設計とシステム設計といった階層の違いについて肌で体験することが出来てきた時期でもあった。機能が、高級化するなかで細かい対応をアセンブラーベースで追いかけていくことが難しいと感じつつもC言語でのコード効率やデバッグなどには手が引けている実情もあった。

そんな状況下でトップが示した新環境・開発スタイルへの移行ということについて成功した理由は、次のようなものではなかったか考える。新環境(UNIX)利用者への便宜を図り、旧環境の拡大を禁止する。新環境利用者のフィードバックを推進していく、支えていくためのチームを作る。次世代の若者を最初から新しい環境で育成する。ディープでコアな開発を新環境で進めさせて開発スタイルでの問題点を洗い出していくといったことである(であったらしい)。当事者という立場で、私はコアな開発をしていた。ツールが無いので自作しながら臨むというのがUNIXのスタイルであり文化でもあったようだ。毎日のように開発ツールを作りつつ実際の開発を進めていった、どちらもC言語で書くことにより言語への習熟にとっても意義のあることであった。

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業界独り言 VOL207 続々 無線から組込みソフトへ

待ちに待ったDVDが発売された、ダーククリスタルである。オリジナルの映画は83年のファンタスティック映画祭のグランプリをとったものである。83年というと約二十年も前のものであり、当時は新婚ほやほやの状況で最新のメディアであった30cmのレーザーディスクをVTRも持たずに購入していた。そんな状況であったのでダーククリスタルの作品はLDの作品として購入してみていたのだった。リアルタイムに映画館で見た記憶は無い。実は結婚当時、とんでもない状況下で生活していたのでそうしたゆとりなどこれっぱかしも無かった。結婚式を予定はしていたものの当時は両家からの連絡がつかないような状況で生活していた。家にも帰らず、会社と近くのホテルの間を行き来しつつ最後の詰めをしていたのだった。そんな時代を思い出させた当時のマリオネーションとも形容のしがたいファンタジーな映画だったのだが年月の経過でか、レーザーディスクが再生不能な状況に陥ってしまってDVDでの再来を待ち望んでいたのだった。

そんな思い入れのある映画を細君と見ながら、ようやくこの映画の当時の状況などをメーキングシーンなどから知ることが出来たのは、また素敵なことだった。コンテンツとしての形態がアナログ時代のレーザーディスクと現在のDVDのそれとでは大きく違っているのだが、当時のLDの中のブックレットを取り出してみると写真と文字で書かれていたものが、今回のDVDでは動画として記録されていた。20年間の技術の進歩発展は凄いと思う反面、こうした映画が作られなくなってしまった状況は発展とは呼べないようだ。この映画は構想から五年かけて様々な人たちの出会いとで完成に至ったと説明されているが、確かに当時の最新の技術で作られた撮影方法は斬新である意味で日本の円谷プロの怪獣たちと同系列なのかと考え込んでしまったり、映像の凄さはなぜこの迫力が作られるのだろうかとも改めて思い直してしまったりもするお奨めの映画でもある。

さて、そんな20年も前の自分はと言えば、駆け出しの技術屋から中堅のまとめ役への変身を迫られる中で分散マイコンシステムのシステム開発をしつつボードのネットワークドライバーを開発していた。目指す目標は、小型コンピュータシステムをマイコンで置換するこという大胆不敵なプロジェクトだった。システム商品といえば、以前であれば系列のコンピュータメーカーのミニコンに手足のI/Oをつけて作るのが関の山であったのだがカリスマのプロジェクトリーダーが提案したのは圧倒的な斬新なものというコンセプトでもあった。自動車電話のプロトコルや端末としての機能実現に心を割いていた時代を駆け出しの頃に過ごしていた自分を社内でのトレードで移籍させられた先では、趣味では使用していたZ80の世界に踏み出すことになり端末での68系列との対比が自分としては端末とシステムの違いでもあった。ソフトを守備範囲としているものにとってハード中心の世界での常識に少しずつ工夫を加えていくということが楽しみでもあり自分の存在理由だと考え始めていた頃でもあった。

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