サンディエゴ通信 VOL19 大阪から米国へ 

発行2003/8/27

大阪市内にある、Quad社大阪オフィスは最近関西地区に増えつつあるお客様対応の拠点として準備されたものだが、このところ毎週新幹線でここに通勤しているようなありさまとなっている。ネットに繋がればどこでもオフィスとはいえ、プリンターやコピー機があるビジネスセンターが必ずしも私たちの要望に適うものも少ない。落ち着ける場所として仕事が出来る事務所があるのは、嬉しいことでもある。環境的に言えば、東京事務所の青山一丁目という場所は食生活的には不満足なエリアである。以前の赤坂見附の事務所近辺にあった庶民的な匂いがなくなり、ちょっとねぇという感じが否めないのだ。そういう点からも、日本一の長さを誇る天神橋筋商店街などに近接する大阪事務所の包容力はたいしたもので、さすがに食い倒れの街「大阪」といえるかも知れない。

サンディエゴ通信のはずが、こんな書き出しで始まる状況は、実は今年の状況を良くあらわしているといえる。3G開発でお客様に詰める仕事が続くのは、お客様の場所に通いつめてコミュニケーションよく開発を進めてもらうために他ならない。電話会議ひとつ取ってみても東京と関西に離れてさらにサンディエゴを繋いで行う開発問い合わせなどは互いの言葉の相違、文化・技術・経験のギャップなどがあり効率よくまわすために仕事の拠点を大阪に移しているとも言える。無論、逆の立場の人もいて大阪に住みながら仕事の拠点を東京に移して働いている仲間もいる。それぞれにビジネス目的が異なるのであるが、東京地区には会員制のビジネスホテルと契約している反面、関西地区ではシティホテルベースで仕事をしたりしているのが異なっている。

高級ホテルの従業員にすっかり顔が売れてしまったりしている状況があまり正しい姿とも思えず、関西圏のきさくな食生活などを満喫するために盆休みにホテルが満室の期間だけは、近くのホテルをいろいろと泊まり歩いたりしていたのである。お客様の要望に応えつつも米国チームの都合や必要性などに応じて都度、サンディエゴに行くというのが基本スタンスではあったのだが、春に離陸した3G端末に続く開発にも大阪での支援作業の勢いが続いていた。最後に一気呵成に仕上げていく上では、互いのコミュニケーションを高めつつ完成度を上げていくという状況にお客様のトップが賛同するようになるのはいつものことである。月曜に大阪入りをして火曜の朝からお客様のオフィスに伺い電話会議に向こうからも参加するというのが最近の技でもあった。こうして土曜まで続き帰るという生活なのであった。

いつでもパスポートを携行することが義務付けられているQuad社では、こうした気さくな大阪生活の渦中でも突然、米国行きになるのは致し方ないことである。ただし今回はハワイでの仕事(?)までも、仄めかされていたのではあったのだが・・・。「わたしリカよ」とおじさんが気味のわるい声で娘の3G携帯を持ち出したCMがあったように、ハワイは重要な拠点なのである。今回の発端は、2G端末サービスが米国の特殊性などが背景となっていることもあり、フィールドテスト会場としてキャリアが選んだのはハワイなのであった。近いということや担当者がハワイに行きたいといったことではなかったようである。ハワイで評価試験を担当することになった担当セクションの課長さんは慣れない海外での試験に一人で指名されて困惑してヘルプを挙げていたものの、「ログ取り依頼をするのみなので同行しても・・・」とつれない回答を会社では行っていた。そして彼の試験結果に基づいて、必要があれば米国にいく事になると言い含められていたのである。

とはいえ、キャンセルすれば良いというようなチケット手配をしてはいたのである。ホテル手配はお客様の分も行う必要があり、会社レートでの安価な特典価格でとまっていただくといったサポートも私たちの仕事でもある。まあ旅行代理店のような雰囲気もしばしばである。現地でのお客様の食事の手配やら週末がかかった場合の観光までも含まれたりするのである。今回のように短い週末にかけての渡航も珍しくはないので、私にとってはのぞみのチケット払い出しとホテルの予約などと同列だったりする。グループセクレタリの派遣社員のお嬢さんなどにも、電話やメールで出先から刻々と変わる状況を伝えて更新を願ったりしているのでもある。テスト機材の確保などが図られそうだという一報が決めてとなって、ソフトウェア試験担当の方がまずは渡米を決断されたので私の支援渡航も決まってしまった。

今回は大阪の出先からの渡航なので、関西空港からのフライトとなりいつものノースウェストが使えずに日本航空を使うことになってしまっていた。騒がしいのん兵衛おじさんたちがくだまくキャバレーのような事態にならなければよいと思いつつ、チケットの送付をホテルのレセプション宛にしてもらっていた。夕刻までには大阪の代理店から時間便で発券されたチケットがホテルに届くことになっていた。キャンセルすることもなく決まってしまった状況からの次の展開は、午前中の米国との電話会議を終えてから翌日フライトすることになっている人たちとのスケジュールやら連絡方法の確認に追われる。初めてサンディエゴにこられる方に会社やホテルへの地図をPDFで送付したり、持っていくハワイでも使える例のリカちゃん電話の番号を教えたりといった具合である。

おしゃれな作りになっているお客様の外部業者を対象にした食堂でランチを取ってから事務所に戻ることにした。大阪地区の夏の日差しは強く戦略もなく歩くのは耐えがたいものがある。どういったルートを辿れば日陰を多く歩くことが確保できるのか考えずに出てしまうと、そんなことを考えるのも嫌になるほどの暑さに参ってしまう。パンチドランカー状態ともいえる麻痺した感覚の組み込み開発エンジニアの日常から考えれば、皆気にせずに暑い日中を避けるのが狙いなのか日がとっぷりと暮れるまで誰も帰ろうという人はいないようだ。まあ、派遣で来ている多くのエンジニアの場合には管理担当の方が日中に顧客先訪問で訪ねてくるのに対応して報告をしたりすることはあるようだ。大通りを避けて裏道を通りながら進んでいくと昔ながらに打ち水をしてくれたりしている商店などがあり助かる。

天神橋筋商店街の近くに位置するオフィスまでは快速電車でものの15分ほどであり、戻った先から出張に必要な後一組程度の着替えの送付依頼を自宅に電話して、宅急便は翌朝にはホテルに届く段取りとなった。10年あまりの出張でガタのきていたスーツケースは、この際処分することにして新しいものを浪速の商店街にて物色することにした。無論、大阪駅前に行けばヨドバシがあるので簡単なのだがそれでは浪速の気分を味わうことも出来ない。長い長い天神橋筋の商店街をずっと歩いて探すことにした。見つからなければ天満駅から大阪まで環状線に乗るというオプションも選べるからだ。幸いにして天神橋筋の四番街まで進むと果して待望のかばん屋さんが何軒か見つかった。丈夫そうなスーツケースをサイズから判断して選んだ、ジャスト一万円の破格値という次第だった。

空のスーツケースをカラカラと転がしながらの試走には天神橋筋のアーケードの舗装はもってこいだった。オフィスまでの二キロ弱の道のりで初期不良は見つかることもなかった。スーツケースには小型のかばんがそのまま押し込めることが出来たのでマイオフィス環境であるDVDやらHDDやら一切合財をカバンに入れた後にそのままスーツケースに入れることになった。大き目のスーツケースに変えた威力は明らかだった。ホテルに戻ると、電話のメッセージランプが点灯していたので、そのままレセプションに急行してチケットをゲットした。中身を確認してから翌日の流れを考えつつ荷造りをはじめた。パスポートはいつも携行しているので問題はなかったし、フライト前に航空会社のキャンペーンをインターネットからチェックするのも欠かさなかった。今回は、残念ながらデラックスなキャンペーンがよく行われるいつもの航空会社ではなかったのだが20000マイルのスペシャルマイレージがつくということだった。

翌日も朝からお客様に訪問するも、同行するはずのお客様自身は、ご自身の出張準備に追われているようで、出社されていなかったり、出社するもお会いできなかったりという次第だった。昨日決まって今日出発という体制が取れるということ自体は、ベンチャー気質の会社であるといえるのだが、目的を考えてもうすこし心に余裕があればと思うのだが、いかがなものか。お客様を交えた米国との電話会議を終えるとまずオフィスに戻り、近くのインドレストランにてお勧めのランチを平らげて暑さに備えて、残った仕事を確認してからホテルに戻り、預けていたスーツケースと届いていた着替えを受け取りロビーにて荷造りを完成させた。見た目にはスマートな荷物ではあるが内容物の重さは隠しようもなく、そのままタクシーで難波の駅に急行するという安直な道を選択してしまった。シャトルバスで大阪に乗り付けて東梅田から谷町線にのり、南森町乗り換えで堺筋線にという選択は、記憶からマスクされてしまっていた。

JRで成田エキスプレスを選択する際には、窓口で領収証をもらうのは躊躇しないのだが、私鉄の安価な特急ラピートのチケットを買うときにはちょっと躊躇してしまうそんな雰囲気の違いがあった。何かいわれたらの説明に控えに切符を携帯のカメラで写しておいた。南海電鉄の駅には、関空建設工事当時の仕事でなんども通っていたことが重いだれるのだが、今ではすっかりリニューアルされて関西空港が本当の意味で機能した際には、発展するだろうという異彩を放っている。残念ながら、関西空港の稼働率の低さはラピートの乗車率でも明らかだった。車両の1/3にも満たない列しか埋まっていないし、無論席はそれ以上に空いている。各個人単位で列が確保されているという余裕が好きだという人には、良い選択枝といえるのだが・・・。ラピートの車体については、丸い窓と併せて鉄分の濃い人には好きな人も多いのかもしれない。

南海電鉄とJRの二系統が乗り入れるという図式は成田空港と同じなのだが、成田以上に関空誘致には地元の期待しているものがあったようだ。そんな風景が泉佐野から分岐していくりんくうタウンなどには見える、鳴り物で作られたらしい建物があまり清掃や整備もされずに稼動していないように見えるさまには敗戦国の風景のようにも見える。爆撃された被災地ではないのだが、雰囲気はそんな感じなのである。この国の政治家たちの考える将来像はバブルのいくすえなど微塵も考えずにいたのだろう。関西空港が期待値通りに働くには観光地としての魅力や日本の物価などいくつもの課題があり、国民総動員でボランティアまで募ったワールドカップが毎日のような状況で続かないと成しえないのだろう。そんな空港駅に到着すると空港ターミナルに向かうまでに私の目をくぎ付けにしたのは足元に広がる無数のヒビである。最初に気が付いたのはスムーズに進まないスーツケースの車輪の動きからだった。本来はスムーズに快適に進むというのが映画のシーンの筈なのだが・・・これはいったいなにを示しているのだろうか。沈下しつつある図式などの思いもあって一気に不安になった。足元など気にせず歩いている人がほとんどなのだが・・・。

ターミナルの国際線に向かうのだが、いまでは国内線のための空港なのではと思えるような印象だ。国際線のフロアにいく長いエスカレータを利用しているのが自分しかいないといった瞬間を感じると、時間の狭間に迷い込んだ印象がある。空港カウンターも利用者が少ないのか、表示があいまいでビジネスチェックインカウンターよりもエコノミーのカウンターが幅を利かせている感じである。関西空港を利用するという視点にたつと、国民は不況の煽りで、諸外国からは物価高を反映してといった図式で格安航空券で旅行するという今風の流れが中心なのだなと思い起こされる。出国管理に入るさいの荷物検査のゾーンにはいると、たった一つ開いている窓口にさらに人気がないので、どこにいってよいのか、戸惑ってしまった。出国管理も窓口はひとつだけで並んでいる人もいなかった。国際空港と冠するには不適切な印象である。この潜在余力を活用していくという戦略がいまの日本にはないようだ。

ミニシャトルにのり、登場ゲートに向かう途中にも未使用のゲートが沢山あるようだ。これを日本の余裕と見るのか、負債と見るのか。日の丸航空のビジネスラウンジにも人はまばらで、華やかさが感じられなかった。溌剌として活気あふれるといった雰囲気が、風景に欠如しているようなのだ。モデムを接続して指定された地区のアクセスポイントに切り替えつつ最後のメール確認や電話連絡を行う、お客様に教えてある会社の携帯電話番号は少なくとも営業時間中には応答しなければならないのだが、緊急要請の高い状況のなかでの電話の意味は、会社の改善指標として理解しているのである。ここで気が付いたのは、ACアダプターをスーツケースに入れてしまっていたことと、PCの電源余力が殆どなかったことである。最後のメールを出したところでPCは果ててしまった。あとは、携帯電話のSMSやEmailで連絡をつけることにした。姪っ子がちょうど自宅に新築表敬訪問してきた由のメールが届いたりしてきたので細君に電話をしたりして過ごしていた。

ゲートから機内への乗り込みには、日の丸航空のビジネスクラスで気になるのは、バーと勘違いしているような輩の中年諸氏なのであるが、幸いにして今回のフライトではそうした光景には出くわさなかった。ビジネスクラスの食事は、どの航空会社でも同等の内容だと私は思っている。とくにどの航空会社がひどいということはないのも、それだけ競争が激しいからなのだろう。日の丸航空の良い点としては、PC用のバッテリーを貸し出してくれることである。申し出ると機種名対応リストを広げて見せてくれて、該当機種にあうものを指定した。PCサイズの薄型外部バッテリーであり、これをDC入力としてPCに接続すると五時間あまりの運用に使うことができた。夜食配布を朝食と誤解したのかおにぎり二つをお願いしたので、実際の朝食のときには、食べる余地はなかった。興味ある夜食などが充実しているなと感じた今回の日の丸航空の食事であった。気になっていた冷やし中華を食べることは忘れていたが・・・。

ロサンゼルスに到着して入国検査のレーンに到着したのだが、列をガイドする明確な指示がなく最終の窓口の表示から外国人のラインを選択した。入国検査の遅さが厳しさの反映なのかどうかは判らないのだが、やたらと時間がかかる人や差し戻しで別の窓口を指示されたりする人もいる。生憎と選択したレーンは外国人対象の端であったので、確認もせずに並んだ輩が、米国籍窓口から隣にいけと飛ばされてくることなどからますます列が進まない状況となっていた。おなじロサンゼルス空港でもノースウェストが到着する側では、こんな経験はなかったのだが・・・。ようやっと到達した段階では、ビジネス三泊というスケジュールの説明のみで気の抜けるほどあっけなく通過することができた。蓄えた髭とパスポート写真の照合にも問題はなかったようだった。荷物を受け取りコネクション便の荷物窓口を探したのだが見当たらず隣接する国内便のところまで転がしていくことにした。真新しいスーツケースの車輪は軽く快調に進めることができた。

予定では、予約が取れているアメリカンイーグルの便には一時間以上あったのだが、長い長い長蛇の列が待ち受けていて、Eチケットでないことから到底乗れそうもない事態であった。結局カウンターに辿り付いたときにもらった便名は一時間あとのフライトだった。スーツケースを預けることが出来たので、手荷物検査での徒労を少しでも減らすことにはなった。中にとぐろを巻いている電線やらPC周辺機器のお店を手荷物検査コーナーで広げる気にはさらさらなれなかったのである。そうでなければ長蛇の列に並ばずに手荷物検査までスーツケースを持ち込むことも出来たのだが・・・。便名と席名とゲートを確認して手荷物検査のレーンにならぶ、レーン入り口で基準もあいまいにレーンの指示がある。指示されたレーンは全員靴を脱ぐコーナーであった。検査機で反応しなくても検査を続けるのだから検査機の意味がないような気もするのだがいかがなものか。アジア人はすべて信用されていないのではないかとさえ感じるのである。

シャトルバスに乗り込みアメリカンイーグル専用のゲートまで移動する。バスの中では日本人の学者らしい風貌の人から声を掛けられた、サンディエゴには学会参加ではじめて来たという。飛行機乗り換えでの不安がうかがえたので、ここからのブンブン飛行機での楽しみを話して気分を軽くしてあげた。フライト時間までは、さらに30分以上あり今回はリカチャン電話を持ち込んでいたので壁のコンセントを探して充電しつつ仲間たちに到着確認を入れた。学会の先生は、チケットに席の指示がないことから不安そうだった。自分のチケットを確認すると確かに席が記載されている。ゲート横のカウンターで確認をとると、席がないということだった。確約は出来ないが乗れそうなのかもといったところだろうか。搭乗時間となり、順次乗り込むことになったのだが、学者先生ともう一人が列から離されて待つことを言い渡されたようだった。安心してタラップを上がっていくと私の座席には誰かが座っている、28件かキャビンアテンダントに話してもらちがあかずいったん戻ってカウンターのレディに問い合わせると確かにあんたの席だといわれる。ほかの全員が乗り終えてから、われわれ三人の処遇が割り付けられて先頭列の席に座ることになった。発券のシステムがおかしいのか、あるいは前の便に乗り遅れた客がいたのかは不明だ。

問題が解決したかとおもうと、搭乗が終えたはずの機内に、今度は航空会社の女性が乗り込んできてひとつ後方の空いていた席に座り込んでしまった。キャビンアテンダントが制止するような雰囲気もあったのだが同じ航空会社の社員ではないのか。もう荷物を載せたんだから、私を下ろすなら荷物も降ろしなさいよといった口調でまくし立てている。キャビンアテンダントを煙に巻くように今度は隣席の客と話し出してしまった。カウンターに立っていた係員のレディもやってきたのだがどうにもこうにもらちがあない。こんなやりとりが始まって時間はずいぶんたっている。さらにもう一人乗り込んできた困惑した風情の航空会社の人はこの便で移動する要員パイロットらしかった。どうもこうした職員の席が空いていることを知っていて乗り込んでわがままをいっているのが後席にいるおばちゃんらしかった。結局、最後に乗り込んできたパイロットの方は操縦室に入り、補助席を中で広げて三人が操縦室に乗り込むことになって解決することになった。いいかげんなシステムで起こるこうした事態を予備の席で解決していこうというのが実情なのだろうか。かの日立のシステムである国鉄の発券システムでの新幹線ダブり発券にも遭遇したことはあったので、まあこんなものかもしれないなあと思いかえしていた。

サンディエゴ通信 VOL14 シンプルで危ないエレベータにニヤリ

発行2003/2/13

本社出張時の定宿は、Marriott LaJolla というホテルである。行き先のオフィスに至近なのが一番の理由なのだが、ここに宿泊している限りグループセクレタリのビックママからお小言をもらうことは無いというのも、大きな理由である。以前同系列の Residence inn というコンドミニアムタイプのホテルに泊まった時は、「小汚い」という意味のスラングを連発した上で、”I don’t like there!” とキッパリ言われた。ビッグママは困った時に大変頼りになるので、言うことを聞いておくに限る。

さて、Marriott には、4階建てのパーキングがあり、ロビー階に停められなかった場合には、別の階に停めてパーキングのエレベータでロビー階に向かうことになる。このエレベータの動作アルゴリズムが中々シンプルで良いのだ。2基並んでいるエレベータが全く独立して制御されている。制御アルゴリズムは「客が乗っていない際に、どこかの階でボタンが押されると、その階に向かう」というものである。例えば、三階でボタンを押すと、どこに居ようとも2基とも三階を目指すのだ。先に来た方のエレベータに乗りかかっているところで、「ピンポーン!」といって隣のエレベータが空いた音がする。両方とも三階に居た場合は秀逸である。2基のエレベータが「ピンポーン!」とユニゾンで音を奏で、ドアが同時に開くのである。人気の無いパーキングで思わず「ニヤリ」としてしまう瞬間である。日本のエレベータ会社ならば、さまざまな条件を考慮して、至近のエレベータのみを向かわせるという方式にし、大変なテストを行うところだろう。このような適当なアルゴリズムでも十分用事が足りるものである。

ホテル内には、さらに3基のエレベータがあり、こちらでもシンプル制御アルゴリズムを見て取れる。15階建てのホテルであり、さすがにパーキングのエレベータのような奔放な事は無く、ボタンを押すと一基だけが目的階に向かってくる(一番近いエレベータが向かってくる訳ではない所が謎である)。こちらのシンプルアルゴリズムは「どんな状況でも、ドアが開くときには、その階の案内をアナウンスする」というものである。例えば、既にロビー階で停まっているエレベータ(当然、客は乗っていない)がある状態でボタンを押すと、”Lobby floor. Registration and lounge. Going up.” とアナウンスが流れる。アナウンスの前半は、「これまで乗っていた客に到着した階を告知するものだから」という理由で、客が乗っているか居ないかを判定し、アナウンスするしないを決定するという制御をするのが、日本のメーカだろう。こちらも、細かいところにこだわらなければ、物作りも相当シンプルになるはずだと思わせる。

さて、このホテル内のエレベータには、危険が一箇所仕込まれている。写真を見ていただくと分かるのだが、「開」のボタンを上下からはさむように、呼び出しボタンと警報ボタンが配置されている。以前一度、ドアが閉まりかけてる状態で駆け込んで来た人を乗せてあげようと、「開」ボタンを押したつもりで、警報ボタンを押してしまったことがある。程なく「どうかしましたか?」とインターホンから声がし、動揺した状態で、英語で言い訳をした経験がある。よくよく聞くと、同様の失敗をしたのは、私1人ではない様で、やっぱり設計が悪いようだ。まあ、ここは細かいことに拘らないアメリカである、こちらが注意すれば良いだけのことだ。

Quad 社で仕事をしていると、「細か過ぎる事に拘らない」アメリカ人と、「さまざまな条件に細かく対応させたい」日本のお客様との狭間で、同様な物作りに対する意識の差で悩まされることが多い。お客様の言うことをアメリカ人の同僚に理解いただくというのが、日本オフィスのメンバーである私の役柄なのだが、お客様の言い分にも「それって変だよ」と思う事が無いことも無い。シンプルな設計思想に切り替えてもらえれば、私の仕事もどんなに楽になるのだろう。無頓着な気質になりつつある今の日本でも、シンプル思想で十分通用すると思いませんか?

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サンディエゴ通信 VOL23 「嵐を呼ぶ男?」

今は6月始め、早くも今年4回目のSD出張である(書き始めからまとめるまでに、3ヶ月以上かかり、結局は10月なのだが…)。日曜出発一週間の予定で、SDを訪問されるお客様へのアテンドだ。

火曜日の夜、お客様と一緒に、おなじみの居酒屋「さくら」で夕食を食べていると、日本から携帯に電話が入った。マルチメディア関連で、いつも二人三脚で仕事をしているシスターJからだ。「東医研さん、実はお客様が、来週どうしても Boulder に行きたいと言ってるんだけど…」と切り出してきた。「何を言おうとしてるかわかるわよね?」という問い掛けに対しては、「まあ一応!」と答えるしかなかった…。Boulderは、コロラド州の州都 Denver の北西に位置し、ロッキーマウンテン国立公園のお膝元の都市である。また、コロラド大学がキャンパスを構える学生の街という面も持つ。ここBoulder には、Quad社の小さな開発拠点があるのだ。水曜日にはBoulderオフィスからも、受け入れOKの返事があり、Boulder 行きが確定した。日本のセクレタリに連絡を入れ、移動のフライトと向こうでのホテルとレンタカーのアレンジをお願いした。月曜日の移動になるので、SD の週末滞在分も延長しなければならないが、こちらは自分でやる事になっている。

ホテルの延泊はフロントに電話をして、あっさり OK となった。次はレンタカーである。契約書の指示に従い、車を借りた Budget の SD 営業所に電話をかけた。自動応答のメッセージに従ってキーを押していくと、最終的に Voice Mail システムに繋がった。契約書番号や連絡先、最後に延長したい日数をメッセージで残せというのでその通りにした。あまりに簡単で「これで、終わり?」という感じだ。若干不安になったが、返却時には何も言われなかったので、多分大丈夫だったのだろう。

さて、このところ、一度に訪問されるお客様の人数が多く、ミニバンを借りる事が多い。最初は、大きな車を運転する事に対して、かなり不安を覚えたのだが、実際のところ車の大きさを意識するような事態は殆ど無い。こういうところは、やはり車社会のアメリカである。今回も、ミニバンとして予約したのだが、結局借りられたのは、大型 RV の Explorer だった。乗客が多いせいもあって、いつもよりも気を使う運転ではあったが、久しぶりに RV 独特の乗り味を楽しませてもらった(以前はRV乗りだった)。

ただ、閉口したのは、燃費が非常に悪かった点だ。いつもならば、一週間でタンク半分ちょっとしか使わないはずなのに、今回は金曜日の夜の時点で、燃料警告灯がつき始めた。翌日は、二班に分かれて帰られるお客様を空港まで送らなければならない。空港まで二往復は到底もちそうもないので、仕方無しに夜のうちに給油をしておく事にした。現在カリフォルニアはガソリンが急激に値上がり中で、年の初めは、ガロンあたり $1.79 位だったのが、今は、$2.25 と三割ほど値上がりしている。結局、満タンで$50 を越え、かなりびっくりした(原稿を仕上げている10月は、さらに値上がりし$2.50を越える状態だ)。一方で、次週の Boulder では、まだ $1.79 位であった。このような違いは、州税の差が原因との事だった。

お客様がお帰りになった後は、お楽しみの週末である(こちらの話しは、別編にしようと思う)。ただ、日曜の夕食は、小窓師匠が来週滞在の別のお客様を連れてSD に入るので、そのお客様と夕食をご一緒する話しになっていた。

月曜日になり Boulder へ移動である。普段使わない United Air での Denver に移動ということで、例のスペシャル・セキュリティ・チェック “SSSS” マーク入りの搭乗券だった(安全のためだから、しょうがない)。手荷物を検査機に通すと、担当者が「ケーブルがやたら入っている」とぶつぶつ言うのが聞こえてきた。東医研も小窓師匠同様に(さすがに、Ethernet HUB までは持ち合わせないが)何処でもオフィスを持って歩いているのだ。大量のケーブルに関しては、追求される事も無く、SSSS のお決まりの、金属センサーでのチェックと手荷物を開いての検査で済んだ。

Denver までは、陸地の上の飛行である。SD を出ると、直ぐに荒涼とした砂漠のような赤茶けた風景になり、それが延々続いた。残り30分(SD から Denver までは、2時間半のフライト)というあたりからはロッキー山脈の上になったが、雲が多くかなりゆれた。そして、まだ、山脈の上だというのにどんどん高度を下げていくので、ちょっとひやひやしたが、山脈が切れたと思った瞬間、前方にはDenver 空港が見えてきた

空港内のAVISのカウンターで手続きを済ませるとバスで広大な駐車場に連れて行かれ、自分の予約した車の前で降ろされた。空港からは、一時間ちょっとのドライブになる。空港を離れると、西にはロッキー山脈(山の上部は雲で隠れていたが)が見え、東は広大な本当に何も無い平原という風景である。車を進めるうちに、山にかかる雲の下で、稲妻が走り始めた。やばげな雰囲気である。Boulder のダウンタウンを通り過ぎ、すごい田舎道を走りつづけた後、Quad社の開発拠点のある小さな町についた。

Highwayという名の田舎道Quad社開発拠点

Quad 社の開発拠点の場所を確認した後、そこから車で3分ほどの宿泊先の宿にチェックインした。Quad 社の開発拠点のあるブロックは、ベンチャー系の企業の集合しているリサーチパークのようなところであり、隣は Ericsson、向かいは Kyocera という大手企業であったが、それ以外の二十以上の企業の名前には全く見覚えが無かった。以前、金沢の先端技術大学院大学の近くにある、ベンチャー企業にスペースを貸している建物に出張で行った事があったが、ここも、コロラド大の近所という事で、このような場所が設立されたのであろう。

宿泊先のホテルは、ニュアンスとしては民宿で、部屋数も少なく、住み込みの inn keeper がいるようなところである。そこで、応対に出たのは、腕にタトゥをいれたリーゼントのロッカー風兄ちゃんだった。親切に応対してくれたので良かったが、街中で出会ったらちょっと避けて通るかもしれない。金曜日の夜に会った際には、黒の皮ジャン・皮パンツという完全武装であり、やはりそっち系の人だったようだ。チェックイン後は、早速近所のモールのスーパーまで地図を買い込みに行った。ところが、ホテルに戻ると、急に頭が痛くなってきた。天気も、激しい雷雨になってきたので、「今日は夕食をご一緒できない」旨お客様に連絡を入れ、何もせずにさっさと寝てしまう事にした。

翌朝は、頭痛もおさまり食欲も出てきた。どうやら、1700mという標高に一時的に高山病状態になったようだ。TV のニュースによると、昨晩はDenver近郊で、Tornade が8個も発生したとのこと。結果的に昨晩の選択は間違っていなかったようだ。ある日の夕方にテレビを見ていると、急に「ピーガリガリ」というモデムのような音がし出した。放送事故か?と思うと、放送の音声が途切れ、画面の上部に 「Tornade Alart : ○○ county と×× county でトルネードが発生しています。この警報は8:45 まで有効です」というテロップが流れた。緊急災害放送である。そういえば、空港でも、トイレの入り口に Tornade Shelter の掲示が掛かっていたのを思い出した。一瞬、頭の中を映画 Twister の場面よろしく宿や自分の車が空に舞い上がる映像が頭をよぎった。発生地点の county は、Denverをはさんで Boulder の反対側ではあるが、その晩も食事に出るのをどうしようかとしばらく悩むこととなった。

結局滞在中の一週間は、ほとんど毎日雨で、夕方 Thunder Storm という天気が続き、最高気温が摂氏10度にいかないような気温だった。実は、このような天気は非常に珍しいらしく、年間300日以上が晴天で、夏は暑い日が続くというのだから、現地の人間は相当びっくりしていた。結局、東医研がDenverを離れた土曜日の午後ぐらいから、天気が良くなったという話しを後から聞いた。

初日に昼食を食べに行った近くの街並み後の日は雲が低く垂れ
込めてました
Denver airportの建て屋は
吹けば飛ぶよなテントでした

話しは変わるが、火曜日の夕食で入った、Sunflower というオーガニックレストランで、いきなりウエイトレスが日本語で「いらっしゃいませ」と切り出してきた。さすがに、流暢な日本語とい訳にはいかないが、「飲み物、どうする?」、「注文、決まった? もすこし待つ?」等、いろいろなバリエーションを繰り出してくるので、ちょっと驚いた。(「学校で習ってんのよ」という答えを期待して)「どこで、勉強したの?」と聞くと、「サイパン」という答え。どうやら、しばらくサイパンで過ごした事があるらしい。「あそこに来る人の90%は日本人なのよね」言っていたが、確かにその通りである。昨年の夏休みを過ごしたグアムも似たりよったりで、げっそりしたのを思い出した。初海外出張の時は、日本人が居るとホッとしたものだが、最近は日本人を見てもほっとするよりも、ちょっと避けたいなと思うようになってきた。ちょっとはグローバル化できたのかなぁと思うのだが、食事だけはどうしても日本食から離れられない。こちらは、グローバル化とは別次元で、単に歳をくってきたからなのだろう。

Boulder での食事は、内陸だし、(日本人が多いとは思われないので)日本食レストランも無いだろうと、全く期待していなかったのだが、Sunflower で食した、「期間限定のアラスカサーモンのグリル」は、絶品の「とろサーモン」だった。学生の街であり、リゾート至近の街でもある事から、食べ物に関しては、大雑把なカリフォルニアよりは洗練されているようだ。

さて、Boulder は、晴れていればかなり景色が良いところだそうなので、今回は非常に残念だった。スキー場も近くにあり、スキーシーズンに合わせて出張を組みたいと思う反面、やっぱり無理かなとも思う。それは、実のところ、お客様が来ると、開発が完全にストップするという理由で、Quad 社 Boulder のメンバーはあまり歓迎してくれていなかったように感じられたからだ(前職の会社で、当事者として悩んだ、開発とサポートの両立という課題が、Quad 社に移っても、付いて回っている)。恐らく Quad社 Boulder の面々には、いろいろな意味で、嵐を呼ぶ男として映った

サンディエゴ通信 VOL12 ラホーヤの空と風に一番近い場所

発行2002/10/13

前回にひき続き、東医研が担当させていただきます。

小窓氏の独り言にも紹介されいた、ラホーヤ岬の一番高い場所についてのお話です。休日に家に閉じこもっているのが性に合わない私は、Palomar Mountainに行った日の夜、翌日の日曜にも、どこかへ行こうと考え始めていた。小窓氏や Micky を二日続けて引きずりまわすのは申し訳ないので、一人で出かけることにし床についた。さすがに、前日の疲れが出たのか、目が覚めると10時になろうかという時間で、ホテルの朝食も終っていた。まあ、米国出張でおなじみの連日の飽食に疲れた胃を休めるにも丁度いいと思い、朝食抜きで出かけることにした。そういえば、「リゾート地」としてのラホーヤを楽しんだ経験が無いことに気づき、近場の海岸沿いをドライブと決めた。

海岸沿いまでの道は簡単で、造作なく着けたのだが、日曜日の10時過ぎという事もあり、車を止める場所を見つけることが出来なかった。路肩の駐車スペースはことごとく埋まっており、空いているところは “20min parking” だったり車椅子マークだったりする。そうこうして、うろうろしているうちに、ブティック等が建ち並ぶ中心街から離れてしまい、自分の居場所がわからなくなってしまった。もう、Uターンをしようにも、元に戻れる自信がない。こういう時は、高いところに限る。坂を登る方向に向かって、車を進めていった。だんだんと、登っていくうちに、道の両側が豪邸だらけになっていき、TV等で見る、ビバリーヒルズさながらの風景である。ただ、両側の豪邸のお陰で、自分の居場所を確認するという本来の目的が達成できない。もっと、上がっていくしかない。話は、ちょっとそれるのだが、東医研は前職の際、長距離通勤の暇をつぶす為に、SFをよく読んでいた(ハヤカワや、創元文庫はお友達だった)。その中でも、ラホーヤという地名が何度か出てくることがあり、必ず、成功した人や、リタイヤした人達が住む、風光明媚な場所で、カリフォルニアに住む人たちの憧れの地の一つとして紹介されていた。まさに、その通りの風景が、今走っている両側に展開されている。

さらに進むうち、林立する電波塔が前方に見え始め、頂上が近いことが分かってきた。「あそこへ行けば、周りが見渡せるに違いない」と進んで行ったのだが、電波塔の周りは金網が張り巡らされていて、軍の施設のようだ、突入するととんでもないことになりそうだ。電波塔のピークを過ぎると、もう一つのピークがちょっと先にあり、そこには大きな十字架が立っていた。周りには、観光客らしき人影が沢山見えたので、そこへ向かうことにした。十字架の周囲にも駐車場があったが、数も少ない上に、Handycaped 用のスペースの割合が多く、別の 200m 程離れた大きな駐車場に停めて、十字架のある場所を目指して上っていった。上るうち、だんだんと、すばらしい眺めが目の前に広がり始めた。最終的に十字架のあるピークを上り詰めると、周りを 360 度周囲が見渡せ、思わず息を呑んだ。自分や小窓氏の泊まっているホテルや、I5 を下りる際の目印にもなるモルモン教の巨大な白い教会も見えた。それどころか、反対側にはリゾートのミッションベイや、その向こうに広がる San Diego のダウンタウン。西には果てしなく拡がる太平洋。東は、Mira Mar 基地とその向こうに広がる山並みである。そして、見上げれば、文字通りの「カリフォルニアの青い空」、そして爽やかとしか表現しようのない風が吹き抜けていく。似たような風景は、数年前にハワイの、Diamond Head に上ったで経験したが、陸地方向の果てしなさは、ラホーヤの方が数段上である。

これだけの風景である。写真を撮らないわけには行かない。まずは、自分を入れてセルフタイマーで2枚ほど撮ったところで、デジカメの電池が切れてしまった。皆さんにもお見せしたいので、パノラマ写真を是非とも撮りたいと思い、街中に戻って電池を買って戻ってくることにした。ただ、文句無しで気持ち言い場所である、街中に戻る前に30分ほどボーっとさせてもらった。さて、私のデジカメは比較的古いタイプなので、単三4本で動く。何処でも買えるとは思うのだが、ちょっと遅めのブランチにしようと、小窓氏が宿泊しているホテル最寄のモールのフードコートに行き、そのついでにモール内にある Radioshack で電池を買うことにして、山を下りた。下りは別のルートを取ったところ、ホテルからは、簡単なルートで来られることが分かりほっとした。

UTC モールのフードコートでは、中華のファーストフードにし、注文を受け取って、空いている席を見つけて座り、食べ始めた。なんとはなく周囲を見回していると、遠くに見慣れた昆虫採集スタイルの小窓氏を発見した。席を移動し、ご一緒することにした。小窓氏は、既にブランチを済まされた様子で、おなじみのCasio FIVA を広げて、独り言の原稿を書いているところであった。聞くと、3時から、今日到着するケイ佐藤氏とホテルで打ち合わせをすることになっているという。時間はまだ、1時を過ぎたところであり、「絶景の場所が15分ぐらいでいけるところにある」という話をしたところ(話をしたというよりも、強くお勧めしたという方が良いかもしれない)、一緒に行ってくださるということになった。食事も終わって、ここのモールにある Radioshack に行くという話をすると、「つぶれたよ」の一言。さすが、半年に一回のペースでしか来ていない私とくらべ、使い切れないほどのマイレージの処理に困っているという小窓氏は最新の情報を良くご存知である。結局は、私の宿泊しているホテルの隣のモールにも Radioshack があり、そこで電池を購入することができて事なきを得た。

気を取り直して岬の頂上を目指して走り始めると、ケイ佐藤氏より小窓氏のグローバルパスポートに電話が入った。いま「ホテルにcheck in した」ところだそうだ。結局は、岬の頂上で、ケイ佐藤氏と合流するという話しになった。そして、先程確認したルートで、難なく現地に到着し、記念写真やパノラマ写真の撮影をすませた。そして、しばし、小窓氏と二人で、風景と風を楽しんだ。そこへまた、ケイ佐藤氏から電話があり、ルートをお教えして電話を切った。私としては、「大きな十字架」ということを、何度も強調したつもりなのだが、ケイ佐藤氏は「独り言Vol 185 」にもあるとおり、電波塔側へ行ってしまわれた。再度あった電話に、「そっちじゃなくって、十字架のある方です」と伝えて、やっと合流することが出来た。

「ここは、すばらしく気持ちがいいところだねぇ。何度も San Diego に来ているが、こんなところがあるとは知らなかったよ。」と感動された様子で、紹介した甲斐があったというものだ。ところが、ケイ佐藤氏は「さて、例の話だけど…」と、すぐさま仕事の話を始められた。前日の、Palomer Mountain よろしく、観光地で無粋な話が、再度繰り広げられた。その後は、独り言にあるとおり、海岸沿いのレストランで、お茶をしながら、話は続いた。車はどうしたかというと、ケイ佐藤氏の執拗な捜索により、つぶれたお店の従業員用の駐車場を発見し、そこに停めた。有料の駐車場は、6-7ドルが相場であり、日本の観光地と比較すれば、ずいぶん安いとは思うのだが、それさえも許容できないようで感服した。レストランで展開された(無粋な)話の内容は、独り言に譲る。

ラホーヤは、ビーチリゾートというよりは、断崖もあるようなリゾートであり、神奈川で言えば、江ノ島ビーチというよりも、逗子や葉山に近い感じである。ただし、正確に表現しようとすると、スケールを10倍ぐらいにしないといけないのと、洒落た店や高級ブランド店が多く、軽井沢のテイストを加える必要がある。後で、現地で購入した AAA (JAF のアメリカ版)編集のガイドブックによると、岬の頂上は、Solidad Mountain と言う場所で、サンディエゴ風光明媚ルートの一部であり、観光バスのルートになっていることが分かった。なお、小窓氏は単位系の変換を間違ったようで、正確な高さは 844 ft であり、メートル換算で、 300 m 程である(既に訂正されているようだが)。

とにかく、Solidad Mountain は、文句なしで気持ちの良い場所であり、本社出張時には、毎回行くことにしようと決めた。ところが、以前日本のオフィスマネージャで、今は San Diego に勤務しているミヨコさんの話によれば、もっと空に近い場所があるという。何度かサンディエゴ通信や独り言で出てくる、ラホーヤ北方のリゾート Del Mar では、Hot air baloon が体験できるという。うーん、体験しなきゃいけないことが、次から次へと出てくる、ここは楽しい場所である。

おっと、このような事ばかり書いていると、東医研は「出張じゃなくて、遊び目的で San Diego 行ってるのか?」と思われるのに違いない。だが、平日は20時ぐらいまでオフィスにおり、食事を済ませてホテルへ戻ってからも、朝を迎えた日本のお客様とやり取りするため、0時過ぎまで仕事をしていることを強調しておきたい。Solidad Mountain に行った日も、夕方5時からオフィスに行き、日本のお客様との連絡や中国との電話会議を行い、20時過ぎまで会社にいた。要は、メリハリが大切なのだと思う。小窓氏の言うところの “San Diego way!”である。

サンディエゴ通信 VOL10 滞在日数オーバー 

発行2002/7/18

台風が来ていた、余韻なのか強風が吹きつづけている。例によって急な出張となってしまった。お客様が米国で現物を交えて最終懸案事項の解決を図りたいというのだった。木曜に言われたのだが、仲間と連絡をとり向こうでの受け入れやらホテルや飛行機の手配などを直ぐにお願いしていた。まあ、こんなことは日常なので、最近はスーツケースは出しっぱなしで国内での出張も三泊以上続くことも続いたりしていたので実際問題自宅で寝ることのほうが少なくなっていたようだ。出張清算報告もしないと百万円近いオーダーで会社費用を立て替えていることになる。先日溜まっていた国内出張の最新分のみを消化したのだが、米国二回と国内が四回分残っている。最近、土地を購入したりするので出費も続いていて家計状況としての銀行残高にも気を回す必要が生じてきていた。

二人だけの気ままな暮らしであり、銀行残高などには最近気に掛けていなかった。といっても細かい出費は続いてはいた。この三年間の軽微な工事などを合わせると結構な金額になっていたはずだった。少し残りが貯まると繰上げ返済などに充てているのが実情であまり計画的だったとはいい難いものだった。都内での仕事が続いていくことが今後もそうであれば都内への移転を考えたりもしていて、都内通勤圏でのもう少し近接区域での不動産物件を今年の初めには探していたりした。おかず横丁などの下町生活に憧れたりして出かけてみたりはしたもののやはり庭弄りがしたいという細君の希望は難しい。

例によってWebで検索したりしていくつかのメーリングリストのような案内が届いていたりしたのも沙汰やんでいた。六月から七月に掛けての国内宿泊出張ばかりが続いていたさなかにある不動産屋が過去のメールリストなどから出来た台帳に基づいて電話攻撃をしかけてきたのだが、迎撃に出た細君と電話の主の彼女との波長があったのか迎撃に失敗して迎合してしまったらしい。普段なら数秒で打ち落とす電話を長々と話しているさまは友人が増えてしまったような印象だった。こちらの要望を話して物件調査依頼のリストに入れてもらうことになっていたようだった。

電話を掛けてからほどない土曜日に、不動産屋の彼女から電話があり「出物の物件があります、土地もちょっとはあるお近くのものなんですがいかがですか」というくだりになり、のこのこと現場に出向いていってしまった。実はこの夫婦は、いつもなにかこうしたパターンで出向いていってしまった件で断ることになったことはないという繰り返しの歴史があり車を購入したり、家を買ってしまったりマンションを買ってしまったりしてきたのだった。今回も・・・その轍を踏んでしまうことになった。この不動産屋の彼女という細君の友人が増えて土地購入の契約を済ませて今は建設工事の検討をしているのだった。

やはり今様の不動産屋との暮らし方なのかどうかはわからないが希望の間取りなどのアウトラインをメールで話したり、急遽買った3Dの間取り実体化ソフトのデータを送ったりして遊んでいるのだ。不動産屋でもこうした形が流行っているようだ。横浜なりの坂の風景にある土地は戦後に建った木造平屋の古家が残っていて今は空家になっていた。細君のすきそうな庭弄りも出来そうな広さであり接道までのスペースなどは恐らく自慢の花木が並ぶことになるだろう。そんなやり取りとはいえ、メールで済まないのは最初の挨拶などであり建築担当の方などとの挨拶や打ち合わせも出来る限り前だしして進めようとして出張前日の土曜日に設定した。

ちょうど台風が一本やり過したあとで、米国から姉が父母の様子を見に日本に来ていたこともあり挨拶訪問と打ち合わせを一日で済まそうと画策していた。結局父母を訪ねてから不動産屋で細君と会うことになっていた。タイ航空で来たという姉は荷物が届かずタイまでいってしまったようで、ようやく土曜日の朝に届いたらしかった。互いに入れ替わりで米国と日本を行き来することになるのも珍しいことだったが久しぶりに姉弟が父母と話をするというのも楽しい時間だった。普段面倒を見てくれている介護ビジネスの妹も逞しいとはいえ姉兄が対応してくれる数時間は気が休まったことかも知れない。

不動産屋との打ち合わせ時間が近づくと携帯の着メロが鳴り、不動産屋の彼女からお迎え電話だった。内容をすぐさま細君に転送して私は直接不動産屋に向かった。土地の制限などから来る工法上の考えなどのベースを建築担当の方から聞き、こちらからの希望となる間取りについて3Dデザイナーのデータを見せて説明した。あいにくと印刷が出来なかったのでPDFに打ち出して早速PHSモデムでメールとして添付し不動産屋の彼女の同僚に送信した。間取り図が紙で手元にあると書き込みを行い打ち合わせは短時間で済んだ。いくつかの宿題検討をお願いしてベースプランの作成までをお願いした。この先は設計屋を巻き込んでの手順になるのでステップを踏んでいくことになる。

そんな土曜日を過ごしていたら夜中に、お客様から電話が私の携帯に入り、「大きな問題は解決できたようなので渡航人数を減らしたいのでお願いします」というまた、一方的な電話であった。まずはホテルの予約のキャンセルであったのだが実は金曜に一人追加したばかりで三人のお客様予約を入れていた。無線担当の方たち二人が来なくなりソフト周りの親方のみが来ることになったようだ。もう米国も土曜に入ってしまうのでこちらで起こっていることをメールで伝えて残りは月曜日に現地で説明するしかなかった。目まぐるしく変わるもののじっくりと対応する以外に方法はなかった。月曜から水曜の三日間を対応に予定していたものの、一日は短くなるかしらというのが取りあえずの印象だった。

荷物は機材などは会社に置いてあるので日曜の朝会社に入り、荷造りしてそのままいく事にした。日曜出発は代休をとっても良いのだがなかなか取れないのは自分の都合が押してしまうからだった。お客様から預かった電話機とソフト一式のCDなどを詰めCD-RやUSBハブなどのお道具一式を詰めるといつもの出張道具が出来上がった。夏なので日よけもかねて最近は帽子を被っているのだが、周囲の評価は虫取りにきた伯父さんという雰囲気らしい。確かにバグ取りに出かけている伯父さんなのである。半蔵門線で水天宮に向かいリムジンで成田へ進む。一眠りすればもう成田である。成田エキスプレスよりも便利なのはそのままチェックインカウンターに入れるからである。出発ロビーに横付けなのである。成田の周辺は天候は良いもののやたらと強風が吹き付けていた。

ビジネスクラスのカウンターでスーツケースを預けて、まともな昼食を済ましてから銀行で両替をして、ラウンジへ向かう。日本の検査ではバックルは鳴らないので外さなくともよいのだが米国ではバックルが鳴ることが多い。ベルトをいちいち外すのもメンドクサイのだがホールドアップやタッチ攻撃は苦手なので回避できる手立ては出来る限り講じるのである。チタンのメガネは決して鳴らない。指輪もオーケーである。国内では靴まで脱がされることはない。搭乗カードにはバスゲートが指示されていたので近くのラウンジが示されていた。ラウンジ内で最後のメール確認などをPHSで行い連絡を済ませていた。搭乗案内からのアナウンスでは急遽バスゲートから一般のゲートに切り替えになったという。確認してからゲートに向かう。少し出発に手間取っている様子だった。

ビジネスクラスの最後尾の席が今回の座席だった。少し後方にはカーテンがありそこから後ろはエコノミークラスだった。機内アナウンスによれば、強風で成田に着けなかった機体があり、代替の機種を手当てしたので時間がかかったという説明だった。案の定機体整備の状況が思わしくないところがありオーディオサービスでトラブルが起きていた様子だった。最近はビデオを見たりしないのであまり関係がないのだがお客様からはブーイングだったようすだ。食事のオーダーは変則的な順番で取りに来ていて何故か私のあたりでは私が最初で前にいったり後ろにきたりという形でとっていた。お陰で和食をゲットすることが出来た。席を予約するときに頼むのを忘れていたのだがマイレッジが貯まっていて優先されたのだろうか。

朝起きると、めがねがないのだ。寝る前に外さなかったので下に落ちていると思ったのだが、見当たらない座席の周りを一通り見たのだが何処にもない。フライトアテンダントにお願いして探してもらったがやはり見つからず予備のメガネをスーツケースに入れていたことを思い出し一応安心はしていた。機内放送の効果もなく機体は米国上空に到達して着陸準備に入っていった。エコノミーとビジネスクラスとの間の仕切りであるカーテンが開くと後方座席の足元に金属光がちらっと見えた。落ちた眼鏡を気づかずに蹴って転がったらしい。ラッキーである。とくにレンズも無事である。探してくれたフライトアテンダントのお嬢さんは着陸応対のポジションに移っていて見当たらなかったので別の方に見つかったことを伝えておいた。

入国審査に並ぶといつもとは並べ方がことなり海外からの処理が右側になっていた。何時もは左なのだが。何事もなく済むはずの入国審査だったが、なんだか審査官がクレームを云っているのだ。どうも90日を越えるステイをしているので駄目だといっているのだが、今年は回数が多いとはい滞在日数は超えているとは思えなかった。第二審査で話をするようにと聞こえたので分からぬままに、その窓口に向かった。聞けば、米国の入国記録データベース上では、96年に7月に入国して10月に帰国したとなっているらしかった。そんな以前のことを急に言われても「そのパスポートは自宅にあるのか」といわれても「あるかどうか分からない」としか答えられないし、思い出して個人旅行で7月にきて、10月にも見学旅行で来たという説明をした。合わせて、このパスポートに記載されているほど(11回も)来ているのに初めてそんなことを言われたと反論すると向こうも納得したようだった。米国のテロ対応のせいか古いデータも含めて検査しているようで、そうしたデータが結構いいかげんだということも分かった次第である。

ロスの空港乗り換えも荷物のハンドオーバーも慣れたので気楽なものとなった。また、周りで声を掛けられるフレーズが聞き取れるようになってきた気がする。とはいえあまり他の空港にいく用事はあまりないのだが。二時間ほどあった筈の乗り換え時間も90日滞在オーバーの判定不服申し立てに時間を取られてあまり時間もなかった。バスで向かったリモートターミナルからほどなくブンブン飛行機に乗り継ぎ間際の靴脱ぎ検査も免れてトラぶったわりにはスムーズに済んだ。ロスからサンディエゴまでのブンブン飛行機からの視界は相変わらずの空と海でまた来たなと思わせるものである。私はこの光景が気に入っている。最後、サンディエゴ上空で旋回しつつ降下していくさまには最近では楽しみになってしまった。昔はこのシーンが一番いやだったのだが。落ちていくという感じから舞い降りていくという感じに感覚が変わり、宮崎アニメの一シーンのようにさえ感じるのだった。

降り立ったサンディエゴのコミューターターミナルは工事中で舗装工事のために実際のターミナルまで100メートルほど歩いていかなくてはならなかった。強い日差しが虫取り帽越しあるものの乾いた風涼しく相変わらず快適な気候に変わりはなかった。荷物を受け取りタクシーでホテルに向かったのだが途中で気が変わり、今回の旅行で出来そうもない買い物の時間を今日初日にとる事にして途中でスーパーに立ち寄ることにして運転手にお願いをした。「おれは、そのスーパーは知らないから道案内してくれればどこでもいくさ」という返事だった。五号線を北上していきいつもの降り口の一つ手前でおりて左に折れると丁度目的のWhole Foods Marketであった。10分ほどで済むから待っていてねとお願いして買い物に入った。

このマーケットは食材に関しては一番種類があるのではないかと思っているところの一つである。実際にはもっと大きなスーパーは沢山あるのだが。私がほしいのはドライトマトであり、あとはバージンオリーブオイルであった。細君からの依頼は以上だった。初日のお土産を買うのはどうしたものかというもののタクシー代に差はないので願ったり叶ったりであった。お客様とのサポートをしていく上で自分の時間の余裕は最後の帰国日以外はないからだ。まあ予定をもともと長くとっていれば良かったのだが、お客様に合わせておきあるいは短くなれば日本での展示会説明員として早めて戻ろうかと考えていたからでもある。

たった一人のお客様も無事既にホテルに到着していたようで、夕刻の食事の手当てをこちらで研修途中の上司に依頼しておいた。サンディエゴは二度目というお客様だったが今回のホテルは作業場所に近いホテルで歩いていける場所を選んだ。私が運転できないこともありお客様自身があまり煩く言わないタイプの方であることも読んでいたので二人で毎日歩いていくことにしていた。15分ほどの道のりである。多数のお客様がいる場合には毎日タクシーを呼ぶ必要もあっただろう。日曜の夕食はおなじホテルに宿泊していた上司にお願いしてコンボイにある韓国料理の店で豆腐料理に舌鼓を打っていた。ホテルの近くにはちよっとまともな日本料理の店は見つけていなかったのである。

よく初日は、明るい涼しい中を歩いて向かい気持ちのよい仕事始めとなった。サンディエゴのメンバーたちは三人到着して物々しく進める予定にしていたので若干拍子抜けしたようであった。交互に専門の担当技術者の都合をつけて呼び出しをして案件を処理していくのだが、お客様との端末とQuad社の端末とでの動作の差異がありソフトウェアの差分を検証したりしつつの作業は予想外にかかりやはり予定通り三日かかりそうな様子だった。夕食には現地の日本向け営業担当の日本人に連絡しておいたので会食する予定だったが、メールを読んでいると上司が変わってケアしてくれることになっていた。夕刻の七時過ぎに作業しているビルまで来てもらったがまだ終了の目処がつかないので一旦ホテルに戻ってもらった。当然多くの米国人は七時を過ぎれば帰ってしまうのが普通なのだが、日本人のお客様の場合には本国に電話をしてもうすこしこんな作業をしてもらえといった注文がつくのでお尻が見えないのである。

たまたま、最近ジョインしたインド人のメンバーが前職で韓国メーカーでWCDMAの開発に従事していた経歴があり彼は時間が遅いのは厭わないタイプであり問題をもう少し追いかけたいというスタンスがありラッキーだった。遅くまで詰めていると、上司がお腹が空いたらしく電話を掛けてきたのでそろそろ食べられなくなりそうな時間だったのでようやく初日を終えた。上司の車が到着するとそのままホテルの近くで見つけたという日本料理の店江戸寿司に向かった。一度いったことのあるモールだったがこのすし屋は最近出来たらしかった。入り口にはCLOSEと掛かっていたものの中にはお客様がいて、なかの板前さんが引き入れてくれた。早い注文で握りを一式頼んで食事にありつけた。なかなか新鮮な寿司は高かったものの、満足できたようだった。お客様を交えての出張は、ケアも大変である。

つづくかな

サンディエゴ通信 VOL9 カラスの居ない国で

発行2002/4/14

気がつけば、転職顛末から数えて10回目のサンディエゴ行きとなった。現在のパスポートは、転職の面接からの使用なので転職前の会社での公務としてのサンディエゴもいれれば11度目ということになる。まさか、こんな生活になるなんて考えてもいなかったのだが・・・。日本の陽気とは異なってサンディエゴは昼間の日差しは強く、夜は涼しいか寒くなるという気候なのである。もう桜も散ってしまった日本とは大分異なる気温である。

土日を挟む出張となったのだが、幸い日曜に帰国する仲間達と昨日の土曜にメキシコまで行くことになった。こちらの在住の長い女性の先輩の方がガイドをしてくださるという心強い環境で隣接のホテルに集合になった。相変わらず自転車生活をしているので(無免許生活ともいう)、遠出にはバスか知人の車に便乗ということになる。最近は、朝食付きのホテルを利用しているのだが、今回の仲間は従来のホテル(隣接)に宿泊していた。

朝の十時の集合だったのでこちらのホテルで朝食をとり、暇つぶしの原稿書きPCを抱えて隣のホテルまで歩いていく。車で必要と思われたミネラルウォーターと菓子をも入れて、当然必要となるはずのパスポートを携帯しての行動となる。隣接といっても見えているという程度の距離であり、間にはワンブロック挟まっている。歩道をずっと歩いていくと交差点では渡れない場所もあり中の公園を抜けたアプローチが必要となる。この辺りは足掛け四年の生活で勝手しったる状況だ。慣れ親しんだホテルに到着すると見慣れたおばちゃんが珈琲キヨスクを開けているのでコナ珈琲を買ってロビーでタイピングして仲間を待った。

こちらのホテルは少し古いのだが、長く逗留したことから愛着があり、座っていて落ち着く私の空間となっている。朝食は近くのベーグル屋で毎日スパニッシュオムレツを挟んだベーグルとバナナとオレンジジュースというのが日常の私の朝食パターンであった。今回は、昨日一度だけ朝飯ミーティングをベーグル仲間でやることになったのでホテルの朝食をパスして食べていた。相変わらず、そこのアインシュタインベーグルは美味しいと感じる。大門のB&Bのベーグルも中々なのだが、やはり美味しさと歯ごたえの双方からこちらに軍配が上がるのは致し方ない。

使い込んできたカシオのFIVAノートも打ち込みには超漢字というOSを使って利用している。会社の仲間に見せるとXwindowみたいだなという感想が返って来る。まっていると今日の招待ホストの女性が現れた。彼女は、今回が始めてのサンディエゴ出張だった。まだ半年たったばかりという彼女だが、どうして最近の仕事ぶりはバリバリとやってみせてくれている。彼女の上司も今日招待してくれたホストであり、彼は二年余りの仕事になっている。そうじてまだまだ日本オフィスは若い会社である。

きょう案内してくれる女性というのは彼らのサンディエゴでのカウンターパートナーである日本人女性で、急遽予定が入ったので昼にオールドタウンで待ち合わせることになった。オールドタウンは空港のそばにありカリフォルニア最初の地という歴史の場所でもあり古い家屋などが保存されている町並みとなっている観光地だ。メキシコ系の方が多いサンディエゴでもそうした色彩がより濃い地区となっている。土産物屋なども軒を連ねている。ハイウェイの五号線を使って南下していくと右手にミッションベイが見えてきてほどなく空港が見えてからオールドタウンとなる。

オールドタウンでの土産物や美術品のカラフルな色彩は、日差しの強い風土に影響されてのものだと感じた。土産物を見歩き、馬車の歴史を学んだりしつつ民族音楽の打楽器を楽しんだりしていた。ハラペーニョも沢山入っていると思しき「食べたら最後北極までいくしかない」とか「地獄がまっているぜ」と書かれた変なホットソースなどもあった。香辛料となりそうなものとあわせて買い求めた。やしの木と柳の木が並んでいるのも妙な風景かもしれない。時折アムトラックの汽笛が聞こえて走り抜けていった。二階建てのこのあたりの列車にも機会があれば乗り込もうと思う。

教会のまえのカフェで水分を補給しつつまっていると、ゲストの彼女からの電話連絡が入りオールドタウンの駅で待つことにした。オールドタウンにはトロリーと呼ばれる鉄道へのバス路線との接続駅になっている。一つの路線は、クアルコムスタジアムの方とメキシコ国境のティファナの手前を結んでいる。ダウンタウンのあたりでもう一つの路線が交錯してもっと内陸の方と繋がってくるのである。前回バスできた折には、ここでトロリーに乗り換えてダウンタウンまで向かったのだった。日差しが強いのでダウンタウンの散歩には閉口したように覚えている。まっかなトロリーが入ってくると運転士の人が女性だったりするのが判ったりする。トロリーの乗降口が開いて自転車毎降りてくる客もいる。「トロリーに乗り込んでの旅行も楽しそうだね。」という意見も出ていた。ゲストでありガイドをしてくりる婦人が着てから方針を決めることにした。

婦人が到着し、挨拶を交わすと彼女は早速各自にミネラルウォータを一つずつ持たせてくれた。さすがの手際である。水は充てにならないからである。1台の車だけでティファナに向かう。五号線を更に南下していくのである。軍港であるサンディエゴ港が良く見えて幾つもの戦艦や空母などが停泊しているのが見える。パロマー山への道などが交差していた。最後は、五号線自体はメキシコに入ってしまうので皆、「最後のUS出口」などと書かれた個所で降りて駐車場に入れる。駐車場は厳重な国境の横に広がっている。沢山の車が止まっていてメキシコへの買い物客の多さを物語っている。メキシコは薬が安いらしく、米国の老人達は米国での処方箋をもってティファナに渡り一ヶ月分以上の薬を買い込んでくるらしい。また、歯科医も安いと聞いていた。

車を降りて、国境を越えていくのだが途中に検問もなく、ただ国境の両側に一方通行の回転ドアが遊園地のようについているだけだった。国境の間の所でティファナの観光案内の地図を貰った。最後の回転ドアからでるとそこは急に気温が高くなったような感覚におそわれる風景となった。屋台のようなレストランが軒をならべて土産物の露天商や、物売りの子ども達あるいは、地面に座り込む物乞いの人や子どもなどで溢れているのだった。正確には、ティファナの街中までに川があり、この橋を越えると本当のティファナに繋がっている。

橋を渡りながら双方の丘を見比べると、メキシコ側には小さな家がびっしりと雑然と立ち並び、米国側にはひと気の無いハダカ山状態となっている。ティファナの中心部に向けて歩いてゆくと物売りが次々と声を掛けていく。連れ合いの風体から日本語で声を掛けてきたりするようだ。「はいナカムラさん、スズキさん。やすいよぉ99%割り引くから」「よお社長、部長、課長、係長」と声を掛けてくるのは順序が違いはしないかと可笑しいのだが・・・。ポンチョが気になるらしい同僚は会社で冷房が効きすぎるので買いたいのだがと悩んでいる。

町並みにはロバと写真をとりましょうというメキシコ風の観光写真家が何台も馬車を止めている。また、ファーマシーや歯医者の看板も多いようだ。噂にたがわない様子である。怪しげなクラブの前では、客引きが声を掛けてくるが、「女性連れに声を掛けるんじゃねぇ」と言ってたしなめていたりする様だった。きっとそういう店なのだろう。暫く行ったところで昼食にした。タコスやシシカバブの出てくるようなレストランである。所謂ティファナの中心街になったために価格は却って高くなったようだ。タコス三つで一ドルという店もあったのだが、ここは一つで一ドルだった。ジュースやコロナビールで乾杯してそれぞれタコスをつまんだ。テーブルに置いてあった付け合せのニンジンはとっても辛くてハラペーニョに漬け込んであるということだった。

置物やら瀬戸物、人形、ガラス工芸品、オパールなどの宝石など色々である。革製品は安いようでベルトは一ドルで売っていた。NIKEのロゴの入った皮製のリュックサックは日本には到底持ち込めそうも無いものだった。幾つか見歩く中で高地の民族が思い浮かぶ子どもの衣装があったので小さな姪っ子に買うことにした。多分サイズは賄えると思うのだが・・・。皆は値切っているようだったが・・・結果は!?。ティファナで注意すべきは公衆トイレだと思われる。数が極めて少ないのだ。レストランや土産物屋で見つかれば必ず使うように心がけないといけない。捜そうと思ったときには無いものだ。

散策見物を終えて川を渡って戻ってこようとすると物売りの老婆や子ども達が小さな菓子やパンを見せてくる。路上で楽器を弾いている女の子や、二人で歌っている姉妹などさまざまである。ガイドをしてくれた婦人がパンを買おうとするとパン売りたちの少年達が客の争奪戦となってしまったらしい。メキシコのジャムパンを一つ食べたのだが美味しかった。時間がたつとぱさぱさになってしまいそうではあったが・・・。お米粒に名前を書いて樹脂のペンダントに封入するという露天もいた。

広場では民族舞踏を踊っている家族がいて、周囲にはそれを皆が見ている。時折団員の長女がふくろを持って回りチップを要求する。熱演しているお父さんと末娘、うしろで太鼓を叩いている長男などは集まった人数と長女の徴収具合を確認しつつ演目を続けているようだった。私には観光客でないと見たらしく、近寄ろうとしなかったのだが、チップを払おうとするとふくろを向けてくれた。

で帰りの出国の列を見ると気が遠くなりそうな列となっていた。人の列が数百メートル以上続いていて動いていないのである。グランドゼロ以降ということもあるのだろうが、このままでは数時間は出国の列に並ぶことになりそうだった。車も大渋滞である。しかし人々は不平をいうでもなくいつもの事だからという感覚で静かに立ち並んでいる。日本人のツアーガイドだったら、大変なことになるだろう。しかし機敏な行動でガイドをしてくれた婦人が提案してタクシーを呼び止めて内陸にあるOtayという出国検査所まで行くことにした。

停まってくれたタクシーも親切そうなおじさんでメキシコの町並みを車窓から楽しむことができた。Otayには国際空港があるようで、この出入国検査はビジネス貨物などが主なターゲットらしかった。見えてきた国際空港には心もとない747だったと思しき機体が止めてあったりしたのだが飛びそうな気がしない雰囲気だった。やがて国境検問が見えてきてタクシーを降り立った。着いた検問は立派な建物で行列もなくスムーズに通ることができた。買い込んだお土産やカメラなどをX線に掛けるのだが、おみやげの服が出てこないのである。荷物が軽すぎて、検査装置のゴムすだれに掛かって中に入っていかなかったようだった。後ろから婦人が彼女の荷物で支えてくれたので通すことができた。

パスポートを見せて入国して出てきたところは米国である。こちらには当然トイレがあるので皆で急行した。出てくると同時にバスが入ってくるのが見えた。見るとティファナ行きのバスである。なんと強運なのであろうか。一応タクシーも沢山まっていたのでそうした観光客も多いらしい。日本人なら必ず選んだほうが良いルートかも知れない。バスで20分以上走ってティファナに到着するとトロリーの駅と駐車場の二つに停車するようだったが最後の駐車場まで乗ってきた。ようやく辿り着いた駐車場へ降りてゆく道から、国境の向こうに広がるティファナの町が見えた。まだまだ駐車場には車が沢山停車していて先ほどの長い長い行列が進んでいない様を思い知らされた。

車で五号線を北上して進み、サンディエゴ湾を構成している人工半島のコロナド地区に向かった。サンディエゴ湾に突き出たコロナド地区とは埋め立てで作った南からの道路と、サンディエゴ湾を横断する橋と、観光フェリーという三つのアクセス方法があるようだった。地区の大半は軍用施設らしいのだが開発されてきたルートは観光用や住居などが出来ていて高級な住宅地区になっている。サンディエゴ湾をあるいみで半島にして便利にする反面ふさいで狭くしてしまっていることから、有事でサンディエゴ湾の入り口がつかえなくなった場合には結んでいる人口半島の部分に埋められた爆弾を使ってリモートでサンディエゴ湾の昔のルートが使えるようになっているそうだ。

コロナド地区からの夕景色は素晴らしい風景で、この四年余りの生活ではまり込んでしまった自分の暮らしを再確認するような複雑な気持ちになっていた。港の見えるイタリアンレストランのデッキで頭の上にある逆向きのストーブフードで暖をとりつつ一杯だけの久々のワインを楽しみパスタの夕食を皆で囲んだのである。レストランの屋根には鴫が飛んできて止まっていた。もう宵闇で飛べないのかもしれない。婦人にサンディエゴでカラスを見かけないのですがと聞くと、いないことは無いんですが・・・という返事だった。天敵である蛇がいるからだろう。確かにまだ自然が残っていて蛇が住んでいるサンディエゴで自然のバランスが崩れていないのかもしれない。都内で蛇を飼うわけにはいかないだろうし、新しいバランスとして受け入れるしかないのだろうか。そうした受容力というものはどうも日本人には欠けているような気がしてならないのだが。

夜景の広がる橋を渡って五号線に入り、婦人とはオールドタウンでわかれた。来週時間をとって彼女のWindows2000の日本語化の対応をしてあげることにした。五号線を北上していく慣れ親しんだラホーヤビレッジが近づいてくるのは、夜には一段と美しくライトアップされるモルモン教会が見えてくることだった。ホテルまで送ってもらい明日の帰国の無事を祈って分かれた。

翌日の日曜に近くのUTCのモールで朝の珈琲を飲んでいると、すずめが子ども達の投げるマフィンの粉を拾って食べている。こんな風景は子どもの頃には良く見かけた気がするのだ。また、ガチョウたちが飛んできて仲間を追いまわして遊んだりしている。アメリカ人の食べ散らかしぶりと日本の都内のカラスとのコンビネーションというのはここでは遭遇しないようだ。カラスの羽が黒いので暑いところには住めないのだとという説の信憑性は蛇による生存バランス説で最近は負けているようだった。さてさて・・・。

サンディエゴ通信 VOL8 テロからオリンピックへ 

発行2002/2/15

前回書いたのが八月だから半年前のことである。もともとは、あの日の翌日9/11に出張予定が入っていたのだが当然のことながら流れていたし、当日に出張した仲間や、出張していた仲間達は、それぞれカナダに入国して郊外の観光地に嬉しい足止めになったり、米国から帰れなかったりしていた。米国の人たちの国の威信を傷つけられたテロとの戦争により、愛国心の下に挙国一致する心意気は日本には見られないものだった。会社としても哀悼の意味のリボンをつけての生活が始まっていた。世紀を越えた積もりでいた実は世紀末だったのかも知れないこうした事件の中で、この会社としてあるいは世界がどうなっていってしまうのかというのが気がかりな日々の始まりでもあった。

もともと、翌月には年度末の会社イベントもあり、すこし長い出張を予定していたのである。戒厳令というものに近い異常な状況の中で日本のメーカーの皆様の危機管理もとまどいながらも離陸して米国あるいは海外への出張そのものが凍結されたのはご存知の通りである。11月始めに延期された華やかな期末イベントも結局中止になってしまった。少し浮かれていた20世紀からの流れがリセットするというのは、会社にとってもよい刺激であったのかもしれない。文化と信仰のぶつかり合いの中で現在の社会として動いているという認識がどれほどの世界人口からみた時のバランスでみると100人の村ではないが一部の人間がエデンの園を貪っているのかも知れない。

三連休の中日に出張となったのでどこかで代休をとらなければと思いつつ、テロ事件以降に強化された手荷物検査などの時間で凄く時間がかかると聞かされていたので早めに家を出ていた。荷物を整理している段階で、ラップトップの電源を会社に置き忘れたことに気がついた。急遽タクシーで桜木町まで向かう、「お客さんどこいくの」と気さくに聞いてくる運転手の車には見慣れた松下のAVM対応のタクシー無線機がついていた。「これから出張でさ、アメリカだよ」と返すと「いいねぇ、おれっちまだ飛行機に乗ったこともないしパツキンのお姉ちゃんにもあってみたいなぁ」と呑気な会話が続いた。外を見上げるとランドマークに見下ろされる感じの風景は、いやな感覚を思い起こさせた。

東横線で青山に向かい、休日のオフィスに入る。誰かがミーティングで会議室を使っている様子だったが各自のブースには誰もいなかった。相変わらず散らかっている机の上に取り残されたさびしい格好の電源アダプターを収容した。最後にまとめてメールを高速にダウンロードしようと会社のlanに接続したのが少し命取りになった。メールを落とすのにすこし余計な時間を費やしてしまい予定の成田エキスプレスにはのれそうもない。赤坂見附の駅で丸の内線との連絡はぎりぎりアウトとなった。はて次の案はと携帯で検索すると乗ってきた銀座線で上野へ行けとでる。どちらも万事窮すとなり、とぼとぼと半蔵門線に歩く。これなら最初から半蔵門線で水天宮に向かえばよかった。

水天宮駅にも久しぶりであったが、テロ以前から利用客が寂れてきてチェックインできる会社は今ではJALしかなくなっていた。テロによりこれも無くなるといわれていたのだが実際はまだオペレーションしていた。二階にあがりチケットを求めると直ちに出るバスがあるというのでそれを選んだ。三階のターミナルからお茶だけをかいこんで乗り込む。利用客は少ないもののリムジンバスの時間は成田エキスプレスよりも速い。時間帯や天候によってもまちまちという癖はあるものの今日はなんとかなりそうだった。やがて成田エキスプレスの線路をまたぎリムジンバスも空港出口へ折れていった。

噂にたがわぬ行列は、減少した利用客の数とのバランスで微妙にウィングに収まっていた。オリンピック観戦にいく人が少しは増えている時期でもあるらしく飛行機自体の便数が減った中では利用客は多いほうなのかもしれない。ドラえもん状態の私の荷物の中に映るおもちゃと思しきPDAやら電源やらは怪しげなものと捉えられて全数御開帳という事態で時間を更にようした。「ああ、でもここだけであとは楽だな」とその時は思っていた。荷物検査を終えてカウンターで発券してもらい、荷物を預ける二番のAなので窓側だった。日本から行くときには短い夜の末に朝になるので窓側で正解である。帰りは長い長い昼間のままに一日をロストする。銀行でドルに両替してもらい日常生活費を用意する。両替票からは多くのヨーロッパ紙幣項目がなくなり窓口の方も楽になったのだろうか。

ノースウェストのラウンジで一時間ほどは時間がとれたので、書きかけの原稿であるVAXシミュレータ開発騒動について書き進める。今回は前後編という形にして実は後編は中心人物であるK氏からも原稿をいただいて合作にしようかと考えているのである。前編ではK氏が登場するところまでで終える予定にしている。開発途上で私自身に生じた事件により話が急展開した関係もありK氏の視点が加わるとより楽しいのではないか考えてのことである。実はTechnoWave25号の中でこの記事については次回以降に作成予定として懸案だったこともあり、またそれについてK氏も何か書かせてくださいとメールを戴いていた経過もあったのでした。

麦酒のグラスを片手に書き進めていると時間はあっというまに経ってしまい搭乗アナウンスが流れてターミナルに移動する。茜ラウンジからターミナルまでは動く歩道でちょっとかかる。近くにもうひとつあるラウンジは閉めているのかもしれなかった。サクラメントに住む姉へのお菓子を買い求めて飛行機には乗り込んだ。ノースウェストのビジネスは間隔が広いので仕事をしたりくつろぐのにはもってこいである。隣席は中国籍とおぼしき女性であった。ノースからの案内ではステレオ装置を刷新しましたと書かれていたのだが実際に操作パネルが壊れていて接触不良を起こしている席だった。乗員を呼ぶボタンすら効かないのだ。ときおり入るランプのボタンのみを苦労して点けた。

夕食は例によって松花堂を選択した。今回のバージョンは蕎麦寿司となっていていつもの俵状態のご飯もついている。日本人としては美味しいと思うのだが隣席の中国籍の女性は蕎麦寿司が気味悪いものに映ったのか食べ残していた。VAXシミュレータ開発の記事を大体書き上げると少し眠気がきたので寝てしまった。目が醒めたときには現地時間の六時少し前で乗員の方たちが朝食の準備を始めていた。窓の風景は、明るくなってきた空をみせていた。食事を終えて、眼下に太平洋岸の海岸線がうつり、やがて金門橋がみえて空港に向けて南下していった。着陸した時には七時を少し回っていた。入国手続きでは、社用である旨を伝えてこちらの会社の社員章を見せるとぱっと終了した。こうしたとき位は会社の名前が通用する。

ビジネスの荷物は早くに出てくるのでバゲージ処理は手早い。10度目ほどの米国旅行で箔のついた小さなサムソナイトは直ちに コネクト便の手続きでユナイテッドに委ねられた。サンフランシスコからの連絡便は午後二時過ぎのものなので六時間あまりの時間があり、あらかじめ私が導師とあおぐベンチャーの先達の片山さんがサンフランシスコに来ているので連絡をとり飲茶をすることにしていた。何せ免許の無い身の上なので、日本人とも見えない片山さんが逞しく見えるのは仕方の無いことです。到着出口で落ち合うことができて早速彼の車で飲茶に繰り出した。聞けば、日本の奥さんから電話で起こしてもらったらしく申し訳なくおもった。

片山さんは台湾とバークレーと日本の神田で仕事をしておられてWindows向けのデータベースを長らく開発されている業界の草分けのかたである。ビルゲイツも一目おいているという話は事実なのだとおもう。業界独り言をしばしば送る中でたまにあって話をしても示唆に富む事例などを話していただきとても勉強になる。自分自身開発支援という仕事を通じて、かつて片山さんが行っていた自社開発のデータベースでのユーザーからの珍問答などが実際に体験する中で似たような経験を積み、さらに共感する点が増えてきている。開発現場への憂いや嘆きと国際的に暮らしている片山の日常から感じる世界との接点からはより次の日本の世代への不安が伝わってきた。

テロ事件いらい、訪米を止めていた片山さんが来たのは知人が殺害されたからである。葬式などに出席したりしつつ後片付けをしているのだが息子さんがバークレー校にいることもあり奥さんの家から息子の家に移動しているというのも正しい見方かもしれない。自宅の土台の沈下などで基礎工事のやり直しをする必要がありそれに追われているといっていた。日本では知人が何かの事件に巻き込まれて殺害されるなどというのは異常な事態なのだろうけれど、日常とまではいわないまでも海外ではあたりまえのことなのかもしれなかった。いわゆるヤバイ仕事という意味に於いてはヤバイ仕事をしている人。ヤバイ仕事をしている人を告発糾弾する人。のどちらもヤバイのである。しかし、実際には後者のほうがより命に関わるという意味ではヤバイらしい。

わたしも、「いろいろ書いて夜道を注意して歩きなさいよ」と嫁さんには言われもするものの「殺されるかもしれない」とまでは思い至らない。片山さん自身久しぶりにサンフランシスコに来たということと現在空港周辺の道路が新しくなりつつあるので毎回風景が変っていて空港から出るまでは大変らしいのだ。空港の周囲を記憶に則って南に北に走り回るものの見つからずようやく思い出して辿り着いた店は開店はまださきの十時からの様子だった。「さいきんサンフランシスコに来たかい」と問われて暫く来ていないというとじゃあ金門橋を越えて岬の町までいこうということになった。

坂の町であるサンフランシスコの町を越えていき金門橋のルートに辿り着く。市内まで来たのは四年ぶりになる。北の海岸線から金門橋を越えてそのときやってきたのだが、今回はその途中にある岬だった。途中で路上に赤い塊が落ちていた。何かの動物の屍である。「スカンクだっ」と片山さんがおもわずハンドルを切るが踏んでしまったのだろうか。凄い臭いが車内に充満してきて堪らずまどを明けた。「ここいらじゃよくあるんだ」と言われた。サンディエゴだとあらいぐまが轢かれていたりするが。サンフランシスコの郊外ではゆるやかな丘がつづくような風景である。実際には結構な標高差があったりするのだが丘のかたちがそれらを感じさせないのである。

大きな風景が続き、丘の連なる先には太平洋が見えてくる。「ここいらの風景は映画でよく使われるらしいよ」と教えてくれるが確かにそうした美しい大きな風景が続く。岬へ伸びる道に入っていくと瞬間、車山高原にでも来たような錯覚に襲われる。しかしそうした風景がいつまでも続きやはり日本ではないと納得する。徐々に下っていく山道を時折汗をかきながら登って来る自転車の一団などがいるのだが凄い馬力だと恐れいる。やがて伸びた岬の尾根が低くなり突端の町に近づいた。入り江を囲む形の町に到着すると、そこはヒッピー達の住み着いた小さな町だった。海岸の先まで車ではいり堤防のところから海をながめた。綺麗な海岸の風景はヒッピーたちの安住の場所なのだろう。

町の食堂でブランチにして今日のスペシャルとなっていたラザニアとサラダを頼んだ。7upと片山さんのアイスティーとで乾杯となった。「麦酒は呑まないのかい」と聞かれたが、機中でアルコール濃度が高いのでと遠慮をした。木造の食堂に天井にはサーフボードがかかっていた。ネイティブとおぼしき風体の髪を編みこんだ人物が入ってきたときは最初は乞食なのかとおもったりもしたが、徐に食事を注文していたので彼らの装束なのかもしれなかった。食事をしながら話す内容は相変わらず、日本のソフト開発の話なのだがあたりの風景から考えてこんなところで、そうした話を真面目に話しているのもおかしなものだった。

空港まで戻ると丁度一時を少し回っていてノースウェストのドメスティックのターミナルに下ろしてもらった。しかし気がつくとコネクト便はユナイテッドなのでターミナル二つ分ほど中を歩くことになった。ターミナル2は今は工事中で使用していなかった。ユナイテッドのターミナルでは異様な行列が二つできていて、一つは発券カウンターへの列で一つは手荷物検査の行列だった。今度は、手荷物検査の行列にならび待ちようやく手荷物検査とあいなった幸い金属検知器はベルトまで外す周到さで回避できたが荷物の御開帳の再来がやってきた。今回は靴も脱がされて検査対象となった。なんだか丸い紙をこすりつけてはクロマトメーターかなにかにかけて検査するという厳重さであった。私の靴の中をかがされたクロマトメーターに合掌。

サンディエゴまでの便は中型のジェットであり両側に三列の座席のものである。飛行時間は一時間と少しで北海道から福岡に飛ぶ程度の距離だろうか。こんどはみっちりと詰まった席の間に挟まれて一時間の修行の時間となった。ブンブン飛行機のがくっがくっと高度を下げる不快感とどちらがましかと問われると中々微妙な選択である。なれの問題ともいえば後者のほうが楽かもしれない。半年振りのサンディエゴにはジェットでの到着でそのままターミナルに直結となった。なんとなく青空の空港に降り立ち歩くほうがサンディエゴっていう感じに合うような気がする。

さっそく私のセーターはお菓子の袋に追いやられて春から初夏のような気候のなかでタクシーに乗り込んだ。またサンディエゴの日々に帰って来た。明るい5号線からの風景で私を迎えてくれる。ラホーヤ地区までには一走りが必要となりメーターは35ドルほどになる。ヒルトン系列のホテルエンバシーは最近は会社の指定からは外れてしまい料金的には割高になってしまうようだ。一泊180$という額からもサンディエゴ地区の物価がもともと高いことは確かなのだが。同僚が先に投宿しているので同じホテルを選択したのである。朝食が付くのと部屋が広くて冷蔵庫やレンジがあるのは便利である。まあ、そうした設備が無いのは少ないのだが。入社以来慣れ親しんだマリオットホテルは設備的には冷蔵庫やレンジなどはなくて、そうした要求はルームサービスに頼るという性格のホテルでもある。

同僚には連絡するも日曜ということもあり遠くまで出掛けているようだった。翌朝は時差ボケもあり朝は早くから眼が醒めてしまい早速アメリカンスタイルの朝食とあいなった。ホテルは中抜けとなっていて天井は明り取りが付いているものの室内という構成だった。中庭を建物で囲み、天井のあるという特異な構造である。12階建ての建物の天井に届くほどまで木が伸びては居ないのだが、実際大きな池には鯉が泳いでいて木も植樹されていて公園のようになっている。この一部がテーブルとなり食事が出来るのである。毎日食べていると体に悪くなりそうな盛り付けで出てくるのはどうしたものだろうか。二日に一度であとは果物だけという選択もあるだろうし、実際に朝食でフルコースをとっている(?)人は少ないようだ。家族で来ている人たちは部屋に持ち込んで食べている様子だ。

さあ一週間の研修が始まる。

サンディエゴ通信 VOL7 米国で気になること

発行2001/8/3

夏休みも始まり、朝夕の電車は少し空いて来たこの頃である。展示会とお客様を招いてのトレーニングなどが重なり多忙な中に急遽の如く本社への出張指令が下った。前回の轍を踏まぬよう、ノースウェストに戻しての航空券手配をお願いしたのはいうまでもない。 日本航空でのビジネスクラスで、いやなのは日本人が多くてビジネスクラスでお行儀の悪い方が目に付くからである。それだけリラックスしているのかもしれないのだがリラックスしたいの私も同じでお行儀の悪いひととは居たくないのである。 日曜日の午後の出発であり、のんびりと横浜まで出掛けると成田エキスプレスは満席で立ち席乗車しかないとのこと。成田エキスプレス以外には快速でグリーンという選択のほうが美味しかったかも知れないが、気がせいて立ち席乗車で乗り込んだ。 最近の特急では禁煙が当たり前だが、連結部は喫煙可なのであり大学生と思しき男子が座り込んで吸っているのは致し方ないことだった。東京からは立ち席乗車で米国人が乗り込んできてラゲージコーナに陣取って座ってしまった。彼らは煙草を吸わないのだが自動ドアが開いてしまって連結部の若者のたばこの煙は容赦なく座席にも充たされていった。 飲み物を片手に歓談している彼らに外交交渉に臨むものは出てこなかった。この中の女性から第二ターミナルは次なのかどうかを聞いてきた。次の駅ですよと答えると一人の男性が親指を立てた。彼だけが違う航空会社で帰るらしいのだった。同じく東京からは東洋系の若い女学生と思しきチャーミングレディが乗り込んできて、連結仲間に参加していたが、彼女は何かそわそわしていたようで、私が外交交渉に応じたのが目に止まったのか乗車券の買い方を私に聞いてきた。そのうちに車掌がくると思うから待っていたらと説明すると安堵した様子だった。夏休みに入った中国に帰る留学生とのことだった。 煙草を吸っていた若者は、彼女の素性か明らかになったので当然煙草を止めてアタックに入ってきた。窓際にたった二人は、大学の話や地元の話を互いに始めていた。日本の学生にしては、積極的だと思っていると彼も帰国子女の経過が小学校のころにはあったらしい。 先に第二ターミナルで降りるといっていた米国人の彼は、自動販売機は無いのかと私に聞いてきた。昼の時間帯なので成田エキスプレスの編成が短くて連結部に自動販売機はないようだけど・・・と説明すると前の方に眼をやると車両の中まで結構な立ち席乗車の人が増えていて視界もままならなかったようだ。 しょげるのが判ったのだが私にはもうすぐ着くよとしか返す言葉見つからなかった。しかし立ち席乗車の人の波をラッセルしてきたのは車掌と共に車内販売の売り子さんだった。中国帰国の彼女も米国へ帰国の彼氏も二人とも満足げになったのはいうまでもない。改札の案内の後には乾杯が始まっていた。 千葉県が反対しようとどう思うと成田空港が決して便利でないことは明らかなのだが、時間を潰すという目的であれば成田空港のほうが羽田よりは良いそうだ。これは、中国の彼女をなんぱしている大学生の彼氏の受け売りだが。空港の上空で順番待ちしている様は中々理解されていないのかもしれない。複数の空港あるいは滑走路が増えるということで解決してほしいものだ。 成田空港の第一ターミナルも半分のウィングは閉まっていてなんとなく最近の不況の中で見ると余計に日本が貧相にも映ってしまうのは私だけか。滑走路の増設が決まり両ウィングがオープンするのはいつなのだろうか。 ノースウェストは便数が少ないのでカウンターが開いている時間が限られる性もあるのかいつもチェックインカウンターは混んでいる。予め席は先頭の席が取れていたので心配はなかった。ビジネスで席の心配があるのではこまるが。出国審査では書き込み手続きが無くなったので単に行列のみが長蛇になっていた。夏休みなのでいたし方ないところだが、ポイントはここである。出国審査窓口の空いてない側に一番近い列に並んで、窓口が空くのをすかさず察知することである。私は早々に先頭に陣取ることに成功した。しかし、パスポートの読み取り装置が私のパスポートを読み取るのに手間取りまだ手続きが慣れていないことが見て取れた。帰国するときにお手前拝見といきたいものである。 機内サービスもノースウェストに戻りほっと安心してゆっくりと休みつつ過ごすことができた。和食はなかなかお勧めなのだが、ボリュームという点では、不満かも知れない。そうした方にはあとの夜食スナックタイムにおにぎりなどが配給されるので心配はない。そのあとに二度目のデザートタイムも別途ある。さすがに朝の到着メニューではバナナだけもらって済ました。残すのはいやなのである。これは日本人の気質としてあるのではないだろうか。
サンフランシスコ経由で三時間あまりを空港で待機するのだが、この間に例の日本食コーナーで饂飩とカリフォルニアロールをつまんでいた。残念ながら、箸が品切れでフォークで饂飩を食するという珍妙な経験をした。やはり食べにくいものである。 サンディエゴ行きのジェットは発着口の変更のアナウンスがあり、暫く待っていたメンバーは口をへの字にして移動を開始はじめていた。柔道部の集団かとおもうような坊主刈りの一連がいたのだがU16と記載されておりサッカーには見えず何事かと思っているとアメフトだった。さもありなんという一団が、親善試合という名前でサンディエゴまで行くようなのであった。 エコノミーの席とはいえ三時間も前にチェックインしていたので席は先頭の窓側だった。最初のアナウンスで呼ばれてさっさと乗り込んだ。アメフトの一団やら初めての海外個人旅行でどきまぎしている風情の学生やらでごった返していた。サンフランシスコから空路はジェットでは揺れも少ないのだが、最近ではロサンゼルスからのプロペラ機に慣れてしまったのもありバスに乗っているような感覚になっていた。地上に見える風景には、これから進学する甥が行く大学町もあるらしいのだが、まだ地理的な位置はハッキリとは知らなかった。 実は前回の出張の際に、甥の進学祝いで彼が必要とするパソコンの半額を負担しようという申し出を姉にはしていて、半額は彼が今まさにバイトをして稼いでいるはずだった。振込先の銀行口座を教えてもらうように電子メールで姉には何度も催促をしていたのだが梨のつぶてだった。成田空港で買い求めた土産の餅菓子の箱二つは実は最後の秘策であった。 サンディエゴに到着すると後から到着する仲間が借りるレンタカーに乗せてもらうために彼の到着するコミューターターミナルに移動する必要があった。しかし、実際には到着したものの荷物が見つからないのである。荷物が出始めて辺りに人がいなくなるまでバゲージクレームの中で待ち受けたが見つからず困ったなと窓口に行きかけると既に到着していたと思しき荷物が脇に寄せられており、その中に私の荷物は待っていた。三時間待たされた主人とは別に先の飛行機に乗せられてしまっていたのだった。 時間的にロスをしてしまったのだが、コミューターターミナルへ行くレッドバスに乗り込み遅れた説明をしようと思いつつ降り立つと、荷物が到着しないんだと文句をいっている仲間と落ち合えた。彼の場合は、人が多すぎて荷物が積み込めないということでありこうした事態は普通のことなのだという事らしい。空いていれば次は混むから早めに積み込んでしまえという判断もあるようだ。幸い、次の飛行機が到着して降り立つ人影の中に事務所の別の人間もいた。日曜日の移動するのが常とはいえ、同一時刻に三人もが空港で出くわすのは珍しいことであった。待望していた仲間の荷物は最初に出てきたので一安心し、更に期待した三人目の彼の荷物は、同時に到着していた・・・。 レンタカーを借りるために連絡バスに乗り込むと、運転手は特別メンバーの人は居るのかとアナウンスしてきた。三人連れのなかの男がラストネームを告げ呼応すると、運転手はモトローラの業務用無線機に接続されたコンピュータ端末にタイプインして、応答表示されたスクリーンと照合してファーストネームを読み上げて男と照合が完了した。これも一つのプロトコルである。 特別メンバーの車は予め全て用意してあるらしく、バスはまずその地点で止まり三人はすぐさま車に乗り込んで移動していった。合理的な事が大好きな米国の考えそうな差のつけ方である。特別メンバーがまだ取れていない仲間は、カウンターにならび手続きを進めて実際の車を見て確認をしたりしての通常の手続きをだらだらと踏んでいく。こうした長い手続きに慣れているのも米国人の感性として評価すべき点だろう。それだけに特別メンバーなどの合理的な方法を考え提示するのかも知れないが・・・。 借りたコンパクトのキャパリエは冷房・ラジオ以外には何もオプションが見つからない仕様だった。ドアも個別にいちいちロック解除しなければならない。一人でのるのならそれでも気にならないのだが、二人で乗るときには不便であるようだ。当然窓の開閉は手回しである。 サンディエゴの強烈な青空の下で、涼しい風を浴びつつの車窓には、もっと開放的なオープンカーで走り回っているご老人の夫婦の車が何台か追い抜いていき人生を謳歌しているさまが綺麗な絵になっていた。燃費を気にするでもなくバックトゥザフューチャーの60年代に戻ったかのような車が快走しているのである。キャバリエに乗り込んでいる我々は、エンジンの音がゴロゴロいって気にかかるといった日本人っぽい感覚の話に終始したりしている。 今回のホテルは、この仲間が選んだヒルトン系列のエンバシーである。ホテルの概観はずんぐりした印象なのだが中は中空で中庭になっていて天井は明り取りが付いた不思議な空間のホテルであった。中庭をぐるっと囲んだ形の客室棟は12階まであり中庭はカフェとなっていて五階まで届こうかという大きな木も茂っており池には緋鯉が泳いでいる。そんな中庭を一望する展望エレベータが壁に露出する形で四本が運行しているのだ。 マリオットホテルはどちらかというビジネスが多い印象なのと比べて、エンバシーホテルは旅行客が多く子供も多いのが夏休みのせいもあるかも知れないがそんな第一印象だった。朝食は込みで付いているのはありがたいことだった。毎日、ベーグルショップに朝食を食べに寄っていたのがいつものことだった。 大きなモールにも面していて不便さはない。部屋は二つあって寝室とリビングである。リビングにはソファが四人分と低いガラスのテーブル、食事に使える丸テーブルに四人分の椅子、そしてテレビと冷蔵庫と電子レンジと珈琲メーカーがある。寝室には親子三人で寝れるほどの大きなベッドとテレビと洗面があり、あとはバスルームがあるのはいうまでもない。部屋の入り口は中庭に面した回廊側にあり、こちらには窓が設けられていて開放的な感じがある。 私の部屋は、エレベータから程近い便利なところだったが、ひっきりなしに動作しているエレベータの低い周波数の振動が気になったりもしていた。何か、不思議な感じのする中庭を見下ろす天井付きの広い空間は、子供達が飛び回ったり遊んだりするのには適しているようだった。子供ははだしで歩き回っている。洗濯機も低層階には配備されていて四台は無料だった。上層階の一台は、逆になぜか75セント必要だった。乾燥機も当然ついているのだったが仲間はいつもシンクで洗い風呂場で乾燥するので十分だともいっていた。この地域の乾燥具合からいえば確かにいえるのでもあった。 到着した日には、サクラメントの姉には電話していた。彼女の長男すなわち、私の甥が大学進学を決めてアルバイトにいそしんでいるというのが、私の理解だったのだが、彼は、ハイスクールの卒業行事のイベントシャツを企画して収益をあげたらしく、叔父さんの理解とは異なる方法で収益をあげて残りは叔父貴からの特別仕送りを期待しているわらしべ長者状態のようだった。振込み先の再確認を電話でも告げたのだが、翌日になっても電子メールの連絡がないので諦めて強制代執行に移り、土産の間に100ドル札を挟みFEDEXの一番不安全な方法で送付することにした。受取人がいなくてもドアに置いてくればよくて早く着けば良いというような選択である。結果、かえって何も怪しまれることも無く無事送金の目標は達成した。 例によってほとんどコンボイ通りの和食系のレストランで夕食をとっていたのだが食べる量は半端じゃないというのが毎度のことだが驚かされる。チョップスティックという日本食堂でとんちカツ定食というのを頼んだところチキンと豚のカツがハーフアンドハーフで出てきたのだが、そのトンカツだけでも日本では定食の量なのだと思う。 中華レストランでは、4人で行き4人のコース料理を頼んだのだが、ウェイトレスのお姉さんは、もう一品頼まないのかと引かなかった。実際に4人で食べて更に少しだけ残る程度で「ほらね美味しかったし十分だよ」と説明して漸く納得したようだった。 最近は日本でもあるFRIDAYというレストランに入りステーキとエビフライとポテトというプレート料理を頼み、スープにはオニオンスープがカップという名前の小さなボウルに入って出てきた。仲間はポークスペアリブとオニオンリングとエビフライのプレートを頼んだところリブの骨の分もあるのだろうが山盛りの料理が登場して、彼はさすがにドギーバックにしてもらい、翌朝食べたようだ。 今日は最終日でもあり、海の見えるデルマーという海岸地区の日本食堂に向かった。店内ではなくテラスで青空の下で夕食を食べて酔いの回った顔に夕陽が映えるといった中で寿司のコンビネーション弁当というプレートを各人が選んで食べた。私は照り焼きチキンと天ぷらとカリフォルニアロールのプレートで当然ご飯は寿司とは別に盛ってあり、味噌汁がつくということだ。六人ほどで食事をしてビールとつまみを食べたのだが$200ほどだった。まあ、出張中の食事は、全て会社の経費となるので建設的な意見交換が出来るビジネスミールとしてはお安い費用だろう。 ホテルに帰ってくると回廊の部屋の入り口には、食べ終わった皿や料理が置いてあり食べ散らかしたという印象の食べ方のまま残してあったりする場合も多いようだった。ともかく沢山盛っていないと気がすまないというのが米国流の感じ方のようで、それを食べきる人もいるし、食べきれず残すのでドギーバックにするという習慣もあるし、そのまま残してゴミにしてしまうという姿も、普通にある。さぞやゴミが出て漁るカラスで困ると思いきや日差しが強すぎるかカラスは全く見かけないのだ。普通ならカラスが氾濫して外のテラスで食事などできないのが日本なのだが、こちらではやせたすずめが落ちた食材を食べたりしている。 気になることも多い米国なのだが、そうしたことが気にならなくなっていくのが米国なのかも知れない。

サンディエゴ通信 VOL6 安っぽいJALにがっかり 

2001/6/3

今年に入って三度目の訪問をすることに急遽なった。スケジュールが近づくと明らかになり、突然のように降りかかってくる出張要請は本社であり仲間からの要請なので絶対なのである。とはいえ、久しぶりに週末を挟む形の出張だ。また、出張初日はメモリアルデーである。日曜日にフライトすれば、日曜と月曜はまるまる休めることになる。

降って沸いた出張だが、日曜フライトにして。成田からサンフランシスコ経由サクラメントで、さらにロス経由でサンディエゴというコースにした。実姉がサクラメントに居るのでよっていくことにした。土日が挟まるのでここで往復するという選択もあるが、飛行機代は二倍かかる。サクラメントからロサンゼルスまでのフライトを自腹で払うことで話がついた。

いつもノースウェストで飛んでいたのだが、最近はJALが安くなったので変えてみてはという会社側の申し出があり、今回変えてみることにした。ビジネスだから大差ないと思っていたのだ。ノースウェストではTCATの閉鎖などがあったがJALではその心配もないということも背景にはあった。SEASONというビジネスクラスの広告は見たことはあった。

例によって3日分の着替えとスペアのチノパンをいれて読みたい本と仕事の道具というセットをでっち上げて日曜に出発することにした。PCバッグとコンパクトスーツケースあとはザックである。基本的にいつものユニクロスタイルであること違いはない。ライフスタイルとしては、質素を目指しているので収入が割れるような要素はなく、絡まれる要素も少ない。

商店会の花鉢引換券を持った嫁さんと途中まで出かけて地下鉄駅のところで別れた。日常の風景になりきっている。さすがに自宅から成田に行くときには横浜から成田エキスプレスを選択する。地下鉄からJRに乗り換えるには日曜の雑踏を掻き分ける必要がある。買い物客でごった返しているなかをみどりの窓口に進む。

カウンターは二つオープンしていたが狭い中で荷物を持っている私はかなりの厄介物である。荷物が邪魔にならないように奥の方にさけて荷物を配置したうえで近いほうのカウンターの列に並ぶ。幸い、列は次の番だったが、列車の旅が確定していない方がカウンターとのやり取りを続けていて中々結審しないのがたまに傷だった。

窓際の席だった。最後部の車両でもあった。乗り込口の見計らいが悪く荷物を載せた側とは反対の位置の席だった。とりあえず買い込んだシューマイ弁当を昼食代わりに食べた後、屑処理で立ったついでに荷物を移動させて近い乗り口の棚にスーツケースを移した。テーブルにパソコン用のCD-R装置を乗せてMP3を聞いている間に成田目前で電池が切れてしまった。

充電という行為をしないかぎりはアダプターを挿していても充電されないらしい。ちなみに充電中は当然だが動作しない。電池の特性からは、そうなのかもしれないが使い勝手からみると・・・。まあ確認不足の自分に諦めてフライト中のCDリスニングはキャンセルになった。スーツに入れるべき状況に代わった。

気が付くと成田の駅につき、そこから空港までの単線でありながらデラックスな作りかけの新幹線でも走りそうな状況の線路を進む。単線の中を進むとほどなく第二空港駅に到着した。今回は日本航空なので第二ターミナルなのである。ホームにおりるとはじめてそのホームがJRとして一つしかないことに気が付いた。たしかに単線だったのだ。

前回のノースとは異なり日本航空のビジネスカウンターは閑散としていた。荷物の行き先をサクラメントと告げて受け取ってもらった。日本語でカウンター処理が出来るのはメリットだったかも知れない。一応、マイレッジカードの手続き用紙を受け取り移動する。日曜日というせいもあってか時期も悪いのか出国手続きはガラガラだった。

桜というラウンジを見つけて入ろうとすると、違うサクラのラウンジだといわれた。同じ名前をラウンジにはつけて欲しくないものだ。ターミナルを結ぶコミュータで目指すターミナルに到着した。ラウンジでの状況はノースと比べても少し見劣りはしていたが、こんなものだったかと納得しビールを飲みつつ、マイレッジの書き込みをして搭乗開始の時間を待った。

時間になり、カードを台紙から外して機械に読み込ませて登録を行い、申し込み用紙は搭乗窓口に預けて乗り込んだ。通された席は、ノースに慣れた私にとっては椅子の幅を除いてはほとんどエコノミーのような印象を受けた。荷物を棚に載せたりする間に誰も背広を預かったりするような光景にはでくわさなかった。ウェルカムドリンクはジュースとカクテルからの二者択一である。ぞろっと並んでいる盆から取らされる。新聞を配りに来て違うと思ったのはスポーツ新聞はどうかという点くらいだった。

ノースでは、お客の名前を確認されて担当者が名乗る。というのが普通なのだが、そうしたことはJALではない。必要なものがあれば籠から歯磨きやスリッパを受け取る。合理化されたという印象と安直という感覚しか伝わってこなかった。こうしたことに気を配らないのは国際線といいながら社員ではなくてアウトソーシングしているのではないかと感じた。

食事も含めてよい印象もないままにサンフランシスコについた。ビジネスからエコノミーの近くにランクダウンされた印象だけが残った。さすがに椅子の幅は違うが前との距離や、アテンダントの心遣いが感じられない今回のビジネスクラスについてはがっかりした。サンフランからはサンディエゴ行きと同じミニ飛行機なのである意味で安心していた。

入国審査も出国審査同様にすいていてすぐに終えた。サンディエゴのホテルに滞在する旨を伝えて今日一日サクラメントに泊まることの細かい説明まではしなかった。ただし、これからサンディエゴに向かうということだけは伝えた。嘘ではない、明日には向かうからだ。荷物を受け取ると、また国内便の荷物として預けなおす。終着地はサクラメントと書いてある。

サンフランシスコ空港からは、フォンカードを使って電話を姉にいれた。ミニ飛行機の時刻が変更になっていたので到着予定時刻を伝えておいた。空港内のコーナーで饂飩があったのでそれをオーダーし昼食代わりにした。サクラメントはカリフォルニアの州都であり平野の真っ只中にある。近くには川があるが、変化はあまりない地形である。

ミニ飛行機で到着した空港で、少し荷物が届くのかびくつきながら待っていると遠くに実姉が到着したのが見て取れた。カウンターに掛け合ったりしているのだが、こちらに振り向くのを待ち手振りで知らせた。荷物も無事到着して、久しぶりのサクラメント空港から実姉の車で家に向かった。ただちに実姉の運転で現実に引き戻された。方向音痴なのである。

車が選んだ道は、逆方向に向かっていた。シアトルでも目指しているような方向だった。ハイウェイの最初の出口でおりて地図を開いているのだが・・・地図をめくって現在地の確認に務めていた。とりあえず現在地が確認できてきた道の戻り方を確認して戻ることにしたのだが、それだけならば地図を開くことは無かったような気もしている。

サクラメントは今、少し暑いらしく100度を越すらしい。といっても華氏なので実際には37度といったところだろうか。また日本でのそれとは乾燥の度合いが異なるので不快指数といった尺度を表示することはないようだ。また同時期のサンディエゴでは68度くらいで日本流にいえば20度くらいだ。曇っていることも手伝っているかもしれない。

サクラメントのダウンタウンを越えて少し、レノの方向に向かったところに家はあった。部屋数も十分にある平屋の家である。まだ義兄はサッカーの試合から帰ってきていなかったので姪や甥たちと挨拶しつつ、テーブルに残されていた素麺を少しお相伴した。義兄はボランティアでサッカーの審判をしていて週末は試合に借り出されている。週の間の仕事は教師だ。

ここから、デイビスの病院まで産科の看護婦・助産婦として通勤している姉の収入と義兄の教師の収入とで三人の子供達が教育してきたのはたいしたものである。母と同様に尊敬している次第である。心豊かな生活をしている姉の家で夕食はバーベキューとなった。広い庭のテーブルで食する食事は何物にも変えがたいだろう。日本ではそうした状況にはなりにくいのはなぜだろうか。

長男は秋から大学進学が決まっていて、今は大学生活に向けてアルバイトをしている。大学は建築学を志向するらしく大変らしい。奨学金の申請をしたのだが、姉さんの給与では不可といわれたらしい。義兄と姉の収入を足した場合には奨学金の対象からは外れてしまうらしい。もっと貧しい人もいるということだ。米国での看護婦の地位や給与は高いらしい。

食事を終えて、暗くなってはいたが近くにあるミニゴルフをしにいくことになった。コースがあるらしく遊園地のようになっているらしい。甥二人は難しいコースを選び、残った私達は優しいコースを回った。義兄はこまめにスコアをつけつつ、パターゴルフを楽しんだ。最後のホールはクリアすると料金が無料という仕組みだったが、みなクリアできなかった。

実姉の家のパソコンで日本語のメールやワープロが動作するようにというのが姉の要請でもあったので夜はPCの設定を行い、パーティションを切り直して半分に英語環境を残して、残りに日本語ウインドウズ2000を導入した。アップグレードでない正式版を買い求めてきたものを一式置いてきた。プリンタから日本語が正しく印刷できて、メールが出来て、元の環境も動作していることを確認してから休んだ。

翌朝は、姉の運転で義兄とサクラメントに向かい、今度はジェットでロサンゼルスを目指した。ジェットのフライトスケジュールは大幅にずれ込みサンディエゴでのコネクトに支障がでそうな状況になっていた。支障が出ているのはユナイテッドのコンピュータがダウンしているのも理由の一つだった。マニュアルで手書き発券しているスタイルは初めてだった。

当然、席は自由に座っていくのだが、窓側から詰めて座っていかなければならない。こうしたあたりまえのことがスムーズに出来ている様には感心した。日本ではこうした状況では、収拾がつかなくなりそうな気がする。平等に暮らすことになれているこの国の人たちの感性には学ぶものが多い。私が座った席は通路側で窓側には日系の女性が荷物を隔てて座ってた。

多分、知り合いが来るだろうから先に席確保をしているのだろうと思っていると、あとから若い女性がやってきてまさにその通りだった。ラッキーだったかも知れない。ベルトを締めて90分のフライトの間には話をしつつ、親子の様なこの二人組みは実は英語学校のクラスメイトらしいことなどが判ってきた。彼女らは日本にこれから別々に一時帰国で向かうらしい。

フライトが遅れていることは、到着段階になっても同様で本来のスケジュールでは15分ほどの時間しかなかった。同じユナイテッドだったのでまだターミナル移動が無いのが幸いだった。ミニ飛行機の搭乗カウンターでチェックインをすると幸運にも飛行機が遅れていた。しかしすぐに乗り込むことになり自分の荷物が正しく同乗できるのかどうかが気がかりだった。

ロスからサンディエゴまでは海岸沿いの上空を飛んでいく45分程度のフライトである。一杯のジュースとスナックをつまむと着いてしまう。しかし雲の上を飛んでいるなかで下降が、始まり雲間に下りていくとそこにはサンディエゴの市内を飛んでいた。軍港を一望しつつ、飛行場に着陸する。空港で半ば諦めてまっているとあにはからんやひょっこり何事も無かったかのように手書きの札がついた、荷物はしっかりと出てきていた。ユナイテッドは大したものかも知れない。

タクシーでホテルに向かい、早速ホテルではメール環境の確認などを行う、既に日本は火曜日の朝に入ろうとしている。同行の仲間も着いているはずなので食事をどうしようかと思いおりていくと、同僚も含めて日本から来ていただいたお客様の一行と同じホテルだったらしく現地営業や日本からのメンバーとも併せての食事をすることになり郊外の日本人の居酒屋に行くことになった。メニューが日本語でしかないという普通の居酒屋である。日本の居酒屋チェーンと違うのは、メニューに写真が無いことだろうか。

サンディエゴでは実は海産物が結構豊富で、日本人の好きなウニなどは日本に輸出しているほどらしく新鮮で安くて美味しい。ここのメニューにはほうれん草のウニ炒めがお勧めとしてのっていた。ウニを焼くなんてっと思う方もいるかも知れないが、中々美味しいものでした。結局この週はお客様との接待が続き次の週末までは食費はかからなかった。

サンディエゴ通信 VOL5 忙しく長い一日 

発行2001/4/18 米国

月曜である。ラッシュの時間帯を少しさけて早めに会社に向かう。8時半過ぎには会社に到着した。週末に予定されていた恩師の叙勲祝賀には参加できなくなったので記念品の費用を事務局に送付すべく隣接の赤坂郵便局にむかった。9時には窓口が開設され現金書留で送付をした。説明の手紙は電子メールソフトで書き印刷して封入した。まだ振込み費用を電子メールで添付する方法論はない。 引退されている先生への手紙も予め送付したかったが時間がない。同窓会名簿に記載の住所を転記して自分当てにメールで送付しておいた。空いた時間に現地から手紙を書くことにしていた。Gooによれば、レタックスの代行サービスというものがニフティにはあるので、これを用いれば電子メール的に書いたものを郵便のサービスとして封書にして送付してくれるのである。引退された先生がメールなどをされているのかも知る由もなかったのでとりあえずこれで落着である。 机に戻っても、まだ、月曜日には特に電子メールが届いている様子も無い。まだ向こうは日曜日なのだ。限られた時間を使って新しいビジネスチームと情報交換を行う。上位層のアプリケーションビジネスを支援するという新チームリーダが米国から戻ってきてようやく日本での仕事が本格始動する。我々が手がけてきたアプリケーションよりの幾つかのフィーチャーが彼らの手に委ねられることになった。端末メーカーとの付き合いしかなかったQUAD社にとっては、新ビジネスにより新たな局面やサポート内容の刷新が求められることになりそうだ。 打ち合わせを午前中に済ませて、昼一番の成田エクスプレスに乗り込んだ。週末まではサンディエゴでの仕事になる。翌週は、直接お客様の訪問も予定しているのでタイトなスケジュールだ。TCATでのチェックインが出来なくなり成田でのうんざりする長いチェックインの行列をすることになった。便数の少ないNWではビジネスクラスのチェックインも溢れていた。出国審査自体は空いていたのでゆっくりとラウンジで休憩が取れた。 ビジネスクラスでの旅行は、到着当日にすぐ仕事に移る余裕が出来る。しかし、最近の電機業界ではビジネスクラスを利用しない緊縮条例がまかり通っているらしい。開発費用だけではなく出張費用も絞り込んでいるようだ。隣席の御仁は、NECの方であったが、「今回は、委員会活動のスタッフなので特別です」と語ってくれた。会社では部長さんなのではあるが・・・。少し分野の違う同士ではあったが、その分話が弾み機内で映画を見ることも無かった。「現地からは、車で一時間の運転です。」と語ってはくれたものの電気労連の別の会社では運転禁止だが、通信の雄のこの会社はOKだった。 ロサンゼルス空港では、コネクトすべき飛行機には乗れなかった。ロスの空港でのチェックイン行列が物凄く、またトラブル続きの乗客ばかりでカウンター自体が閉塞状態に陥ってしまったためである。様子のわからないアジア人が大半の場合トラブルの源である。クレームを付けても列に戻るようにしか言わないのは、たいしたものである。皆乗るべき飛行機に乗れなくなりそうなのでクレームを言うのだが全員がその状態なので押し戻されるだけなのである。 唯一の例外は、間違えてファーストクラスのチェックインカウンターに並ぶことでカウンター担当者に指差されてエコノミーのカウンターに回されるケースになった乗客であるが英語の判らない振りをして確信犯なのかも知れない。この場合には航空会社側の対応では、「エコノミーのカウンターに行け」としか言わないようなので美味い方法かも知れない。長蛇の列も、この「特別例」としての扱いに不満をなぜか言わないのだ。 長蛇の列に閉口してはいたものの、自分の番になりもはや自分の飛行機の出発には間に合わないのは判っていたのだが・・・。開口一番、向こうから「長い列でごめんなさいね」といわれてから「あなたの飛行機は二時間後よ」と言われたのだが、先に予定外に謝られたので飲み込んでしまった。文句をいってもはじまらない。結局四時間あまりロサンゼルス空港に滞在する羽目になった。おかげで、国際電話のコーリングカードの使い方をマスター出来て、米国内での電話において小銭の心配をしなくてよくなった。 昼食は空港内のバーガーレストランで済ますことにした。現地でフードコートのチャイナにしようと思っていたのだが時間がなくなってしまった。野菜サンドとオニオンフライを頼んだのだが、例によって山ほどのフライがやってきた。近くのテーブルをみると事も無げに皆、そうした量を食べているようなのだが・・・。野菜サンドのボリュームも迫力があり、これだけで実は十分だった。 サンディエゴ行きの飛行機待ちをしていると日本からの家族旅行の風情の人達がいた。子供二人とご両親で、時差にとまどいつつという印象だった。どうやら、同じ飛行機らしく「私は窓側だわ」とハシャイでいた。家族で指差している先には、ふのブンブン飛行機が到着してきた。乗り込み、後方の窓席から前を見ると例の家族の人達の座席番号に違う人達が座っていた。座席リコンファームの問題などがあったのか結局最後部の4人掛け一列を空けて家族で座ることになった。チケットには大きくYのマークが書いてあったので、そういうこともあるらしい。 相変わらずの抜群の青空の下、海上をブンブン飛行機でゆくのにもすっかり慣れてしまい、転寝をするくらいになってしまった。オレンジジュースの配給を受けて眠りから少し我に返るともうすぐに足元にはトップガンのミラマー空軍基地が広がっていた。サンディエゴの上空であった。サンディエゴの市内上空を旋回しつつ空港に向かって高度を下げていった。空港に降りると、私より先に行ってしまった荷物がちょこんと私を待ち受けていた。 小型のサムソナイトにいつものデイパック一つであり、ひげを蓄えた国籍不詳の客に見えるらしいのかタクシーの運転手は、幾つかの言葉を掛けてきたが、幸いにも日本語も含まれていた。乾燥した天候の良いサンディエゴの風景は、いつもこのタクシーで北上するホテルまでの道でいつも気持ちよく迎えてくれる。モルモン教の教会の白さはいつも目に眩しい。 昼を大きく回ってしまっていたが、月曜の夕刻には日本・韓国・中国・米国と各出先事務所のエンジニアを招集する電話会議が行われるので、ホテルでゆっくりもしておられず、そそくさとまたタクシーに乗り込みオフィスに向かった。車では五分とかからずに到着する。会社で発給されている自分の写真入のIDカードを翳すとドアのロックが開いた。早速ボスの部屋に向かいお土産の薄皮饅頭を一つ御裾分けしつつ、状況報告をした。半ズボンとアロハが彼の制服なので、私のユニクロ姿は、むしろ堅いかも知れない。 自分のオフィスに向かうと日曜に出発した同僚は到着して仕事に入っていた。マシンを広げてメールを読み出して資料に目を通している内に、会議の時間となった。いつもは電話の先に居るのだがこちらから参加すると違和感がある。韓国のメンバーもこちらにきていたので電話の先には中国と日本の二箇所である。最新技術情報の紹介をしてもらうべく呼んだ仲間を囲み、コーラやミネラルを飲みつつ新技術について聞き、通常の国際会議に戻り、結局二時間の会議を行った。 少しオフィスに戻って仕事を片付けていると9時半近くになっていることに気が付き慌てて、同僚とホテルに車で食事をとりつつ戻ることにした。日本であればここからラッシュで一時間以上かかるところが5分たらずでホテルに着くのは、快適である。ホテル近くに新設されたレストランにいくことにした。何の店なのかは入るまでは判らず近づいてきたときには陽気な音楽だけが聞こえてきていた。実は彼の苦手なメキシカン料理であった。 陽気なサンバのリズムなどを聞きつつ肉料理をトルティアに包みつつ長い一日を思い返していた。ここでいつもお世話になっているコロナビールを飲みつつ少し残っていた時差を解消すべく酔いに任せていた・・・。明日は半年に一度の査定ミーティングなのであるが、アロハのボスとのミーティングはいつも肩に力は入らない。気軽なものである。