業界独り言 VOL240 相互誤解のコミュニケーション

中断してしまった最後のミニコミ誌の最後のナンバーが24号だから、今回の240号というのは10倍にあたり期間としてもほぼ同質の四年余りを綴ってきたように思うのである。この新世紀としてのバックナンバーが続いてきたのは、独り言とはいえ何人かの知己たちからの檄があったからだと思い返している。忙しいのはいつの時代も一緒であるのだが、何か忙しさの質が変わってきたのは仲間の広がりや仕事の広がりを感じるからだろうか。マイペースでありながら忙しさを維持できるのはサポートしてくれている家族や、今の会社のインフラや風土にマッチしているからなのだろうか。

四年前に出していた私小説めいた説明文が、ある知己にようやく届いたらしかった。私は既に届いていたはずの積もりで付き合ってきたので互いの誤解の上でも、それなりにコミュニケーションが成立していたのだろうかと思ったのだが彼からの短い感想は、確かに四年近く経ってから届いたという実感のものだった。「あーそういうことだったのか!(新たな発見の喜び)。あーそうだったなあ(温故知新の懐かしさ)。あーそうだよなあ(・・・)。等など、思わず、時間を忘れてしまいました」。こういった形で心情を吐露されると、いままでのコミュニケーションがどれほどの精度だったのかと思い悩むことにもなってしまいそうであった。

自分としては、説明文をレンタルサーバーや自宅のサイトに制限なしのFTPで公開する設定にしていたので、誰しもアクセス可能だと思っていたのだが、確認したのは自分自身の会社からアクセス出来ていたので気が付かなかった。FTPのクライアントとのネゴシエーション条件によってはPASVモードでのアクセスになれそうした際に自宅のファイアーウォールでもあるルータが正しく設定されていなかったためにFTPの実際の適用する通信ポートがオープン出来ていなかったり、また外向けDNSと内向きDNSとの設定なども相関していたので実際にはあまり会社などの中からアクセスすることは出来ていなかったようだった。自身のサイトの立ち上げ当初はレンタルサーバーであったのだが最近では自宅ドメインにアクセスが増えてきていることや、当初確認されていた方はみな個人のダイヤルアップな時代だったからなのでもあろう。

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業界独り言 VOL239 納得のいかない仕事を納得づくで

納得のいかない仕事をしていることくらい、技術者として辛いことは無いだろう。仕方なしにやっていますというのではモチベーションが揚がらないし仕事の精度も下がってしまうわけである。自分達の取り組んでいる仕事の意義や技術的なテーマについて自身で納得がいけば、ある意味どんなことにでも立ち向かっていけるのだと思う。納得のいかない仕事をしなければならない板ばさみで悲鳴や咆哮をあげている知己がいる。彼らは、それでも立ち向かっていっているようなので幾ばくかの意義を見出して仕事にまい進しているようだ。そんな意義も見つからないような仕事に自我を忘れて家族との生活を犠牲にしてまで出来るはずはないからだ。同じ仕事をするのでも視点を変えて取り組むだけで如何様にでも変えられるのではないかというのが私の経験には幾つかある。

技術屋というものの中には、仕事に対して取り組む算段や方法から先に考えてしまい、割と固定観念に固まった考え方をする人が多いように思う。幾つもの仕事の可能性を欠片からでも取り組んでみようというのも、会社としては容認されるべき姿なのではないか。まあ、そこまでの余裕がないのだといってしまえばお終いなのだが・・・。遊び心を糧に仕事をすることばかりではないにしても、四角四面に自分のテリトリーを固めてしまう必要はないと思うのである。開発などの過程で呆然とするような事態に遭遇したりすると自身がプラス思考で取り組めるのかどうかが鍵となってしまうのだろう。あまりにも仕様が未確定で次々と変わりながら、納期と性能との双方に課題があるという中で担当しているソフトウェア屋が蒸発してしまったという事件が起こった。

蒸発してしまったというのは、大袈裟なのだが要するに会社に来なくなってしまったのである。当時の組み込みソフトウェア開発業者の規模からいえば、開発依頼しているほうも受託するほうもスペアや予備の人材などが居ようはずもなかった。そして担当していたソフトウェア屋の二人とも連絡がつかなくなってしまったのである。この端末開発には、実は会社の威信が掛かっていたような実情があり、それでも外人部隊の二人のソフト技術者と仕様をまとめていた私の上司さらにハード担当のロジック技術者一名であり、私自身は外人部隊の二人の技術者が会社の開発環境の中で仕事が出来るように世話をしていたというのが実情であった。問題の仕事というのは、フルターンキーで無線電話機と電子交換機ならびに基地局装置などを開発納入するという一大プロジェクトなのであったのだが100人ものソフトウェア技術者が担当して開発没頭している電子交換機と比較するのに無理はあるにしても温度差の激しい仕事であった。

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業界独り言 VOL238 M君のこと、N君のこと

ソフトウェア開発ということで携帯電話業界を見たときに、やりがいのある仕事なのかは各人各様の意見があるだろうし、実際取り巻く環境も実はバラバラである。同じ仕事を示してみても、個人のそれまでの環境により反応は大きく異なるようだ。M君とN君は似たような境遇にある、それぞれが私たちのお客様の会社で働く技術者であったことが共通項であり、更にその会社が端末開発事業から撤退していったということも共通項である。お客様が事業から撤退するということは残念なことであるが、ビジネスモデルなどの不一致など撤退する理由は様々であるようだ。撤退の報を聞きつけると、営業マンはビジネスバランスの次の段階を考えるし、サポートしている我々は開発リソースのバランスを考える。

開発リソースとしての人材はかなり流動化してきているのが実情で、同様の仕事をしているのにお客様の間を渡り歩いて移り変わっていく人があるのは、プロジェクト運営の違いや社風の違いなどが多様なことをあらわしているようだ。ある人にとっては働きにくい環境が、ほかの人にとっては魅力的に映ったりもするからだ。M君の事例はといえば、会社の開発撤退の報を聞きつけて指示を出したのは他ならぬ弊社の経営トップだったりする。開発という仕事を支える経営バランスが崩れたことによりエンジニアが流出するのは必定であり、報を聞いてから訪ねたお客様のオフィスはもぬけの殻だった。プロパーのエンジニアは、失職するので転職していて残っているエンジニア達は元より借り物の外人部隊という実情だった。

携帯電話開発プロジェクトをまとめて受注したといえるシステムハウスというのが、かれの所属する会社の実態でありQuad社のソースに基づいて評価用セットを用いたり試作ユニットの開発までをこなしていた。そんなプロジェクトが終結せざるを得なかったのは、発注元であった外国メーカーの東京開発センターという組織運営と働いていたプロパー技術者達との感性の差がきっかけだったようだ。外国メーカーのサテライト開発センターとしてまとまり仕事にあたるなかで、実はその仕事自体が数ある社内開発プロジェクトの中の競争の産物だという考え方が、そのメーカーにはあったようだ。競争を勝ち得たデザインはラインに流れていくが、勝ち得ない開発プロジェクトもあるということである。

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業界独り言 VOL237 オープンな携帯ソフト開発には 発行2003/6/8

携帯電話をオープンな形で開発可能にしようというのには、まだまだ解決すべきテーマが山積しているようだ。このテーマを列挙するだけでもビジネスの芽や特許の萌芽があるかもしれない。何も感じないという人には戯言にしか映らないだろうけれど、まあ世の中そんなものである。ひらめきを大切にしないと世の中に自分とそっくりの人間が三人いると言われているのと同様に、同時期に同じアイデアにたどり着く人間は必ずいるのである。行動しないでいるのは、大きな損なのではあるが、地動説を説くような事態にあっては個人で申請する以外に会社側でも特許など受け付けてくれないかもしれない。それでも特許は出すべきであろう。

テーマの一つには実機で行うデバッグが挙げられる。当たり前のようにJTAGを使えば簡単な話だというなかれ。確かに現在のチップセットだけでみればJTAGでデバッグしてしまえば簡単であり、問題はそうした形態であっても機体番号などの情報の書き換えや読み出しを出来ないような形にしてほしいというのが通信キャリアの考える実機でのデバッグなのである。アプリケーション開発のみに終始するようなベンチャー達と業務を運用する世界とを分離したいというのがテーマの背景にあるからだ。そうして現在供給されている多くのアプリケーション開発環境自体はPCなどでエミュレーションするものであり中々実機での確認との間の差異を埋めるのに難しいからでもある。また、メーカーの多くが今までは開発してきたブレッドボードのような物をベースに供給するには環境構築の費用が折り合わないからでもある。

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業界独り言 VOL236 ベンチャーと大企業 発行2003/6/7

友人の無線屋からメールが届いた、相変わらず忙しいらしい。前向きな忙しさなら良いのだろうが、どうもそうでもないらしい。まあ忙しいとメールで打ってくる場合には、少し心亡くしている状況であることに違いは無いだろう。メールを打つ気持ちまでも失ってしまうような状況では無いのが救いともいえるのだろう。メールを打ってくるのはある意味で彼の心の防御弁でガス抜きがてらの様子だ。SMSで労苦を詠んだ狂歌を送付してきたりするのは、渦中からだったりもするようだが。休日には自分自身に戻りつつ始まる週にあたり気持ちの整理や対策を考えてのことで心情メールとでもいえるのかも知れない。日本自体の製造業での閉塞感にあって、さらに焦燥感を推し進めるのはそうしたなかでの無意味な競争やデフレに伴うコスト圧縮要請などにいままでの開発成果を含めたビジネスモデルが破綻していることなのかもしれない。

いまやお客様毎にメーカーがカスタマイズした仕様で無線通信システムを開発納入システムアップを出来るような状況には国情が達していないというように感じるのだがいかがなものだろうか。言い換えれば、今ある製品群のみで対応していくしかないので、今自社に無いものはOEMするしかないのである。新規開発投資していけないだろうということである。あるいは、未だにそうしたビジネスモデルで動いている部分があるとすればバブル後遺症のメスが届いていないセクションといえるのだろう。親方銀行あるいは親方日の丸といった感性で開発を続けて納品したりしてきたSE集団が、ビジネスモデルの変遷に向けてどのように対応をしていくのか悩みは尽きないのが現場のようでもある。地方で無線システムの構築などを進めている知己なども、そうした波及を受けているらしく現在取り得る選択肢の中で旧来のお客様の運用してきた姿をどのように取り入れていくことが出来るのか悩んでいるのが実情らしい。最初に落ちるのは従来のビジネス用無線システムであり、いまやPHSやPDCあるいは無線LANを駆使しつつどのような形で提案できるようなものをシステムアップ出来るかということになっているようだ。

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業界独り言 VOL235 新人のOJT 発行2003/6/5

足掛け五年目となった今年、五度目のワイヤレス展示会の季節を迎えることになった。当時と比べると、ベンチャーらしかった雰囲気からは大分変わってしまったかもしれない。気が付けば、この四年の間に出逢ったお客様が今は仲間としてさらなるお客様との間の血縁関係を深めているというのが実情である。業界は2HOP範囲という、言葉が当てはまるのはこうした血縁関係により増幅されているのかも知れない。そんな中で独り言を書き続けてきた成果なのか、最近では掲示板への書き込みをアクティブにこなすOMも現れてきたのだが、期待する中核となるYMたちの意識には火がつくのは、まだ時間が掛かりそうだ。知己たちに向けて、夏の挨拶も兼ねた展示会の案内状を送付するのもここ数年続けてきているのだが、今年はいかなものか。期待されているのならば送るべきだろうし・・・。

色々と動きのあった先月は、書き込みの頻度も多く独り言の月間発行記録を更新したかと思われる。最近では、メールを待つわけでなく直接ホームページを巡回している方も多いようで、何か反応があるのかと期待をしたりもしている。四月から加わった仲間は、入社時期が遅れたために、研修時期を逸してしまっていた。この為にセルフラーニングの日々が続いていたのだが、お客様が米国に一週間コースで仕上げツアーに行くことになり、これを機にサポート業務を最初の米国業務としてOJTとしていくことになった。受け入れ側のリソースとお客様の開発のバランスに成り立っているのが我々のビジネスなので時期を逸すると中々時間が取れないというのが実態でもある。無論、部署によっては異なった事情もあるかも知れない。人は欲しいけれども、受け入れ態勢と教育のタイミングはよくよく考えて計画的に行うことが必要になる。

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業界独り言 VOL234 勝負に出る技術者たちPart3

新橋に新しいオフィスを構えたT君を訪ねた。技術ベンチャーのアンテナサイトといった雰囲気である、ジェネラルマネージャーという職責だが、部下はまだ居ない。Java創業過程で培った経験や人脈からは、彼の信望は業界では厚く退社に関しても前職の社長との確執などが揶揄されているようだ。携帯向けビジネスを通じて立ち上がった国内のJavaビジネスの中心として、大きな事業に育て上げた彼の功績を社長は、誇らしく思うだろうし退職については、次のステップを目指す技術者の姿として歓迎してくれたに違いない。まあ、現社長にしてみればビジネス渦中のものとして移れない歯がゆさから羨むことはあるだろうけれど。この業界の人脈フローは2HOP世界観とでもいうような事態となっているので、彼のいた会社にはQ社でも名をはせたメンバーが今は居たりする。知り合い同士が仕事を通じて、どんどん移りつつ仕事を深めていっているのが実情といえる。

通信キャリアなどとの共同開発的な側面が色濃い携帯電話向けの技術開発を経験してきたTさんにとって、新たに選んだテクノロジーベンチャーは勝手の違う会社といえるかもしれない。銀行からの一億円の出資要請なども「使い道があれへん」といって断る姿には、テクノロジーベンチャーの経営者として経営を小さくまとめつつ長く伸ばしていくという効率経営を実現されてきた自負が映っている。ほぼ創業期の18年ほど前から、この社長の山本氏や専務の塚越氏とは付き合ってきた。現場をしる技術者として課題も将来も把握した上で期待される技術を鋭く嗅ぎ分けて、悠々と進めてきたのである。カリスマソフト技術者のこのコンビネーションが生み出した成果は、日本の組み込み技術の最先端といって間違いないと思えるのである。専務の塚越氏が生み出すハードウェアとそれを支えるソフトウェアの絶妙なコンビネーションはベストオブ組み込みマイスターといえるものである。

そうした塚越氏が暖めてきたアイデアは毎日地道に開発を続けて「これが、あたれば宝くじ」といいながら実現化を進めてきて結果としていくつもの宝くじ以上の成果をあげて組み込みエンジニア開発環境としてはベストと思える環境を落ち着いたたたずまいの関西に作り出していまも続いている。組み込み開発で、分業を深く進めてきた日本のメーカーが失ったと思える技術や風土は、ちからづよくこの会社では脈動しているようだ。分業を果たしつつも、文化風土を醸成していきたいという真摯な気持ちと、それを容認する会社としてのスタンスがあれば日本のメーカーも組み込み大国日本というような国の打ち出したキャッチフレーズを支えていくことが出来ようものなのだが。いまを支える事業のなかの薄っぺらい技術ベースを認識することなく再生産あるいは導入技術の再編集ということに明け暮れているとすれば自身の向かう針路すら決められないだろう。

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業界独り言 VOL233 ルールに縛られてPart2

会社を使いこなしてこそというのが、会社に勤めることの意義ではないだろうか。一人では出来ない仕事に携わっていけるということの価値を問い直してみることで会社に属するという意識から抜け出せるのではないだろうか。会社から与えられた仕事に取り組む上でも自分自身の技術者としての取り組みたいカウンタープロポーザルを提示しつつ工夫を凝らしてやっていくということだ。同じ仕事の仕方を続けているのならロボットと同じである。そうした流れに則って考えてみた上で障害になるルールがあるのならば、論陣を張って対抗してみてより良い結果が示せるのならば上長の許可を得てルールの一時的解除などを画策すればよいのである。良い結果を示せればルール事態が変わっていくはずである。新たな実績のない技術などでのチャレンジなどは失敗も考えられるが故に、別の対応を上長は考えた上で取り組ませるに違いないからだ。

組み込みソフト開発としてC言語を初めて使いこなそうとしたのは、実は4ビットマイコンでのことだった。8ビットマイコンでアセンブラを駆使してやってきた仕事を高級言語を使って4ビットにするという取り組みにはおそらく別の意味もあったようだ。マイコンチップの開発を始めてから当初より家電向けに特化してきたメーカーとして自社チップの最新型4ビットマイコンの強化を果たして来ていた。コスト力も含めて社内製品の活用は一つのあるべき姿といえたかも知れない。前哨戦として4ビットマイコンで作った小規模な無線端末装置のプロジェクトを経てメインラインの端末に乗せコストダウンを図るというストーリーを持った開発戦略をしいていた。8ビットマイコンで構築してきた業務用無線機器を4ビットで置換するという目的には完成度の高さが求められていたし、当時事業部として取り組もうとしていたC言語シフトに照らしてみても4ビットマイコン向けのCサブセット言語の評価適用などの条件を出しつつ、会社側のハードコストダウンというテーマと技術者としてソフトウェア開発をC言語で実現するというテーマのこれら二つの挑戦をすることになった。

8ビットで開発してきた製品ボリュームを4ビットマイコン一つに押し込めることではなくて、二つの異なった周辺回路の特性をもつ4ビットマイコン二つによる分散処理での実現ということでのチャレンジでもあった。このほうがより難しくなることは自明ではあるのだが・・・。開発環境は、導入されたばかりのVAX11−780であり他のユーザーは殆どいないという状況での取り組みだった。ビジネス戦略上の重要な位置づけの商品開発にこうした賭けに出たのには用意周到なトップの抜かりなさもあってのことだった。4ビットマイコンの評価を兼ねてハードシミュレータと呼ばれる評価ボードを使い、開発環境としてのVAXでコンパイルした結果のコードをダウンロードする仕組みまでは作りこむ必要があったが、シリアルポート同士を繋ぎこみつつホスト側のツールコマンドをさらっと開発してモトローラSなどのフォーマットをパースしてダウンロードというよりもメモリー書き込みのコマンド操作に置き換えてシリアルに出力することでダウンローダは完成してツールチェーンが出来上がった。

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業界独り言 VOL232 ルールに縛られてPart1

最近の携帯業界のメーカーの多くが出荷端末のルールとして、ソースコードの検査ツールを通して合格することを必要条件としているらしい。端末ノコードレビュアーとしてツールが活躍していることになるのかもしれないのだが、果たしてツールが指摘した内容が、実はコード設計者の意図どおりの結果であるとしたら、彼らの追求は行き詰まってしまうのである。購入して利用するこうしたツールを使いこなしていく上では指摘した内容についての理解が求められるわけである。まあ、これを接点にしてソースコードを理解しようといった趣には良い教材提供ということになるかもしれない。大規模にわたるソースコードによるシステム動作にあっては数多いフィーチャー同士のコンフリクトなども考えられるのでツールが手助けになることもあるのは事実なのだが。

仕事をしていく上で前例がないという事態にも遭遇することもあるだろう、対処すべきルールが無いのである。ルールが無い場合には、最も近いルールを意訳あるいは拡大解釈として前向きに処するのが一つの処方箋といえる。事なかれ主義というような気風では、技術屋としての看板を下ろしてしまったようなものであるからだ。私が遭遇した時代においては、幾つかの事例があげられるので参考になるかも知れないのだ。デバッガーというものが製品として8ビットマイコンの登場にあわせて国産品で出てきたのは、79年のころだっただろうか、マイコンというものを使いこなしていく上でデバッガを自作していくのは当時としては普通だった。製品化されるということで自作の労が軽くなるというのが当時の位置付けでもあった。アセンブラベースで8kbほどのソフトウェアを開発していくというスタイルには開発ツールからのデータチェーンが準備される市販ツールの意義は大いにあったといえる。何しろモニタROMを製品に組み込まなくてもよいことになるからだ。

ルールが無い事態として突入したのは、自分達の意図する開発環境とツールの開発環境とが合わないことに端を発していた、今で言うところの貸し出しメモリが機能としてなかったからだ。私が最初に取り組んだ仕事は、ソフトウェアの開発環境としてこのデバッガの外部端子の仕様から、フラットケーブルで接続するという仕様で動作させるというプライベートメモリーサブシステムを製品デバッガに合わせて設計製作することであった。クロックジェネレータ、小容量の内蔵RAM代替部(128バイト)、さらにはEPROM代替部となる貸し出しメモリ(8キロバイト)といったところであった、マイコンのシステムクロックが1M程の時代であり、のんびりとしたものではあったがとりあえず新入社員の仕事として回路設計とP板の設計依頼そして検図、部品手配、製作といったことをこなしていた。適当なケースを探してきて2台ほど組み立てたような気がする。試作ラインも無い時代なので自分で半田付けで作ろうとしたところ、庶務の社員にさせるように上司から指導をうけた。半田付けをしたこともない庶務の社員にさせた結果は高くつき結局半田付けの指導教官とあいなってしまったようだ。

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業界独り言 VOL231 勝負に出る技術者たちPart2

オブジェクト指向を極めたいと、FA宣言を行い自ら社内に新天地を見出して積極的な自己開発ステップの勝負への路に踏み出した知人がいる。前向きな技術者の仕事の成果は、管理者の視点からも有用な成果であり手放しには喜べないのかも知れないが、優秀な技術者の成果が発揮できずにモチベーションの下がった仕事しか出来ないのであれば会社にとっては、それこそデメリットであろう。人それぞれ重荷を背負って暮らしているので、生活を支える当主として安易なFA宣言ではなかったのだろうと思う。家庭があり、土地物価の高い国で身を粉にして働いているお父さんが閉塞した状況に細君からも見える状況での転身を図るにはそれ相応の責任が果たされる見込みが出来るということが必要なのである。

以前の会社で、モチベーションが維持できずに転身する状況に陥った知己がいた。無論会社組織としての仕事の進め方に問題があったのかも知れないし、先輩としてそうした知己と話す機会があれば、逆にもっと活用する方策は幾らでもあったのではないかと思い返すのである。有用な経験を積んだ優秀な技術者を、飼い殺し状態にしているのが、その頃の実情であったのなら血流を良くする意味で社内人事交流という形を使って活性化を図ることが出来るはずである。転身という契機に、いろいろと取り組みたい気持ちと新たな組織に入っていく不安などが錯綜しているのだろうと思っていた。その後、自身でも勝負に出るという事態に直面するときに知己と出会い少し話しを交わした折には幾らか彼の気持ちが判ったりしたものだった。

臨死体験ではないけれども、経験しない人に説明するのは難しいものだと思う。逆に、そうした臨死体験をして転身してきた技術者同士の意識交流は結びやすいのかもしれない。無論仕事を通じて、アグレッシブに色々な事業に手をつけて事業家としての経験を積んできた技術者などにしてみれば、臨死体験をした人の感覚などは当の昔に達観しているということもいえるのである。企業家としての経験を何らかの形で一度出来たのかどうかといのが一つの踏み絵になるのかも知れない。そうしたマインドあるいはポリシーを持つ会社風土に出逢えた技術者は幸せだろう。しかし、環境が素晴らしいとしても、その中に転身してきた人が自身を次のステージに押し上げられるかどうかは、その人の意識次第といえる。

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