ソフトウェア開発を生業とするに至ったのは、母校で学んだ電子計算機との出会いだったか。ミニコンとの遭遇で始まった新たな世界は、オイルショックによる不況真っ只中での気まぐれな大企業での採用との出会いからだった。なにしろ不況下で採用したところで受け入れる先の事業部が無いというような時代である。大企業の威信にかけても継続は力なりを誇示する為に採用した当時の新入社員はミニマム級な採用記録となっていた。導入研修をして、販売研修、工場実習を行えば配属にいたるというサイクルを回せないでいた時代である。当時のJIS表記の変更が契機になったかどうかは別として時間潰しとは言わないまでもミニマム級の人員でのみ達成しうる挑戦をするのは大企業の中での採用部門としての気まぐれだったのだろうか。
時間潰しとしての提案は、まったく異なる実習先工場での第二次工場実習であり、製図・機械工作実習といった流れであり気がつけば次の年度の新入社員が入社するに至り採用部としては、山下飛びと揶揄されるような新たな経営陣の刷新も受けての配属作業にいたるようだった。まさか会社に入ってから高専で学んだような製図実習や図学実習あるいは機械工作の実習をするなどという事態を想像することはなかった。おそらく、そんな気まぐれを体験したこと事態が会社として封印されているのではないだろうか。ようやっと配属されるに至った事業部から、まさか次のステップが用意されているとは当時の新人としては、またまた想像の枠を超えていた。入社した翌年の五月に、あるコンピュータ会社の翌年の新人研修の中に投入されていたのである。
無論、新人研修に続いて二年間の出向研修という名前の実務が待ち構えていた。学校でFORTRANとアセンブラを学んだのも束の間、ミニコンピュータのシステムエンジニアとして、出向先のコンピュータメーカーの名刺を持ち、その客先の自動車メーカーに駐在して工場制御システムの更新プロジェクトに投入されていたのである。まさにOJTで既存システムのコードを確認しながら、ミニコンサポート部隊とコンタクトをとりつつ新たな機能実装に向けて新デバイスのドライバーやらミドルウェアを組み込みための作業を経験ある上司の下に現場で行うはめになった。といってもミニコンと小型コンピュータの二系統のソフトウェア更新で、開発は高卒の新人と私の二人で上司がシステムをまとめていた。