ピンポンのようにめまぐるしく活動している会社の中で限られたリソースで行う仕事の今年の実情については、ちょっとイメージはしていたものの実際の現場ではなかなか大変である。解決するには、リソースの追加と開発アイテムの無駄の削除ということにもなり、解決するために更に忙しさを助長するというのも仕方が無いといえる。魔法使いを探しているわけではないのだが、ごく普通の感性の組み込みソフトウェアエンジニアとしてサンディエゴとお客様の間に立ち明るく解決にまい進してくれる前向きな人物を探しているだけなのだ。当然多岐にわたる携帯電話のソフトウェアの全てに対応可能なスーパーマンなどを求むるべくもないし、バリバリと開発管理を推進しているような現在の携帯端末メーカーのキーマンを引き抜くつもりもない。以前までは重要視されてきた3G開発でのプロトコル開発の経験や知識は最近ではあまり重要とはいえなくなってきた。多年の会社としての蓄積がブラックボックスとしての完成度を高めてきたこともあり、携帯電話開発の上での重要な事は、端末としての魅力となるソフトウエア開発全体になってきた。
端末のレファレンスデザインとして提供する内容自体が、プロトコルソフトウェア屋あるいはベースバンドチップセット屋といった集大成でかつ世界各地での相互接続性試験などをクリアしてきたというのも当たり前となっている。いまではその提供されるチップセットやソフトウェアを使って、そのまま作れるソリューション提供が求められているというようだ。端末メーカーが何をするのかといえば、端末の企画を策定してコストの合うデザインハウスを選択して、最終価格がクリアできるチップセットを選択する。無論チップセットの選択の条件には、それを使って作りうるアプリケーションの全貌が見えていて対応するベンダーでの開発が容易なことも視野に入っているだろう。昨今の中国市場に向けた開発においては、機能も価格も厳しい条件が課せられて開発主体となるデザインハウスやソフトウェアベンダーも勢い中国やインドといった地域のリソースを使わざるを得ないというのも実情といえるようだ。
国内向けの端末開発でさえ、そうした傾向は色濃くなってきておりお客様のオフィスを訪ねるとアジアの仲間達が一緒に働いている姿を目にするし、またそうした仲間が窓口となって実際の開発の多くが彼らの自国で行われているようでもあるらしい。国内のサポートとはいえ、関西地区のオフィスに詰めながら、コンタクトしているお客様とは彼らの日本語や私の英語やらを通しての相互理解を高めていくことになっている。大阪事務所の近くには、割とお奨めのインド料理店があり、ここのカレーは日本向けにカスタマイズされているとはいえ、サンディエゴの仲間のインド人達にも評判の良いお奨めの店である。高くもないしやはり大阪は食い倒れの町ということの表れでもあるようだ。今年になってから、ソフトウェアハウスとの直接的なサポートを要求されるような事態が増えてきたのもチップセットビジネスのサポート形態の変容が理由に挙げられるのだろう。とはいえ、ライセンスビジネスの観点からデザインハウスやソフトウェアハウスを対象にサポートをしていくということにはQuad社自身のビジネスモデルの変革が求められてもいる。
忙しいお客様の中には、直接海外のソフトウェアハウスに出張して打ち合わせや開発を進められている方もいらっしゃるので、コンタクトを取ろうとしても電話では難しいことにも直面する。西海岸に行かれている方もいれば、インドに行かれているひとや、中国に行かれているひとなど多彩である。サポートという仕事柄、お客様とのソフトウェアハウスの間に立っての打ち合わせということもよくあることであり、先行して開発検討をソフトウェアハウスと進めている戦略的な取り組みもあれば、お客様主導の中で急遽発生するものもある。ダイナミックに仕事がアサインされていく中で暮らしていくと場所や時間をワープせざるを得ない事態となる。火曜の昼からソフトウェアハウスで新しいプラットホームについての技術説明会をしてほしいと決まったのは先週の木曜のことだった。ビジネス開発のVPが米国で決めたことのフォローとして急展開となったのである。無論、関連する幾つかのお客様との仕事にも関連していることでもありタイムリーであるといえば確かに正しかった。
もとより大阪地区のお客様のサポートが増加していく中で、大阪事務所を開設したりしてきたものの実際の担い手となるサポートエンジニアのリソースを追加しなければ手が回らなくなるのは必定であった。サンディエゴからの承認を得てからの対応として候補者を募って面接を続けているのもそうした背景に則っている。先週も大阪に来ていたのだったが、その際にKさんというエンジニアのことを大阪事務所で一人でサポートをしている仲間と例のカレー屋でランチを食べつつ、プラットホーム談義と開発支援の方向性の変化などからアプリ指向のエンジニアを関西地区で探しているという話をしたのがきっかけだった。日本語で記述された技術マニュアルが出版されたこともありプラットホームとしての評価が高まってきたのも事実らしい。このKさんはフリーランスという立場でメーカーに出入りしているソフトハウスの中核リーダーという職責で契約を結びつつコアな開発を続けてきていたということだった。紹介してくれた彼自身も同じメーカーでの開発を担ってきたこともありKさんのスキルや人柄についても折り紙が付いていた。東京事務所にもやはり、Kさんに更に折り紙をつけてくれた仲間がいたようである。
毎週大阪に来ている状況でも合ったので火曜日の夜に面接というよりもこちらの話をするということで食事をすることにして、仲間にアレンジしてもらっていた。そんな間隙を縫って都内のソフトハウスに二時間ほどの技術説明会を行うなどといわれても、キーマンとなるエンジニアのリソースをもらって窓口としての顔つなぎと責任者という立場で参加して、その足で大阪にいくことになった。翌週にはお客様とサンディエゴでの実践サポートを支援するという予定もあったのでいく前の事前確認という意味もあった。次々と埋まっていくスケジュールには、中国のデザインハウスとの協業で物づくりをしていくというお客様の関係者を集めてのキックオフミーティングを週末の金曜日には行うことが決まり、スケジュールには移動ばかりが記述される日程となっていた。気が付けば会社に戻る時間もないので、大阪に行くときに北京とサンディエゴ行きの航空券を受け取っていかなければならなかった。セクレタリーの方にスケジュールを説明はしていたものの火曜日の午後に渡せば良いと思っていたらしく昼一番からのソフトハウスへの出張の時には叶わなかった。
ソフトウェアハウスの方々にとっては、開発効率を最大限にしていくためにも、彼らの製品であるソフトウェアあるいはミドルウェアの移植などの環境を出来るだけ合わせたいという思いもあり、技術説明会での興味や質問が集中しているのはそうした点に他ならなかった。先進の開発をしているお客様もいれば、スケジュール優先で走らなければならないお客様もいて機能や構成管理といった側面からは異なったアプローチを取らざるを得ないというのも実情であった。互いの歩み寄れる内容を理解しあうということもこうした技術説明会の目的でもあった。技術説明会が終わると、一旦オフィスにもどりチケット類を確認して入手したうえで新幹線に急行する。新幹線の移動時間に設定されていたのは電話会議であり、お客様とソフトウェアハウスとの三社での大枠の技術課題について確認を説明会の内容に基づいて行うというもので新幹線のデッキでずっと立ち続けるというものとなった。お客様窓口という責任からは致し方ないものであるのだろう。幸いCDMA2000のシステムの稼動状況は安定で新幹線での三島あたりから始まった会議の間にリンクが切れたのは三回ほどだった。お客様とソフトハウスの電話会議に参加していると互いの気持ちがそれぞれ透けて見えてきた。予定では一時間半あまりの会議が延長をして終わった頃には新大阪に到着してしまった。
常宿にしているホテルに荷物をチェックインしてから、シャトルバスで大阪駅に向かい、予約していた自然食を売り物にしている居酒屋を目指した。仲間とKさんと落ち合い、コース料理を食しつつ我々の仕事の変遷とこれからの方向性について説明した。また彼のやってきた仕事へ思いなどもいろいろと経験談を聞きつつ仲間の話で聞いていた内容と併せつつ我々の期待値と共に彼が期待するこれからの仕事の相似性について感じ取ることが出来た。既にQuad社のコードにも明るいKさんは現在ホットになっているほかのお客様での仕事経験もあったりさまざまなことを経つつ今では組み込みプラットホームでのソフトウェア屋として自立する方向性などを模索していたようだ。東京で開かれる有料の技術セミナーにも足を運ぶ予定だったらしい。前向きなKさんの仕事ぶりや意識を確認しつつもいつものように足枷となるのは、英語での技術面接になるようだった。専門分野が多岐に亘る携帯電話端末開発の上で、候補者の面接をする上では対応する分野のエンジニアとの直接の技術面接とサポートを一緒にしていく米国サイドの仲間とを交えてのテレビ電話での面接である。
Kさんの場合には、東京地区での技術セミナーに上京するという話も聞いたので、その際に設定したいのだがいかがだろうかという切り口で話をしたところ、急な話にも拘らずに挑戦しますといった話になったので、かなりの真剣度であることも伺えた。着実に面接の実りを上げたいということもあり、来月の機会にすることを提案した。アプリケーション指向のエンジニアを増員していくということについては、チップ支援のみならず、プラットホーム支援の立場でも不足しているのが実情で急浮上してきた電話機ソフトウェア開発スタイルの変革に呼応した支援体制の上でも双方ともに所要の人材を募集をしかけている。五年前に会社を移るときに、こちらの会社のVPに提案した姿に近づいてきたともいえる。アプリケーション開発の支援という切り口の仕事をチップサプライヤーが進めていることの是非について疑う人は、既にいない。こうした目的に適う積極的な自らが行動をしていくという姿のエンジニアが求められているのである。次に要求されることは何なのか理解して先手を打って確認していくという姿を期待しているのだ。
翌水曜日は、米国との電話会議もあり大阪事務所で仕事を進めて、午後になって評価用端末を触って性能を確認したいというお客さまが居たので事務所に招いて確認をしていただいた。端末としての細部にわたった細かい仕上げといった視点で気にかかることが多いのがメーカーの技術屋さんだろうし、ソリューション提示をする立場では必要な技術を示す最小限の内容だったりすることもあり必ずしも彼らが期待する項目を確認は出来なかったのだが、すぐに担当する仲間とコンタクトをとり必要な手立てをとり、回答を差し上げて次のステップに繋がるように進めた。音や映像という観点でいえば、まずはFOMAの端末との映像系やプロトコルが繋がれば大きな成果なのだろう。そういえば横須賀でも同様な場面があったと思い返していた。持ち込んだテスト項目については一通り確認が出来てお客さまが帰ったのは予定時刻を大分まわっていた。帰りの新幹線を目指して新大阪に急行して、コンセント付きののぞみを確保して仕事をしつつ自宅についたのは11時を回っていた。
翌日の朝一の成田エキスプレスの時間を確認して、必要な着替えを二日分だけ入れ替えた。荷物は大阪に行くのも北京に行くのも違いはない。新幹線の回数券の代わりに、航空券とNEXの特急券が渡されていた。トレードマークの帽子を被れば昆虫採集のおじさんと変身してしまう。今回はキックオフのミーティングでもありバグ取りではないので帽子は被らないことにした。木曜日の10時の飛行機にのるというオプションには自宅は五時起きとなり、うつろな細君の指示確認を聞いてから自らの食事の算段だけを終えてタクシーで横浜に急行した。早朝の道路はすいているかと思いきや、既にビジネストラックがどんどん走っていた。北京との時差は一時間、所要時間は三時間半ということで昔の福山までの新幹線の出張と大差ないはずなのだが、午後三時のミーティングに出るために実際に必要なオフセットはかなりのものとなった。距離の短い北京までのフライトは、会社規定ではビジネスクラスにならない自らのマイレッジや入手したアップグレードクーポンが使えるかという午前中に使えるノースウェストの便は無かった。
日本列島を横断して韓国を越えて北京に入る、到着した北京国際空港の空からの印象は埃っぽい感じのスモッグに覆われている郊外だった。簡体字で表記されたサインと韓国メーカーなどの広告が目に付いた。乗ってきた外国人の足元を見ての白タクが沢山寄ってきているようで、仲間と合流しようとしていると既に白タクのおっさんが行き先のホテルなどを聞きだそうとしているようだった。元への両替などを終えてタクシーに乗り込む段で、やはりまともなタクシーに乗るべしというインフォメーションのお姉さんの意見を聞きいれてきっぱりとポン引きをあしらいつつ長い長い待ち行列の最後尾に連なった。北京のタクシーはほとんどが日本車ではないようで、見た目には綺麗な車が走っているようで昔、マニラで見たような日本のタクシーの中古車両がそのまま走っているということではないようで安心はしたのだった。我々の番で配給されたタクシーはおばさんの運転する赤いタクシーだった。三人の荷物を積み込み、行き先を告げようとするのだが英語で書いてもホテルの名前がわからないようだ。CHINA WORLD HOTELと聞いていたので「中国世界大飯店」かと思っていたらこれを書いてもこんなホテルは無いといわれた。メールでもらっていたCONFIRMATIONでは英語表記しかないので途方にくれていたが、ホテルのフロントにGSM携帯で電話をして運転手と話をしてもらい解決をみた。
空港からホテルまでは高速道路をとばせば、すぐに着くはずだったのだが二時間近くを費やしてしまった。メイ グァン シー「大丈夫」と言っていた伯母ちゃんの車はオーバーヒートの様子でエンコしてしまった。エアコンを切ってもらいだましだまし走ってもらおうとしたのだが、1回休むと走れる距離は400mほどでグリコのような状況だった。高速道路の追い越し車線をこんな調子で走っているのだから迷惑この上ない。ようやく右端の車線に移動してエンコしていると国際救助隊ならぬパトカーが来たのだが運転手に文句だけをさんざんたれて何もなさずにいってしまった。結局高速出口までなんとかたどり着いて路肩に止めて、救助隊を待ち受けることになった。フレッシュな濃密な排気ガスにあふれる北京のエネルギッシュな風景の中に異邦人として取り残されてしまっていた。現地で初めて覚えたメイ グァン シーは、象徴的な事件となった。しばらくしてタクシー会社の車両修理担当のお兄さんと思しき車がやってきてオバサンからお兄さんに行き先を伝えられて乗り換えることになった。残りの料金はこのくらいになるからと100元支払うことになってしまった。白タクにのってきたほうがよっぽど良かったかも知れない。
信号のまだ設置箇所の少ない北京の町では、昔のマニラの市街のように車が縦横無尽に気合を入れて走っている場所もあるようだ。マニラで事故の多いのはむしろ交通信号の設置してあるところだというのが、四半世紀前の話でもあった。国産車という名目で走っているタクシーなどの車の多くは欧州の車両なのだが排気ガス規制などどこ吹く風であり、国威発揚で所得倍増計画を地でいっているような状況でスモッグが定常化しているようだった。そんな状況を通過して到着したシャングリラチェーンというCHINA WORLD HOTEL「中国大飯店」は、立派なホテルだった。むしろ国内のGrand Hyattよりも立派に映る。午後三時からの社内会議には大遅刻となってしまったが、みなヘロヘロだったのでシャワータイムを置いてから集まり中国オフィスに向かうことにした。このホテルの近くにあるらしい中国オフィスは徒歩で10分ほどということだったのだが、例の横文字と漢字のギャップも手伝い地図の読めない三人組としてホテルの前でさすらったりしていた。3Dで書かれていたホテルの地図の意味がようやく解けてからなんとかオフィスのあるビルにたどり着いた。ツインタワーのビルには一階にStarbacsもある、竣工まもない印象のビルだった。この北タワーの26階と27階の2フロアを使っている立派なオフィスだった。広いオフィスは整理が行き届きサンディエゴのオフィスよりも洗練されている印象だった。
出迎えてくれた中国オフィスのサポート責任者は、女性でありまたハードウェアのサポートエンジニアも女性だった。男女の雇用機会均等ということばが恥ずかしいくらいに対等にきびきびと働いているというのが中国でのエンジニアたちの印象でもある。新しいビジネスモデルの始まりでもある、今回の中国のデザインハウスを交えたお客様の製品開発というスタイルの重要性を全員で正しく認識しつつ、お客様たちとのキックオフミーティングにそなえて自分達の理解を一致させるための会議を続けた。サンディエゴから発せられた技術パッケージを的確にお客様に移転展開していくために必要なサポートをしているということに中国も日本も違いはない。日本よりも並外れたお客様が登場し始めているというのが中国市場のお客様なのかもしれない。基地局ベンダーである、あるお客様が自社のネットワーク調整評価用にQuad社の端末ライセンスを導入して自社評価端末を起こしていたのだが、この会社が端末を発売はじめるという情報を中国オフィスから聞かされたのである。中国全体がODMやOEMに走っているというのが伺える。これらを利用したいと考えているのは日本のメーカーであり、果たして組み込み王国といった日本の意義はどこに行ってしまうのだろうか。
中国のソフトウェアサポートエンジニアのXくんは、入社当時に米国へのVisaが取得できない状況だったため研修を日本に来て行ったという経験をもっていて、我々もそんな彼とのつながりを持ち中国オフィスとの連携は強いものがあった。しかし実際に互いに訪問して共同の仕事として開始するのは今回が始めてだった。大阪地区での厳しいフィールドテストは、彼にとっての本当に実質の実のある研修だったともいえるだろう。インド人やエチオピア人の仲間達と学んだ日本でのフィールドテストを経験した彼が、中国の地でフィールドテストを進めるのは造作の無いことでもあるだろう。久々の再会を祝す意味もあり、北京ダックの店を予約しようとしてくれたのだが、店に連絡をしても溢れていて来なければ席など用意できないというものだったらしい。一旦ホテルに戻りつつ食事に行くことにしたのだが、先ほど彷徨っていたルートも地下街で繋がったホテルや建物の中を進んで息ほどなくホテルにたどり着いた。地下街の規模は日本の規模を凌いでいるところもあるようだった。タクシーで実際に店までいくと待ち行列に100人あまりがいる有様で、別の店に移動してことなきをえた。食事を終えて見上げた夜の北京の街は、ネオンがつき、自転車で行き交う人たちや、排気ガスを撒き散らしつつ走っているタクシーなど活気に溢れていることは確かだった。
翌金曜日、日本のお客様と中国のデザインハウスと中国オフィスと日本オフィスの面々を一同に会してのキックオフ会議は、デザインハウスの会議室で行われた。30名あまりが集ったなかで英語と日本語と中国語が入り混じりつつ、やはりやりとりがホットになると中国語同士での会話となったりするし、互いに通訳を交えつつ英語と中国語を訳しつつ説明するひとや、日本語と中国語を訳しつつ説明するひとなどがごった返して、互いの責任範囲などについての項目を決めることがようやっと完遂したという印象だった。最近の二年余りに急成長しているデザインハウスということだったが、プラットホーム別に事業部を興して受注をして社内での互いの競争もさせているということで会社の雰囲気は、明るく活発な印象があった。2Gまでの端末開発ではGCFテストまでも全て一環して行っているということでもあり、3G端末の開発という新たなチャレンジを通じて、こうしたデザインハウスの位置づけは重要なものに変わっていくのだろうとCEOの方のオーラも感じた。大きな回転式テーブルでの会食で、ターンテーブルに全員がグラスを当てて行うという中国式の合理的な乾杯をしつつ、また今からの一年の展開が大きく踏み出してしまったことに驚きを覚えていた。
ホテルに戻り、久々に北京でいまは所長をされている先輩と電話で長話をすることが出来た。中国の技術者の積極性は、米国的な管理に近い業績管理と一年毎の契約更新といった背景があるということなどを教えてもらった。また、先輩の会社も含めて携帯電話業界の中国での繋がりは密接で誰が辞めて、どこに異動したなど筒抜けだというのである。成果を出せないことで契約更新をしないということを示すと、成果を出せないような仕事ばかりを与えてくるというような文句をいう人もいるらしい。そして出身大学にそうしたことを告げるがよいのかというように脅す人までもいるらしい。日本とも米国とも違う中国の姿がそこにはあるようだ。国の方針として雇用を少し保証しようという動きなどが背景にはあるようだ。いろいろな環境の中で会社としての成果を上げていくということが、各人の成果の集大成であるべきなのだが、中々思い通りにはいかないということだろう。国際化を果たしつつある知己たちの会社のように国際分業の成果を収めつつある状況と、複雑化して破綻してしまったソフトウェア構造などの刷新が求められつつも、直近の成果を出し続けなければならない背景などについては、ゆったりと互いに食事を挟みつつ話をしたいものだと思う。
土曜日の早朝に今度は、少し高いレートの黒塗りのタクシーを使ってホテルから北京空港に急行した。五時半起きで六時には空港行きのタクシーの車中にいるという状況である。このタクシーでは150元を取られたので、赤タクシーのオバサンのレートは、まだ良心的だったかもしれない。まあ高い料金表示のタクシーは冷房も効いていて、エンコする危険性も低いというのが、北京の実情なのかもしれない。価格やサービスで競争している日本の実情とは異なっていて価格なりのサービスをユーザーが選んで乗るというのが北京での姿のようだった。最低ラインとしての機能条件というものが、中国にはないようで競争というのはお客を奪い合うという意味以外には見当たらないようだ。乗せるお客側に現地の言葉を要求するのも、アンバランスな限りだと私達には映るのだが彼らがどのように感じているのかどうかは不明だ。ホテルの国際化という点からは英語表記のすばらしいホームページがあるもののタクシーに乗ってくるには中国語の表記がないと辿りつけないという矛盾などについては思い至っていないのかもしれない。
今年勃発する中国語圏でのデザインハウスによるソフトウェア設計開発というスタイルが呼び起こすものという範囲では、こころしてかからないと済まない問題が出てくる可能性がある。メイ グァン シーを連発しがちな中で始まる仕事の実情を見極めつつ次の策をいかに手を打っていく、開発現場との仕事を通じて、次の時代に要求されてくるものを嗅ぎ取っていくことが求められている。そんなことを考えて手を打つべくと思ってはいるもつかの間、日曜の朝成田エキスプレスに乗り込んでいる自分がいる。毎日起こっていることの報告もままならないうちに次の日程が入ってピンポンの玉のようにコートの間を打ち返されているような気になってしまっている。どこでもオフィスという状況を支えてくれているGPRSのインフラなどは北京空港やロサンゼルス空港でも役に立っているし、最近増えてきた無線LANのアクセスポイントの有料サービスなども活用していける。事を起こしつつコミュニケーションも併せて図っていくということが必要なスタイルとなっている。続けていくこと着実にやり遂げていくことの日常を積み重ねていくことでカバー出来ると信じてはいるのだが、広がりゆく世界がカバー出来るのかどうかは課題である。