日本流に言えば、担当部長というタイトルから来る響きは、現場を出回ったりするという印象ではないようだ。こんなフレーズで始まったのは、18年振りに友人Kと会ったからでもある。友人Kはといえば、とあるショッピングモールの専務理事であらっしゃるわけで、まあお互いに茶化しあっているわけなのである。彼とは、前の会社の入社試験で出会って以来の付き合いなのである。オイルショックの後の最悪の経済環境下での就職活動は、バラ色と歴代の先生から伝えられてきた高専のご利益なんて無くなっていた。そんな中でも就職の門戸を開いてくれたのは例年の求人活動を止めてはいけないと考えている大企業か、良い人材が取れると考えてきたが、それまでは求人実績などもない中小の企業だった。
そんな中で二人の高専生が、目指したのは関西の家電メーカーである。電子回路を極めていきたい彼と、ソフトウェア関係をやっていきたいと考えた自分であった。しかし二人は入社以前に接点はなく、大阪で行われた入社試験会場で初めて出会ったのである。通常ならば会社が用意した宿に投宿するものの、私はといえば宇治に住んでいた従兄弟の家にお邪魔して会場に向かった。会場において初めて出会い、しかし何か気の合う同質なものを感じたのは互いが高専生ということであったからかも知れない。互いの母校の名前を話し出すと試験会場の席次が北から並んでいたことが知れたりしていた。試験問題の解答について話題がまわると、互いの理解度などの実力も知りえたりしていた。全く理解していないと思しき仲間もいたようだった。
二人が再会したのは、内定者の懇談会であった。関東地区の学生を東京支社の人事部門が集めたときのことである。出会ったのは彼だけでなく互いに「こいつは他にどこが凄いやつなのか」と勘繰るような仲間もいたのであった。無論そんな意識を持ったのは私と彼だけであったのかも知れない。それだけ同質な意識があったのは驚きでもある。同期入社ということや、不況で配属先が無いという時代の新人研修を一年余りも過ごす中で互いの志向がわかりつつ配属先が確定したのは翌年のことでもあった。不況ということもあり、彼は十数年配属されたことがない事業部門に配属されたのである。実習時代には、その事業部にはマスター卒の同期が実習生活を過ごしていた。電子回路専攻のマスター卒の同期君は、実習先での精密加工と電磁気・物性の世界の実習先での生活を日々過ごしながら配属されるのではというおもいにおびえていた。しかし、そこに配属されたのは自動車機器の事業部で実習していた高専卒の同期Kであった。
オーディオ好きの彼ではあったが、テープレコーダの磁気ヘッド事業という世界に転進していくには技術者人生の緒についたスタートポイントで悩み多き始まりだったようだ。オーディオ機器が精密化していく流れにおいて高性能実現のために細密化していく流れと、磁気ヘッド事業の今後について悩みが多かったのかも知れない。HPFなどと銘打った高性能フェライトヘッドやデジタルカセットなどの時代に向けた方向性や、ハードディスクなどに向けたものに変わっていく流れが彼には見えていたのかも知れない。肝を入れて仕事を始めた彼に降って沸いたのは事業展開としての事業移管というトップ方針であった、磁気ヘッド事業そのものを系列の九州の会社に移管することになり、彼は二年余り熊本で過ごすことになった。そうして戻ってきた彼を待ち受けたのは、新入社員当時に目指していた電子回路技術者の路であったのだが・・・。ギアチェンジをしていた彼にとっては、磁気ヘッド技術者として学んできたことやいろいろな思いから悩み多き日が再来してしまったようだ。
そんな彼から就業後、食事に誘われて話を切り出されたのだが、話の主題は二つあった。正確には三つだった。結婚するんだというおめでたい話が、その一つ目であり彼女は熊本の移管生活の過程で出会った素敵な女性らしかった。二つ目は、その彼女と共に書店経営という更なる人生のギアチェンジをするのだという決断の報告であった。彼はかねがね、喫茶店か書店を将来やりたいんだという話をしていたし、私の実家が本屋をしていたということについても聞き耳を立てていたのを覚えていた。そしてその三つ目は、結婚するという彼女を私の実家で預かり本屋の修行をさせてほしいというものだった。「そうきたか・・・」漸く得心した私は、両親への依頼に快諾して技術屋が開業するという書店というものについて興味が湧くと共に彼の今までの心の経緯についての想いが巡ったのであった。
実家の両親は、四人目の娘のように彼の婚約者を扱い大切にしていまでも、豆に葉書を書いて出しているのである。そんな二人は、書店経営という今では大変な時代の中で頑張ってきていてもう20年近くになるようだ。以前の会社で九州に無駄足出張した折などは彼の所を尋ねて「大企業は馬鹿なことをしているもんだ・・・」と酒の肴にされたりもしていた。それからも18年程は経過しただろうか、九州には仕事以外で来たことはまだなかった。また、今の仕事で博多地区でなければ出来ない試験が出来たりしたことから再会の機会に巡り合わせる予感があった。今の会社への転職の報告も彼にはしていたし、そんな中での心の葛藤などの手紙を出したりしてきた。今ではメーリングリストも送りつつ、彼からの返事は毎年一回の年賀状の書き込みだったりもする。先日実家の母親に電話をした際には、「Kさんに会ったら様子を見てきてね」と託ってもいた。Kの細君に書店の手ほどきをしていた両親は引退していて父はケアセンターに預かってもらっている状態となっている。
第三世代の携帯電話技術の双璧の双方を手がけるQuad社としては、国内で商用サービスインした通信キャリアの元で確認テストを行う必要があり最近では足しげく米国の仲間が国内にやってきてのテストサイクルが続いている。担当部長といえば心地よい響きかもしれないのだが、実際には「その分野のことについては全部任せているからね・・・」といった意味あいでしかない。こうした通信業界を暗く貶めてしまっている元凶ともいえる3GPPではあるものの中々担当技術者達の意識が大企業の乳離れをしていない中ではほしい人材も集められるわけではなく「俺が作る」の岡野さんではないが、隅から隅までをカバーしていけるような人材という要望を提示しても叶わないのもいたし方なかった。アウトソーシングのし過ぎで自分達の仕事の基盤を失っているのではないかという状況認識を中堅技術者の方たちが持たれているのかどうかはカギなのだろう。ともあれ、担当部長として米国からのテスト部隊を引き連れての国内巡業テストの日々は昨年来続いている。
日曜日に移動で博多に入った、同僚のチェックアウトの時間の関係もあり早い時間のフライトで博多についた。そうしたこともあって夕食までの間、友人Kの書店に顔を出すことにしたのである。電子メールで予め通知はしていたものの年中営業の表示のあるホームページ紹介からはさもありなんと思わせる状況で突然の来訪に驚いていた様子であった。年々シュリンクしている状況の書店業界にあって友人Kの頑張りはたいしたものである、丁度読みふけっていた岡野さんの本のフレーズにも合致しそうな頑張りでもある。前向きな仕事、安住はしない姿などは、最近起こった婦人生活社の破綻などの事態への対応などにも自信が溢れている。ベストセラーの雑誌を持っていても他部門の赤字を被り倒産してしまう実情から、配本業界自体が再販制度での本の回収と資金回収などのモデルが破綻してしまっているようだ。高い金額の本などを置けないという事情もこうした実情があるからだろう。
忙しくお客に応対する中で切れ目を縫いつつ話を交わして第三世代の電話などを見せたり、ソフトウェア開発の実情についての話をしたりするなかで、技術屋としての感性がやはり擡げて鋭い質問が入ったりするのは流石である。書店経営の姿しか知らない、友人Kの娘さんらは両親が勤めていた精密機械業界を知る由もないのだろうが、彼女らが夢見る未来に向けて可能な限りの支援をしているようすが窺い知れた。技術屋として苦労をしてきたからなのか、高専に出来た女子寮の話をしてみても自分の娘にマッピングして考えることはないようだった。タカラジェンヌを目指すのも良いだろうし、法律家になるのも良いことだ自発的に目指す子供達に対して支援をする友人Kは、そんな娘らに高価な本は図書館で頼んで読むようにと教えているようだ。かつて本屋だけの特権と見られていた再販制度も今や自分達の真贋の見極めにかかっているのが実情のようだ、制度に安住しない中で自身の感性と注文するお客様の見極めをしていくさまには人生の達人を目指す姿があった。
20年近く書店経営をしてきた友人Kの肩書きは、地元商店街の専務理事という職責もあるようだが、実態はプレイングマネージャーとして自転車を駆って配達を続けつつの合間に行うのが専務理事としての仕事のようだ。かつての映画の「フーテンの寅」での社長のようなのんびりした雰囲気はないのが実情なのだろう。「大変だ大変だ・・・」と飛び込んでくる社長の風景は、なくなってしまい休日にお客として本を買いに来つつ「主婦と生活の返本はどうなりましたか」と聞いて回っているのが今の風景のようだ。九時から五時の仕事で堅実に暮らしていけるような時代にしていくためにも現代を正しく捉える為の情報源として書店が扱う書籍や雑誌の重責は大きいのだろう。世の中の情勢への舵取りを失敗して安住の時代に嵌ってしまった世代が生きる路はこの国には無いようだ。職責タイトル自体には意味が無く、職責タイトルが期待する行動範囲についての各自の認識見直しが望まれるこの頃である。