VOL31 クローズソースの共有part2 発行2000/07/30

週末の金曜日、ひさかたぶりに、前の会社を訪問した。今は溜池テレグラムで見た目羽振りのよい会社である。訪問理由はあるシテム製品の開発20周年記念というタイトルが冠された会合である。20年前に着手して初めての自動車電話交換機と自動車電話基地局と自動車電話端末を独自のプロトコルで一式をフルスクラッチかつフルターンキーで新規開発し納めるという、暴挙をやってのけたベンチャー精神華やかなりしころの成果であった。アナログ時代だったとはいえ、ここまでのシステムを構築できたのは底知れない開発力の証だったといえよう。
 
業界のだれもが、できないと口々に否定した新方式の呼処理分散トランク型交換機は、ある意味現在のレイヤー3スイッチングを実践していたような概念である。巧みの技の集大成がそこにはあった。いくばくかのお手伝いを果たしたこのシステム開発であり、雨降りしきる中仕事の調整をつけて夕刻の宴会にかけつけた。大規模システム開発を経験したことが、以降のこの会社あるいは事業部での肥やしとなり現在のワイドなどの開発に繋がっているのだ。実際そうなのだろうと思う。当時、こうした新概念の交換機を提唱し5000台容量のシステムをいくつも納入できたのは、その開発の過程にあるさまざまな仕組みや実践ということが大きく会社の土台につながたのだろうと思う。そんな感慨を歓談をしつつおもった。
 
私はといえば、そうした想いあるいは志自体は持ちつづけているものの昨今の開発の流れや業界でのリーダーシップの流れとは離れて振り回されている感のある事業部にダウトを宣言して直訴切腹を申し出て早期退職を果たして外部からの支援活動を標榜している。歓談を交わす中でここに来られていたかたがたにはまだ匠の心を忘れずに座右の銘にしておられることを再認識した。そうした20年前の成果は、次世代の若手技術者に伝わったのだろうか。プロジェクト毎に終焉してファイル化してしまうなかでそうしたノウハウや経験は共有できないように感じた。
 
実は、この会合の前に最近まで深く支援していた会社を訪ねてその会社で進めていた開発の総括について意見をのべてほしいという依頼に対応していた。営業的な経緯があり、その会社の製品開発に深く対応してきたのだったが、その会社の方針として人材をまったくアサインせずに着手してしまったのが結局のところ最後の製品の仕上げという段階で脆さを露呈して完成度の改善に手の出しようがないという状況となった。交換機の開発ほどではないにしても現代の携帯電話の端末開発においては多方面な開発成果の集大成であるQUAD社のチップセットとソフトウェアを高額なライセンスの対価として私たちはお客様へのそうした技術移転を支援するというのが仕事の基本なのである。
 
移転する先の担当者が不在のままで製品化の完成度など高まるはずがなかった。携帯電話という製品を開発する以上またその上で無線制御をカスタマイズしたいという想いがある限りは無線システムのタイミングを管理する技術者が必要なのである。我々が提供する範疇であれば、そのまま利用するという選択肢は存在するのだろうが・・・・・・。この会社としての課題ではなく、このプロジェクトの推進体制の問題として認識している。携帯電話を多く開発している会社ではあり、問題をおこした開発チームをみる他のチームが新たに次の機種開発に向けて組織されようとする中で現状分析をしたいというのが、その日の主題でもあった。日本の携帯を支えるUIの高機能化と無線制御の双方は実は大きく互いに作用しあって製品力を大きく作用している。極限の無線制御と管理されたアプリケーション稼動制御とが現在までの姿である。
 
ARM7クラスのマイコンひとつでよくやるという感想も聞こえてくる。数少ない技術者体制でもそうした制御ノウハウを積んだ会社はあとから短期日に製品化を成し遂げたのである。どんなに優れたソフトを利用しようとも、そのソフトを理解できずに製品化を高度な次元で成し遂げることはできないのだと感じた。
 
ソースには長年のQUAD社のドライバ開発の歴史が残っており私もその歴史の中に改善を刻みつつ仕事を進めてきた。プロトコルや複雑化するUIへの対応なども同様である。こうした基礎技術の受け皿となる組織が構成できている会社の仕事はキビキビと進んでいる。過去の互換性をすてさるようなことは私たちはしないからだ。チップの歴史だけ無線ドライバにも歴史があり、いまでも過去のチップが複数に分かれていたことを髣髴させるラベル付けなどが見られる。このラベルを変更する必要はないのだがソースを見ていると過去の設計者の想いやチップ機能の変遷などが見えてくる。
 
この開発は1985に会社創立して始まったというソースのコメント履歴にも80年代の日付がある先の自動車電話システム開発の5年後の話である。先の自動車電話システムの開発という偉業の達成だったのだが、懐古の念よりは回顧の想いで伝承していくことの必要を痛感する。米国にの乗り込みグローバルな体制で現地の会社と取り組もうとした開発は、初芝にとっても先進の取り組みであったし、もし続けていたならば思い悩む姿も変わっていたのではないかと思われる。今、日常として共有のクローズソースをベースにオープンな指導や質問を英語で進めていることはひとつの答えだとは理解している。

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