業界独り言 VOL328 突然やってくるのは仕事も訃報も

例年のことだが、九月から十月にかけては年度末のイベントで米国本社に行くことが通年行事のようになっていた。既に八年目に入った状況の中で唯一、九月に国内にいたのは正確には米国に行けなかったのは9.11の事件の当日のことでもあった。不幸な事件の只中で、あの映画のようなシーンを明日の朝行くはずの国だとは到底信じられない面持ちとともに徹夜をしてまでも出張準備を進めていた自分の抱えている方向転換に気づかせるまでも時間を要した。会社母体が大きくなってきたことから年度末のイベントに世界中のオフィスから呼び寄せるということを変更する必要にも迫られてきたからだ。そんな中ではあったが新しい挑戦を始めたキャリアの対応で急遽米国にいくことになったりするのはいつも唐突に始まることであった。

MNP目前で俄然力が入っている キャリアのサポートも佳境であり個人的にも仕事的にも忙しく過ごしていた。九月の中旬から二週間ほど米国で仕事をする羽目になったのもそうした状況からである。最近専念しているサポート分野での競争は先端での尖がった部分でもあり、お客様にとっても社内での扱いにとってもいろいろと疲れるような状況になってしまうのはいたし方ないことでもあった。米国出張中に妹からの連絡があり、ケアハウス暮らしをしている父が発熱したということで検査入院をしているということだった。ケアハウスで二人の妹が働いていることもあり父自身は幸福な老後を暮らしているといえるのだと思う。母は妹に家で暮らしており、父のケアハウスとも近接しているのだが認知症が進んだ夫のところへいくことも最近は減っているようで、いわゆる引きこもり状態だという。

渡航前に誕生日の花の手配をしたのは、通年どおりなのだが、今年は急な展開にはならずに予定通り帰国することが出来、九月末の細君の誕生日という大切な日程を日本で過ごす事になったのも久しぶりであり有意義なことでもあった。あいにくと今年手配した生花については花の品質に問題があり、花自体が三日と持たない状況だったことから、この通信販売をしているショップの評価を著しく下げる事態と相成った。プリザーブドフラワーにしなかったことが失敗だったのかも知れないが現物を見ないで生花注文をするということを運営しているお店としてはいかがなものかと思うのだった。花の品質にもまして、誕生日の花として注文したところ余計なオプションとして電子オルゴールが花の箱についてきた。このオルゴールが玄関先を通る都度に反応して鳴ってしまうことも細君には余計な負担だったようだ。花の品質とサービスとしての余計なことが相乗効果となって、すっかり細君にとってのショップのブランド価値は地に落ちてしまったようだ。こんな形でブランド価値は失ってしまうものかも知れない。注意しよう。バースデーケーキを買い求めて帰ってきても不満をきかされるのは私の落ち度ということでもある。

週末の土曜には、入院している父を訪ねる目的で、まずは妹の家の母に挨拶に出かけた。横浜の郊外で暮らしている妹たちは同じ教団の住宅に今は住んでいて家も数軒離れる程度の距離だった。また、妹二人が働いている勤務先でもあり父の入っているケアハウスもそこに隣接しているという住宅環境だった。とはいえ、駅からはちょっと離れた場所で車で出かけるのでなければ不便な場所だった。最寄の駅からタクシーで行くことになるのだが、いつも昼食の材料をしこたま仕入れてから叔父さんとして訪問するというスタイルだった。いつもなら山盛りの天麩羅を奮発してもっていくのだが、今回は二週間の米国暮らしで体調が米国バランスになっていたこともあり寿司と茶菓に切り替えていた。台湾や米国の出張した際の写真をもらったばかりのiPodで見せたりすることでいつもは引きこもりで軽い認知症でもある母もいつもとは違う息子との会話などで少し頭がまわっているようだった。

ぐずっていつもは引きこもってしまう母を病院に連れ出すことに成功したのは、少なくとも私が来たことの意義があったということだろう。もっと挨拶にくることを心がけなければならないと思うしだいでもあった。妹の心配は、しばらく病院で点滴で暮らしている父が、口から食事が出来なくなるのではないかということだった。そうしたことの相談も翌週には先生と面談する予定だと聞かされた。口で食べれなくなったら人間ある意味で生かされているという状況に他ならないと思うのは私だけではなく、家族全体の意識だったようで、母からの意見は延命治療という言葉で括られて、それは父も望まないだろうということだった。子供たちがさしはさむ余地もないだろうと思うのである。歩くのには杖か車椅子が必要な母なのだが、最近は外に出ていなかったようで妹は車椅子の心配もしていたのだが、気合が入ったのか歩いていくということになった。

妹の家のブロックからはひとつ山を裏にまわったところに病院は位置していて、妹の運転で三人で病院に向かった。土曜日の面会は三時過ぎでないと受付がはじまらないのである。車を病院近くのショッピングモールに停めて、其の中の喧騒を歩いていくのだが、足が不自由だとはいえ気合をいれてついてくる母の姿をみて少し安心したのは私だけではなかったと思う。バスターミナルでもある団地の真ん中に位置しているモールと隣接している病院は健康な人ならばほどない距離ではあるが、階段があったりする構成を考えるとどのルートでいけばエレベータがあるかとか、歩きやすいかなどと考えを巡らすことが必要なのはケアのプロである妹の範疇でカバーされていた。私の役割といえば、母の気合が続くように話しかけたりすることだった。活性化する酵素のようなものである。

敬老の日に発熱で検査入院してから一ヶ月足らずではあったものの、久しぶりにみる父は点滴ですっかり手足がむくんでしまっていた。それでも子供や細君が来てくれたことについては認識してくれたようで、私と妹は父の足を揉み解すことに勤しんだ。母は、父に感極まったような形で話しかけていた。傍目からも身内からみてもなかむつまじい父母であったが父がケアハウスに入ってからは、こんな母の姿は見たことがなかったように思う。途中で看護婦が来て点滴の注射を取り替えようとしたときに細くなった父の腕をみて胸がいたくなった。血管がすっかり細くなってしまっているのは歩かないことから足裏の筋肉を使わない故に血流ポンプが循環しにくいためかと思い至ったのは、後日テレビの番組で血流改善の方法を聞かされたときだった。

父母の姿に照らして、自分の場合は追い描くと、先日の失敗も含めてエントロピー的には私の分が悪い状況だった。当然、不満を聞かされたままではエントロピーがアンバランスになってしまっているので、再起の機会を探していたのだが、幸い週末の三連休には結婚記念日だったので、細君を連れ出して早いディナーにしようと提案して上大岡まで連れだしたのだが、細君自身は当初結婚記念日であることをテーブルについてオーダーする段まで忘れていたようだった。結婚23年目を迎えたことでもあり奮発したのは知り合いのステーキハウスでの当日のスペシャルメニューの葉山牛だった。買い物をしたりしてからの夕方からの結婚記念ディナーには細君も喜んでくれたようでようやくエントロピーのバランスを取り戻すことが出来た。父母たちの姿に少しでも近づけるように努力しなければと思うのだった。

そんな思いに到達したのが、きっかけかどうかは不明だが金曜の朝に妹から電話があり、容態が急変したので病院にいくという連絡だった。番号不明の携帯伝言が入っていた。番号に覚えが無かったのですぐに読むことはしなかったが通勤電車の中で確認すると下の妹の声だった携帯の番号が変わったらしい、MNPではなくて何か契約方法が変わったのが理由らしい。同一キャリア内の変更のはずなのだが・・・。伝言内容は父の急逝を伝えていた。朝の電話で向かったのだが間に合わなかったようだった。気がつくと13日の金曜だったりするのだが、事務手続きを進めて仕事の算段を進めて翌週の水曜までの忌引き休暇を連絡して人事総務の方と連絡をとり昼食を済ませて午後には帰宅して、納棺式に急行した。クリスチャン系の教団が運営するケアハウスに父は戻っていた。キリスト式の納棺式では賛美歌とお祈りとで執り行われた。日曜の朝にお別れ会をして、斎場に行き、翌週に菩提寺での仏式での納骨までと妹たちが算段に奔走してくれていた。

火急な事態で仕事の算段をする中で、関連するキャリアの方たちにも連絡をとり水曜までの個人的都合での休暇を伝えたのだが、気がつくと弔電の手続きなどの問い合わせなどがあったらしく周りのものが応対をしてくれていたようだった。金曜の午前に逝去して、まだ当事者たちもどのような形で進められるのかどうかが不明なままにいる状況では伝えるすべもなかったのだが、限られた親族とケアハウスあるいは教団関係の方たちだけでの式として進められたのは落ち着いた形で父を送り出すことに集中できたと思うし、今までに手伝ったり、参列してきた日本式の葬儀を思い起こすと仕事で関係した方たちの思いもわかるので連絡したばかりに余計にご心配をおかけしてしまったとも思う。

気丈に最後の姿を見せ付けてくれた、父母の姿を目に焼き付けたものとしては現在を生きる自分としてより生かした形でがんばりたいと思うようになったのは最後に父が呉れた励ましだったのかも知れない。細君と50分あまりの長いバスルートを使って納棺式・お別れ会の後を横浜まで時間をかけて帰りたかったのも二人の時間を意識していたのかも知れない。今の人生を歩むきっかけ与えてくれて、これまでも声援を続けてくれた父を思い返して人生の半分近くを既に共にしてくれている細君と、ゆったり精進落としとしてメキシカン料理を食べた13日の金曜の夜だった。

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