業界独り言 VOL303 サマーバケーションはいつ? (サンディエゴにて)

西に東に奔走している。梅雨のさなかには、奈良の大仏を見に行くついでに、京都の竹林を訪ねて侘び寂びの技術の世界に生きる導師に教えを請う。ひと時の時間を共有したということで得られる安心感は、孤独な組み込み世界のエッジを生きていく者にとって変えがたいものである。俗世の流れに思いを馳せて道頓堀の川端の居酒屋で仲間と取り組んできた技術と今後の方向について昼間の顧客訪問を振り返る。スカッと晴れたような答えにならないのは日本の気候に依存するのだろうか、ウェットな気候で暮らしてきた日本人の”粋な”感性には、情に縛られることを善しとするようだ。梅雨が明けて、新たな技術の詳細を伝えに伝道の旅に出た、朝から新幹線オフィスに身を置き、第三世代のモデム環境の恩恵を享受しながらそんな暮らしを許容するコンセントも含めたインフラに感謝する。二時間あまりで大阪に至るような暮らしに不自由を感じることはなく、この狭い国土に見合ったインフラであることを再認識するのだが、どうもこの国に実際の暮らしぶりよりもインフラ整備によるフーバーダム的な政治思想が席巻しているように思われる。

第三世代という議論には辟易してしまうものの、結局のところ的確なサービスを提供することもなく目的の不明確なままに3G論議は終わり、政治的な道具立てとして魅力を失ったテーマは4G論議に移行している。輝かしい未来に描いているテーマと現時点での状況からのマッピングが見えないのは、3Gサービスの不毛な開発に費やした疲れや民生化した筈の通信事業者間の競争が結局のところ利権を巡る抗争にあるからだろうか。国民から多額の収益を巻き取る携帯電話事業の仕組みによって世の中の若者たちは、お金の使い道などの価値観を異なるものにしてしまったようだ。新たな市場創造をしたという意味において偉業と讃えるべきなのか、世の中をギクシャクとさせる状況にしてしまった確信犯として戦犯訴追をすべきなのか。夢のある仕事として始まったパーソナル通信環境を構築というテーマは、実りある時代を迎えて輝いているべきなのだが、従事している技術者達の顔が晴れないのは異常である。

世の中の麻痺しきった生活に渇をいれて指導してくれる先輩である祖父母といった家族の輪は切れている。勝手気ままに暮らす子供たちが過ごすようになった現代の日本。そこには効率という名の下に失った大切な何かが数多くあるようだ。そうした状況を加速してしまったのは、場所を選ばず自在にコミュニケーションする道具を開発してしまったことかも知れない。今電話をするときに手で、周りを気にして電話口を覆うようなしぐさをとるような人は数少なくなってしまった。高性能な電話機の開発がそうした仕草を必要としなくなったことが原因ならば、確かに技術者が戦犯ともいえるだろう。技術開発の発展とは別に文化継承という流れでの道徳教育を支えるインフラの破壊は進んでしまったようだ。自分の欲望のままに、同様な仲間とのコンタクトが自在に出来る時代を許容せざるを得ないような状況を想定していたのかどうかは、技術開発という流れとは別の課題だといえるのだろう。パーソナルコミュニケーションという技術は、それまでにあった交換台・呼び出し・交換機・電子交換機という技術から離れて、ついにP2PでSkypeを実行するにいたっている。

ワイヤレスバレーと呼ばれるサンディエゴでのホテルの風景には、独り言を喋っているような風情の人が多い。ブルーテュースのヘッドセットを耳にセットしているからだ。日本のような大きな電話機を顔にあてている雰囲気は異様に感じられるほどだ。この風景が日本にも定着していくのだろうか、日本の携帯電話はどちらかというとそれを何時も握り締めていてほしいという前提があるようだ。それは端末の宣伝も兼ねているように思われる。他方、欧米のそれは出来るだけ小さく作ってもらい日常との利用は隔絶したうえで個人の生活を大切にしたうえでのコミュニケーションツール作りとするように位置づけていると感じられる。日本での携帯電話ビジネスが多額の補助金をベースにして高機能を競い合う状況の中で成立していることも、端末の使われ方自体を宣伝媒体としているように感じられる。使っていることを感じさせないような使われ方には向かっていかないようだ。プレミエといった欧米の雰囲気の端末を良しとするかどうかの感性の相違がそこにはあるようだ。

パーソナルな通信環境の構築を目的としてユースケース・期待値も含めてコンセプトから始まったPHS。また、移動体通信としての自動車電話から移行してきた携帯電話。これらが2.5Gを契機に微妙な変調を来たして覇権を狙ったような形になり携帯電話に統合あるいは飲み込まれてしまった形といえる。技術開発は、課せられた条件の中で競争が起こることにより進められ成果が出されていく。狭帯域での性能実現に腐心してきたTDMAから広帯域に拡散して利用するCDMAに移行してきた流れなどは技術開発の進め方としても興味深い。全国民中流という横並びの意識からなのか、誰かが持っていればほしくなると言う単純な図式を子供のころから教え込んでしまったのは制御しやすい国民育成にあったのかも知れない。ともあれ、あまり自己を持たない個性豊かとはいえない姿が目に付く時代となっているように感じる。個性の無い時代にパーソナルな通信を提案した場合には、画一的な端末で済ませることが出来るということなのだろうか。

大勢とは別に、個性豊かな端末を求める人もいるのは事実なのだが、その比率は高くは無いのだろう。防水筐体の端末はアウトドア志向の若者に受けるのだろうが、数が少ないためにか世代交代の製品が登場するのには四年間を要したりしている。個性豊かな端末を簡単に仕上げるほど携帯電話の開発は容易にはなっていないということでもあろう。WILCOMが提案したようなモデム機能をSIM化してしまうような考えがひとつの解決策でもあろうし、また完成度の高い仕上げやすいリファレンスプラットホームが必要だということでもあろう。一機種の開発を一桁億円で済ませたいと願うOEMメーカーのトップの期待と現場で商品企画の実現の中で苦労している実態のギャップは既にOEMの手を離れているということのようだ。救世主期待論で弥勒菩薩の登場を願うような意識になってしまっているのは日本だけのようなのだが・・・。自ら行動を起こそうと発起している人もいるものの、本来そうした引き金を引くべき現場のエンジニアが発奮しないのは悲しいものがある。

現場でバリバリ働く、かつての国策として作った高専の意義なども最近は失われてしまったのはメーカー自身がそういう姿を要求していないからかも知れない。国策イコール大企業の声という図式でいえば、大企業で要求するまとめ上げに徹するエンジニアを組み込みエンジニアのカテゴリーとして定義しなければならないことにも繋がるのだろう。組み込みを経験してきた結果として、そうした仕事に就くのはあるかも知れないものの、最初からそれしかしないという現状を見るにつけ、そうしたメーカーの将来は暗いと感じるのである。現場でバリバリしているはずのエンジニアは全て協力会社という肩書きの人達であり、なぜか仕事をするためのインフラとして大企業の衛星会社の名刺やアドレスアカウントの提供を受けて活躍しているようだ。なぜか、そうした人達も最初は親会社の技術者として仕事に就いたにもかかわらずあえて退職して少し距離をおいて同様の仕事に就いているのだ。瑣末なこととの決別を自立した会社を興して、その仕事として受託することで心も軽く仕事をしているといった印象だ。国策の羅針盤を見据えているのはいったい誰なのだろうか。

競争の原点を見失ったかのような端末開発の戦いの最前線では、実際に売れている端末の理由などは、その端末のUIの使いやすさなどで売れているのであれば良いのだが・・果たして。全ての端末範囲をカバーできていないといって腐る通信キャリアの台詞などは、ほかの通信キャリアにとっては怒り心頭に触れるようなものかも知れない。全方位端末開発にかける費用と効率の悪さも含めて悩んでいる中で、そんな台詞を吐いているキャリアなどはフェアウェイをスイスイと進めていく印象にも映るているのかも知れない。MNPの時代を迎えようとしている中で開発投資をしている方向は最先端の目くらまし重量戦車ではなくて、実質を追求する高性能なコスト力豊かなミドル端末に充てているのである。双方の仕事の方向性を理解しているQuad社の立場も難しいのは最近の実情でもある。互いの通信キャリアからの要請内容を理解した上で端末開発に必要な機能展開を考えつつ提案をしていても、かえって誤解を生んでしまうような状況もある。端末作りを良くしようと画策した新たなマイクロカーネルの流れこそ究極の組み込みソフトウェアの有り様だと思うのだが首肯していただけるようなお客様の状況ではないようだ。

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