業界独り言 VOL261 意外・心外・予想外・・

世紀を越える前に予感した事態は、結局のところ回避できなかった。自らの行動力の不足を改めて考え直している次第でもある。大きな流れとしての携帯バブルを起こした元凶は日本自身の突出したニーズと過当な競争だったのかも知れない。第三世代携帯電話の登場に向けて期待の高まった多くの技術が世紀を越えてどうなったのかといえば意外な結果や心外な結果などがあるように見える。1999年に当時、最高益を計上しようとする携帯電話メーカーから離反することにした。そして罵倒を浴びながら選択した路に描いた個人的な技術者としての視点からみた理想的な形などには必ずしもならなかった。そうした中で、少しずつ変容していきつつ辿りついている現状を、五年前の自分に教えてあげたい衝動にも駆られたりもする。予定されない未来を切り開き生きていくことは面白い。

そんなグローバルな先端開発の中での暮らしぶりにおいても、現実の市場に向けた仕事の中で打ち出していく方向修正の影響は、あまり日本の会社をとりまく環境と変わらないともいえる。では、何が違うのかといえば政治的な政策から時代を制御していこうというのではなくて、やはり自分たちの信ずる技術追求を自分たちの拠り所とする技術成果である特許による収益を現実社会のなかに成果貢献として対価を得ていくというビジネススタイルの上で偏ることの無い技術開発を続けてきたことに他ならないだろう。政治的な取り組みが無かったかといえば、語弊があるかも知れないが、信ずる世界に向けての行動を狂言だと周囲から見られても仕方の無いことだったろう。狂気とは相対的なものである。

開発効率の追求は、どの企業でも行なわれていることであり、それに必要なことは円滑なコミュニケーションの達成である。アジアの諸国が達成してきている携帯ビジネスでの技術成果は緻密に積み上げられてきた日本での成果などを手本に最先端企業との間での単一言語でのコミュニケーションにより達成してきたといえる。仲間として迎えている中国人のL君や、英国人のM君などを見ていても日本という市場での仕事で日本語で順応して、また英語によるより深いコミュニケーションの輪に顧客の声を展開して活動のサイクルをまわすことに尽力しているのである。なぜか、日本人だけは奢り高ぶったのか自国の言葉だけで終わろうと終始してきている。こうしたことは、二十世紀末からの悪しきツケなのではないだろうか。

相手国の言葉で語ろうとすることの真剣さを振り向けられたときに大きな勘違いをしてしまったように思えてならない。自国のみが突出しているということを鵜呑みにして、大将になってしまったのでは、けっして成功はおぼつかないのは自明なのだが・・・。Quad社自身もかつてパワーコントロールの対極の技術追及として出来上がった1xEVDOのような技術を生み出す土壌は、この世紀越えのなかでも着実に成果を残しているようだった。技術論としてのバトルの後に始まった3GPPの追求は、こうした土壌のなかで育まれてきたといえるのだろう、最適なリソースアサインの追及の過程で生じる軋轢は、日本の会社と変わらないのではという思いは危惧に過ぎなかったようで、とくに動的なリソースアサインをスムーズに進行できるのかどうかという点は大きく違っているように感じてきた。

開発プロセスとして追求を進めていくと、ソフトウェア開発の属人性の否定というものがあるのだが、開発していく技術目標としての仕事の進め方としての属人性とともにデザインデータの共有とグループとしての設計取り組みの構図が有効に働くことを設計チーム自身が望んでいるのだ。無論すべてがそうだとはいえないのかもしれないが、仕事を切り上げて長いバケーションをとるために必要なことは、自分の仕事を見えるような形にしておき属人性を排除して、サポートをする仲間にゆだねるようにすることである。設計資料やプロトコル標準などを常に誰もが参照しつつ話を進めているのもそうした背景からだろう。管理された資料を利用するあるいは管理されるように資料を作成するということになる。情報管理の仕組みとして設けられたデータ共有やワークフローのシステムをAgileとネーミングしたりするのも設計とITの融合といえる。

日本のお客様が出してくる要望事項の裏側に潜むものについての背景を理解した上で、補足をしていくということが必要になるのは日本人の文化固有のものなのであろうか。阿吽の呼吸を求められても、言葉の壁を越えては通じないのであり支援技術者としての技術力不足を思い知ることにもなる。NDAの壁を越えられない通信キャリアや通信メーカーの中から壁をようやっと乗り越えられそうな状況に到達してくる事態が来年には想像がつくようになってきた。吃驚するようなメーカーの実態を訪問したりトップの訪問などを受けてしりつつも重厚長大だった通信機メーカーやキャリアが体を捩りつつ、もがき新たな端末ビジネスを確立しようとしているさまには、世紀を越えられなかった反省と舵取りの変更の選択とが現れているようだ。そんな期待値の迸りをお客様の希望の中に見出したりして、その動きにそく呼応したのは誰あらぬQuad社のトップだったりもするのが嬉しかったりもする。

世の中の誰もが疑念を持ちつつ慣性モーメントに縛られたまま動いてきた国内携帯ビジネスを揺るがすほどのビックウェーブになるのかどうかは、まだわからない。携帯業界のバランスが軋み始めたのは事実であり、愛の伝道師たちのインスタントラーメンの世界をカップヌードルに変えてしまうのかもしれない。国内淘汰の中で、そうした事実や予想を把握している通信メーカーが行動を起こし始めたことは大きな流れでもある。永い間、基礎開発を続けていくことの必要性を説き実践してきた結果から、こうした結実していくのだろう。まあ技術対価としての特許料などのライセンスを投下し続けた成果を引き渡すのであれば、まさに借りたものをお返しするということでもある。無為な労力の浪費などに使われなかったことは、会社の健全さとしての証明に役立つかもしれない。PDCの時代が終焉してきたことは通話からアプリケーションの高度化に時代が移行したことを示している。

通信キャリアが仕様を提起することに応えるというビジネスモデルが健全なのかどうかは、まだ明らかではない。相互接続性を国内のキャリアの三社がようやく足並みをそろえて言い出すようになったのは、つい最近のことでもある。GSMを国内サービスとして切り替えるという判断は無いにしてもユーラシア圏を対象にしたグローバルサポートに手をつけ始めた巨人などは、自己矛盾の方向修正にやっきになっているようだ。国際標準に照らした結果として愛の伝道師と欧州からの十字軍あるいは米国からの窓辺の人たちなどさまざまな規格が乱立したままのスタートになることに相違は無い。そんな中で本来のお客様が求める理想の姿として必要にして十分な端末性能を使い切るアプリケーションプラットホームの確立が試されるまさに、来年は主戦場の始まりとなるようだ。

ワンチップを推奨していくなかで、やはりどこかで聞いたことのあるDualOSなのかカーネル化されたモデム機能なのかといった切り口で期待が高まっていることも事実なのだろう。以前のQuad社であれば、複数のモデム機能の評価開発をしていたのであるが、こうした状況下では複数のアプリケーションOSを追求していくことが要望されている状況でもある。そんな中で何が実践出来ているのかどうかは不問として、デファクトになりうる技術完成度と設計の容易さとの共存が求められていることは間違いない。こんな渦中で求める仲間としては、もう通信プロトコル屋を雇っても仕方がない事態なのだともいえる。3GPPに明るいから食いはぐれはないと思っているようなエンジニアは考えを新たにしたほうが身のためである。もう乱立したプロトコルをアマチュア的に開発していくことはありえないからだ。

アプリケーションの観点でOSとソフトの橋渡しをドライバーの動作とマイコンのアーキテクチャを考えつつデザインできるアーキテクトの発想をもつ技術者こそ、これからの時代を生き残れるエンジニアなのだろう。高度なアプリケーション機能を実現する中で、今までの発想での潤沢なハードウェアで軽く実装するということで陳腐なソフトウェアコードの開発管理に終始するというスタイルは国際競争に立ち向かっていけないのは自明なのである。ソフトウェアの品質は高くて当たり前、同じマイコンのクロックでどのようにアプリケーションを料理出来るのかが問われる時代なのである。自分達でコードを書かずして出来上がった脂ぎった料理を食べたいユーザーがどれほどいるのだろうか。ヘルシーな食生活は健全な生活でコードを生産される有機的な設計チームで成されるはずである。誰かソフトウェアの有機農法にチャレンジしようとは思わないか。

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