業界独り言 VOL271 おぶじぇくと志向でないと?

春の陽気が不安定な時期でもある、予報では桜の開花予定日でもあった水曜に知己たちと独り言のオフ会を囲んだ。昨年も同様の時期にソフトウェア開発の中核を成している知己たちとオフ会を囲んでいたので今回は二回目ということになる。定期的にやりたいという想いとは裏腹に中々核になってやろうという意識が集まらないと続けるのは並大抵のことではない。言い訳になるが、日常のプロセス改善活動のように仙人いや専任となる方がいてこそ、積み重なっていくということになるのだろう。家電メーカーとして推進しているプロセス改善活動などは、最近のデジタル家電の勢いの中でプロセス改善活動も常態化してきているようだ。肥大化するソフトウェア開発の急先鋒であったケータイ端末関連のそうした活動については、脚光を浴びる機会も減ってきているように見えていて心配でもある。

そんな中でケータイ端末開発に絡むソフトウェアエンジニアが中心となったオフ会になったのは、まだ意識高いエンジニアがいると言うことだと思う。独り言に呼応する人たちに出来る手伝いがあれば、元気のある仲間達を紹介して発奮してもらうのも一つの方策でもあると思うのだが、忙殺されている感の続く職場では定時退社日という設定でも午後七時の集合は難しいようだった。今回のオフ会にはスペシャルゲストとしてケータイならぬ携端開発を多年に亘って続けてこられているベンチャーの社長のT氏を招いていた。オフ会の前の週に米国からのチャットをしたりしていた折に今回のオフ会を紹介したところ興味を示されたので、悩めるケータイ開発にも携帯端末開発の話が被るのではないかとも思ったのである。現在のように携帯電話が一般化するまでに携帯端末といえば、バーコードリーダーを搭載したPOS端末だったり、保険業務を実行する端末だったりしていたのである。

最近では携帯電話自体は、ケータイと略すらしいので間違えることはないのかもしれない。ソフトウェア石器時代に、私がCコンパイラ開発をしていたりしたころにも専用簡易言語を既に搭載されて端末における業務アプリケーションの表現やカスタマイズといった作業をしているのが当時の携帯端末の開発でもあった。T社長の力添えなどを頂いて開発したペン型バーコードリーダといった端末開発をしていたときには、8ビットでの組み込み開発と件名対応に用いるMSDOSパソコンといった時代でもあった。組込み開発がC言語により飛躍的に楽になるということの実感は、こうした端末開発を行いプロトタイピングでそのまま製品評価したりというターンアラウンドタイムなども含めての革新の渦中でもあった。T社長は、いたく開発したコンパイラにも評価をいただき以降の製品開発のマイコンを全て切り替えたりといったことも行われ開発専用マシンとしてTandyやNEWSといった個人用ワークステーションを開発現場に導入されたりといった先進の意識をお持ちの方でもあった。

T社長との食事を交えた懇親会も十数年ぶりということになっていたので、当時の社長からみた自分自身の青臭さというものをお話いただき照れてしまう面もあった。まあ三十台に差し掛かる以前という怖いものなしという感性の時機のことでもあり許していただきたいてんもあるのだが、T社長に強く印象付けてしまった8ビットマイコン向けに開発したCコンパイラの話では、「メーカー製コンパイラの出来があまりにも良くないので作ることにしたんです」というような暴言を吐いていたらしいのである。少し距離を置いた人が、強く印象付けられていたのであれば、身近に居た仲間や上司からはとんでもないといった状況でもあっただろう。とはいえ、そんな自身を心広く許していただき仕事に邁進させていただいた上司の方たちの心遣いには今もって感謝の念が絶えることはない。出来る限りそうした若手の技術者のとんでもない度量を示すものが居れば出来る限りのことをやらせてやりたいというのが、私が学んできたことの恩返しでもあると考えている。

生憎と期待する若手技術者というよりも、発奮していただきたい中核技術者が多い懇親会となっていたのだが、そんな中でもソフトウェア技術者としての生き様を会社の中の仕事にマッピング出来ずに壁にぶち当たっている人もいた。事業として会社が指向する流れに納得出来ないままに若手育成の気持ちのゆとりも持てずに、会社員としての仕事を消化していくだけでは精神的に消化不良や呼吸不全といった状況に陥っていたようである。ケータイ開発での事業再生を目指す業界の流れの中での焦りからなのか、中核技術者として現行の仕組みの中で解決していく身近なテーマを探ろうという真摯な意見交換なども続いた。諦観を決め込み、自身の技術者としての精神状態をキープ出来る範囲以上の仕事を引き受けないというスタンスに立ち潮流の変化を信じ、自身の信ずる技術追求を決め込む仙人のような知己も居る。それぞれの仲間達の悩みを互いに打ち明けたりする場が無いままに、会社生活の中で埋没しているというのは残念な限りである。

会社の枠組みとしてのソフトウェア技術者という仕事に没頭できるはずのソフトウェア中心の会社に在籍していた仲間も、経験を五年も積む中で部下を持たされて管理や見積もりばかりという状況に追い込まれて早々に独立してフリーランスの技術者として生活をしてきた知己も今回の懇親会にはきていた。単身、韓国に乗り込んでコンサルティングをしたり、米国現地でのデバッグや見知らぬチップセットやメジャーになる以前のブルテュースのプロトコル開発をしたりと破天荒な生活をしてきたらしい。生活のための仕事でもあるので稼ぎが溜まるとプータローを決め込んだりもしていたようでユニークな個性と共に人生を謳歌してきたという感じが溢れている。そんな彼も、Quad社に現在を一時的にか定住をしているのだが、まあ長年続くのかどうかは互いに気にもせず、今彼に期待することが彼がやりたい仕事として互いの一致が見られるからというのが実情でもある。Quad社の社員には会社の永続性について信じたりするような能天気な人は誰も居ないのである。

私も通信機メーカーでのソフトウェア技術者生活を二十年余り続けてきた、ある意味で特異な経験をもっている。現在ではこうした通信機メーカーで一線で仕事を続けたりすることは出来ないし、ある意味で最初からソフトウェアがしたいのなら通信機メーカーのソフトウェア部隊である別会社に行くことを求められるようだ。これはおかしな話であると、私は従来から思ってきたことでもある。ではソフトウェア部門の別会社に行けば解決するのかと言えば、前述のフリーランス技術者になった知己などはその会社に居たはずなのだが何も替わりはないようだ。ソフトウェア開発ということを仕様化すること、基本設計をすることと捉えた昔日のコンピュータシステムの開発スタイルに囚われしまったままソフトウェア開発をスタートしてしまった悲劇だったのだろうか。ソフトウェア開発の経験を否定することを過去に実施した会社でもあり、マイコン登場などから再度立ち上げるに至った意味の無い歴史が元凶だったとでもいうのだろうか。

出る杭は打たれるのか・・・。ソフトウェア技術者あるいはハードウェア技術者の区別の無い時代が昭和50年代だっただろう。マイコンが登場してビットスライスプロセッサなども出てきた時代に、お客の要求するアプリケーションをどのように具現できるのかということを真の意味で追究できたのは機械語命令の速度やMIPSのみを見て残りは方式をシステム検討しているだけのことでは何も出来上がらない時代だったのであり、システムエンジニアとは最新のデバイスやソフトウェアの成果を常時自らの手で確認しつつ試行して積み上げていくと言うのが仕事なのであり大学卒で五年も仕事をしたら先輩として後輩の指導をしなければならないとか管理だけすればよいとかいうことでは、いつまでもプロフェッショナルな仕事など出来よう筈も無いのである。会社として蓄積をしていくことを努力しない限りは、うすっぺらな土壌の中でアウトソーシングして益々自らの存在価値を貶めるだけだと気がついていないのだろうか。匠の心をもつ先輩エンジニアの多くは、そうした会社の枠からこぼれていってしまったように見える。

私が生意気盛りの頃に、主任という人事昇格研修というものに出会った。この時の指導員としてめぐり合った大先輩のエンジニアの方の光り輝く姿を心に強く刻んでいる。会社の方針一つで示された、全く新たな商品開発をいくつも立ち上げた方であり米国のコンピュータメーカーのオンライン端末と互換性の取れる機器開発の話などをお聞きした時には関連するドキュメントのみを紐解き、実際に物を解析して作り上げていくということが、まるで手にとるように見えてきて強いインパクトを受けた記憶がある。実はこの主任研修の指導員という方達も同様に上級の資格に達するための必須研修のような位置付けで指導員ということを行うのだということは後で知ったことだったのだが、技術一本で人生をやっていこうという生意気な盛りを過ごしていた私にとって厭な思い出もこの時期にあったのである。Cコンパイラ開発の実用化により、瞬間ではあるのかも知れないのだが競合メーカーの先を行ったという感触が自身にはあった。ところがそうしたことを快く思わない先輩社員の妬みやらにより、この会社で仕事をしていくことに少し悩みを持っていたのである。

技術研修というテーマも昇格研修の一つであり、Cコンパイラ開発を果たして、専用バーコードリーダ端末の事業化や無線通信端末のリアルタイムOSによるC言語化システム開発という命題に続くものとして取り上げたテーマは「超高速BASICインタプリタの開発」であった。バーコードリーダ端末の業界からの要望でもあり、BASIC言語での開発を可能にすることでユーザー対応力を更に広げようという意味もあった。とはいえ雨後の竹の子のように広まっているMSBASICの落とし子のようなものは作りたくも無かった。開発が容易で、サイズはコンパクトで高速動作が出来るというのが私の考えるBASICであった。パッシブインタプリタというある意味で世界初の概念ともいえる現在でいえばJazzeleのような代物である。これを8ビットマイコンの上にともかく実装したのである。そうしたことを続けていくことにこの会社の度量はあるのだろうかというのが当時の私のおぼろげに思っていた悩みであった。そんな気持ちを払拭してくれたのは光り輝く先輩技術者による指導を受けたことで精神的な安らぎを覚えたのである。

そんな昇格研修の中で出来上がった技術がしかし、会社としてフォーカスされることはなく自分自身としては当時申請した特許が有益な未来をもたらしてくれていると信じていたのだが、理解されることも無く特許申請が半ばで打ち切られていたことを知ったのは転職した後であった。無事昇格を果たしたのだから良いのではないかというような声が聞こえてきそうなのが、技術者としては許せない会社の風土でもある。泥臭く汗をかき失敗を重ねて改善を積み重ねてというのが会社の本質だったのかも知れない。スムーズに開発が行われてしまった場合には誰も評価もしないのであり、馬鹿なシステム設計をして苦労をして完成させると評価されたりするのである。こうした風土が、そのまま子会社であるところのソフトウェア会社の評価システムを間違った形にしていったのではないかとも思っている。技術者の仕事を残業のみで推し量ったり、仕事が出来る人にばかり仕事が集中したりすることをチームとしての責任として納得させたりという流れは昭和の時代で終るべき所業だったろう。

平成を迎えて、苦労しないで完成度高いものを作り上げていく方法論としてオブジェクト指向の技術などを取り上げて実際に評価したりもしてきたものの、もう最前線での仕事をさせてもらえなくなりフリーランスになった技術者のY君の気持ちがわかるようになったのは40代に差し掛かかるころだった。悩むことを共有したいと考えてコラム誌を発行したりして同様な意識を持つ若手の発掘や指導をしていきたいと思ったのだが昭和の毒気が蔓延しているからなのか、そんなコラム誌の中に希望を見出して会社内の転属希望をして異動してきた人材と出会ったのは退職してからのことだったりもするのであった。プラットホームの有用性を説き、開発を実践してきたものの昭和の毒が蔓延した会社の風土との戦いに対抗してきた錦の御旗が終わりを告げると、そうした幕を引かざるを得なくなったのである。

自身を納得させつつ、昭和の毒と対抗する次の最終兵器であると捉えるCMMなどの活動をあてがわれつつも強制力を持たない真綿で首を締めるような仕事をしつつも、技術追求としての開発方法論の伝道者でありたいという活動もあわせて実践してきたつもりである。そんな中で出会った筑波の友がいる。筑波の研究所で開発されたオブジェクト指向による究極のオブジェクト指向部品によるアプリケーションクリエイターによるソフトウェア開発というある意味での究極の姿でもある。日々システム開発や端末開発に悩める仲間をなだめすかしてこうした技術に触れさせることで発奮をしてもらいたい、そして無理難題をふっかけてもらいたいというのが私の期待する方向なのである。何故か現実論に埋没してしまい、夢に目を輝かせるという展開にまでは至らなかったのは私の不徳の致すところなのだろう。会社の方向性は将来のケータイ開発の闇と売れ行きの止まらないケータイ生産の両面で破綻への軋みと最高益達成で浮かれるそんな時代の中で潮流に呑み込まれつつあった。

まあそんな状況で夢を実現する場所として、転職を選択して五年ほど暮らしてきたのであるが、当初計画である五年間で自分の居場所を確立して自分のやりたいことを実践できるようにするということだった。まあ、なんとかそうしたこと考えて暮らしつつ自身の方向性を校正する意味でこうした独り言を書き連ねても居るわけである。懇親会の席上で意識が迸ったのは、「次の五年あるいは十年というスパンで将来どんな形でソフトウェア開発あるいは商品開発をしたいのか夢を描けているのか」というくだりだった。実は、漠然として自分自身でも掴みきれないでいた次のテーマにたどり着いた気がしたのである。究極のソフトウェア開発とは、使用者自身に開発してもらうことであるということを以前H君に拙著のCコンパイラ顛末記の感想として言われたのだが、オブジェクト指向の究極の姿としてユーザー自身が必要とする機能部品を雑誌などの紹介記事などから選択してケータイショップで店員と話をしながら組み上げてハードやケースを合わせて選びダウンロードする・・・そんな「Oh!DoDa」みたいな雑誌が出るような時代を考えるような夢をもってみないかとメッセージを訴えた。議論を続けるには、閉店の時間となってしまったようだ。つづきは表題のような「オブジェクト指向deないと」といった勉強会を熱海の増床を重ねたような旅館でやるしかないのだろうか。皆の反論や意見を是非お聞きしたいものである。

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