ゴールデンウィークが明けて、季節も動き始めたようだ。昨年に続き、新しいエンターテイメントを切り開いてくれたTBS主催の筋肉ミュージカルを見に行った。スポーツ界の勇士達が見せてくれる美技や体を張った演技には、見も心も軽くしてくれる効果があるようだ。色々なエンターテイメントがあるだろうけれど、この新たな分野を切り開いたのは日本のオリジナリティだと私は感じている。実際に、今年から参加している中国雑技団からの凄腕の方も昨年の演目をみて感動して今回は実際に演技者として参加しているようだ。私の拙い文章からでは、かれらの素晴らしい演目や雰囲気を伝えることは出来ないのであるが、実際に会場に訪れた方々たちが昨年からのリピータであるように思えるので感性が我が家の夫婦の特殊性に依存しているというわけではないように思うのである。また、そうした新しいことへの感動や演技者たちの新たな挑戦を他の人にも見せたいというメッセージが伝わって広がってきているのだと思う。公演終了後は、余勢をかって赤坂から新橋まで歩きとおして地下の居酒屋で細君と感動の余韻を暖めつつの食事に舌鼓を打った。朗報としては今年は夏休みにも特別公演が計画されているらしく、我が家でもチケットの手配には情報収集に余念がないのである。
継続することにより、つづく人たちが現れてくるというのは、この筋肉ミュージカルの今年のパンフレットなどを読んでいても感じ取ることが出来る。実は、昨年の筋肉ミュージカルの後に、公演の母体となっているテレビ番組での事故が発端となり、スポーツバラエティといった新たな芽を摘みそうな状況に陥っていたのである。我が家でもこの事件を契機に今年、こうして筋肉ミュージカルの再演が出来ないだろうと悲観していたくらいだ。新しいことにより、引き起こされるいろいろな事態にどのように対応していくのかという点を考えると、引き起こされた失敗や事故を起こさないための対策としては、そうした事に取り組まないといった対応をしてしまうことはありそうな話である。新しきことの挑戦の過程で生まれた失敗を鶏のように攻撃して仲間内から見殺しにしてしまうというような扱いにすることでは、なんの挑戦する風土も生まれるはずはない。無論、生身の演技者達が奏でる身体を張った演目の中には、失敗もあるのは事実であるがプロの技を更に見せようとするメッセージが伝わってくるのである。この心地よい波動が、この新たなエンターテイメントの観客の一人一人に届いているように思われる。
実は、この独り言も続けてきて双方向に切り替えるべく自宅サーバー化を契機に掲示板を作成したりしてきたのだが、これも設置から一年が経過していた。何かお祝いをしなければならないのかもしれない。続けてきたメッセージがアーカイブとしてアクセスできるようになってきた中でページ構成についても見直しが必要になってきている。途中から参加した人が過去のメッセージを読もうとしていも、その時代に起こっていたこととの相関などについては知る由もない。新しきことを継続していく上では、工夫を続けていくことが必要なのであり、多様な人たちと共生しつつ意識を共有した上で、なにか共同のテーマに向けた活動に辿りつければいのではないか・・・というのが最近の私の認識でもある。組込み開発の現場で直面してきた、色々な事態については、もうこれ以上繰り返しても意味が無いのではないかとも思えてきたのである。問題提起あるいは意識共有という点についての活動として掘り下げていくには掲示板でも不足だろう。私自身が、この活動に意味があるのだろうかと自身に問い掛ける際に心の支えになるのは、後半部分のアクセスを希望された方々に個別に付与したアクセスアカウントなのである。Webのシステムとして構成されているがゆえに、メーリングリストのワンウェイではなくてレスポンスとして読み取られたということが判るのである。
読み取られた日時やコンテンツにより、読まれた方のコンテンツに対しての意識などが浮き上がってくるように思えるのがありがたいことである。実は、以前のペーパー版で運営してきた組込み開発をターゲットにした技術情報誌といったミニコミ誌の場合でも読者の声が嬉しかったのと同様である。ある意味で、三つのパラグラフで読者の意識にメッセージが届けられるのかどうかというのが鍵であり、限られた時間での書き込み配布といったサイクルでいかに効果を上げて新たな開発の動きに取り組んでいけるのかといった仲間にエールという形で協力をしていきたいのである。携帯開発という仕事の業界に身をおきつつ、イノベーションを実現してきた会社として素直に取り組んできていることに対していわれのないバッシングを受けているのは百も承知である。バッシングを受けている会社が、利益も生まない事業でありながらも注力をしているプラットホーム取り組みなどは、ある意味で更にバッシングを受けそうな印象もあるが、これは正しく理解されてはいないようだ。自分達として本心として開発効率化の方法論として信じて取り組んできているのだが、これらの捨て身の献身的な活動をうまく肥やしにして使ってもらえるほどにメーカーからはまだ理解されていないようだ。
とはいえ、この取り組み自身も日本オフィスが中心となって掘り起こして軌道に乗せるべく活動してきているので、ある意味で私を誘った仲間が、国内開発メーカーに向けたコントリビーションとも言える成果なのだと思う。半年毎に新製品を生み出していくというビジネスモデルが破綻するのは遠くないと感じている。少なくともまだまだ使える機器を湯水のように使い捨てていくのは異常な仕事である。開発のペースを半年のスパンにあわせてさらに余裕を持てるような開発体制に出来ないのか。PCのようにソフト搭載だけで機能が改版されていくような仕組みになれないのだろうか。売上から導かれる開発費用の総枠からビジネスモデルが破綻し始めているのが最近のメーカーの事情からもうかがえる。家電品のようなOEM生産といった状況に移っていくことも早晩始まるだろうし、ソフトウェア開発方法論からみたハードウェア設計のあり方についての議論が製品の付加価値や価格などの点を踏まえたバランスの取れた姿に移っていくべきなのである。部品メーカーの努力の成果なのか、あるいは携帯バブルの果てなのか、最近ではNORフラッシュの価格が低下してNANDフラッシュに移行しないで現在の方法論のままというメーカーもあるようだ。
製品開発をしていくという姿の中で、プラットホームとしての在り様にはもっと議論があるべきなのだが、この携帯業界では回収騒動というチキンレースのような状況に晒されて、ますます保守的ななかで鈍重なスタイルで競争力のかけらもない部品群を実績の名のもとに再利用している姿から脱却できないでいるようだ。通信キャリアのコスト体質勝負の渦中で開発している通信機メーカーが同じような方法論で戦いというよりも現状維持のための活動を続ける限りは脱落していくメーカーが増えていくに違いない。通信キャリアが取り組むべき課題もあるだろうし、通信機メーカーが取り組む課題もある。最も物作りの極意を認識しているはずの通信機メーカー自体が、そうした感覚を持ちえていないとすればソフトウェアハウス自体がワードやエクセルといった商品群の魅力のように携帯作りのリーディングメーカーになり得るのではないだろうか。商品企画をする会社、基本ハードを開発提供する通信機メーカー、企画を実現化するソフトウェアメーカーといった図式の業界に変貌することすら可能なのではなかろうか。半年毎に登場しつつ堅牢で動作することを望む過去からの決別を果たすための契機はいつなのだろうか。
ゴールデンウィーク前からサポート仲間が、ようやく一人増えた。彼は通信機メーカーから参加しているのだが、日本人の性なのか飛ぶ鳥後を濁さずを目指してという形を望んだ結果辞めるのもままならないという状況だったようだ。国際的な感覚と日本の感覚とのずれなのかもしれないが、辞めようとしている事実から考えれば会社としての危機管理の薄さがそうした状況を生んでしまうのであり、自己を大切にする中で結論を導き出したという視点に立てば新たな職場に溶け込もうとすることが良いように思われているということのギャップは埋まらないようだ。自己犠牲を強いてきたという視点は、日本の技術者の感性にはないようで、これは四十台くらいまでの日本人技術者の一般的な閉じこもりがちな感性の一つかもしれない。私もそうした感性を持っていたように思うのだが、納得の出来る仕事をしていきたいという思いが感性を駆逐してしまったからにほかならない。わが社にジョイントしてきた仲間の多くはそうした局面を超えてきた兵が多いようだ。そうした経験が、次の仕事への意識を生み出していくので、新たに加わった彼も、この多様な携帯ビジネスモデルの中で、まともな仕事を目指そうとしている真摯な集団の一員として活躍してくれることを期待している。
そんな彼を待ち受けている現実は、ビデオテープやドキュメントの洪水なのかもしれないが、ソースコードをサーフィンしてお客様の問題解決のために必要な仕事を最適化して取り組んでいくという、素直な会社の一員としてやるべき仕事をうまく果たしていくという姿を目指してキャッチアップしていくだろう。英語の教育の名を借りた、米国チームを率いた試験走行などの経験も自分に求められていることに応えつつ、機会を活かして自身に力をつけるためのチャンスとしてキャッチアップしていくという姿に戸惑いながらも張り切って取り組んでいるようだ。私からも私が出来る最適な指導をしつつ、自身のペースを見つけてもらい我々がすべき仕事のメリハリをつけたスタイルに早く馴染んでもらいたいものだ。そんなこともあり、定時にさっさと終わり、細君とミュージカルも見にいったりしているのを知らしめるのも一つの仕事指導なのかしらと思っている。個人生活の充実のうえに技術者としての仕事の円熟が生かせるようになるのが、私の目指している仕事の仕方である。