世の中は、ゆとりを求めて一律な勉強を目指さないことを奨励して自らのゆとりを持たない先生たちにはさらに、子供に対してオーバーワークをしながらゆとりを教えていくという矛盾を課した。そうして制度だけが先行して、時間や単位をすり減らし学校生活の先に待ち受ける社会生活とのギャップは、ある程度は大学受験という課題クリアということで維持しつづけていたようだった。しかし、大学生活にも受け入れがたいような状況の学生を受け入れざるを得ない状況を作り出し大学で補習しなければならない状況だとか。また、大学から社会に巣立っていく場合でも会社側で受け入れがたい状況を作り出して再教育をしているのが現実のようだ。マニュアル社会を標榜した結果なのか、学生たちが勤められる先はマクドナルドかデニーズのようなマニュアル本の徹底している組織にしか入れないようだ。
企業が自らの手で中高一環教育をしていくという姿をみたり、新卒就職不況の背景には働きすぎた過去の日本の高度成長時期からのギアチェンジを教育の手抜きという側面にだけ課したことが大きな要因だったのだろう。イデオロギーばかりにこだわる教育現場に近い人たちにしてみれば若者の意識改革をしたいという戦略もあってのことだったのだろう。目指したい理想の姿を共産主義的な姿に置いている人たちからみた日本の付加価値の低落傾向についての認識のなさが、そもそもの発端だろう。高度成長時代には確かに悪いツケもあっただろうし良い蓄えもあったはずだ。ツケの支払いのみに注目してリラックスした生活を目指した結果は、厳しいとも映る現在に繋がってしまったようにみえる。流れに身を任せるままに暮らせてしまった時代に清貧の思想も何も無く流されてきたものたちが企業の中核になる段階でバブルは破綻してしまった。
無論バブルとは無関係に、海外で学生生活を終えて、そのまま仕事に就いていた技術者たちも居る。最近雑誌で紹介されたQuad社でのT君などは稀なケースといえるのかもしれないが、彼を見ていると「日本の技術者のスキルを貶めているのは会社の組織そのものなのではないか?」という気にすらなってくる。組織の変革を求められているままに変身しきれずにダッチロールしている感のある日本のメーカーの現状で苦しんでいる様と、まだ31歳の彼がディレクターとして製品開発の陣頭指揮をとりつつ技術開発に取り組んでいる様には大きな溝がある。彼を見ていると日本人は捨てたものじゃないということを再認識させてくれる。しかし、現実の日本企業の中で組織の壁に苦しんでいる知人達は、孤軍奮闘して新規事業や技術開発を進めようという自己意識と現実の組織の壁に阻まれて自分自身のモチベーション維持すら困難という状況を甘受している風景に出くわす。