業界独り言 VOL293 ライフプランを描きながら

今週は知己たちとの予定で一杯だった。水曜日に年初の独り言のオフ会を行なったのだが、電機業界でお決まりのノー残業デーも携帯分野の知己達にとっては中々適合しないような状況にあるらしい。都合が付かない方も多かったものの、予定通り開催することにして二時間という居酒屋の制限枠を二倍にもなる中で、楽しくこれからの仕事や業界の流れなどを肴にして過ごすことが出来た。オフ会を通じて知己たちの元気な顔や声を聞くと安心もするのであり、また次なる技術展開に向けた仕事に張りが出てくるというものでもある。携帯電話業界がプラットホーム移行という大きな流れの中で、産みの苦しみを経験しつつも、開発プロセス自体の改革に向けた通信キャリアとの期待値とのギャップなどには、まだ思いが至っていないような様子だった。核となるエンジニアは、気が付いているもののビジネスをドライブする経営陣や、開発に従事する仲間達にそうした今後のプロセスの変革について意識を共有することが出来ないことが、変調を来たしていることを加速しているように映る。

金曜日には、前の号で紹介したサーバーベンチャーのCEOとの昼食会もあり転職経緯の発端ともなった六年前の事件などを思い起こしつつも、また同じ有楽町の海外特派員クラブでランチを取りながら、ケイ佐藤らと一緒に楽しく仕事や業界とのマッピングなどを思い描きつつ過ごした。4Gサーバーを開発するバラード氏の成果を評価する横須賀のキャリアでの導入成果は大きな以前からの進展であった。悪魔のサーバーと評した当時の私の転職顛末小説は、出資者をエンジェルと称する流れの中で、なかなか成果の出ない状況などと合わせてあえてデビルサーバーという名前で呼んでいたのも事実であった。現在も、実際にビジネス展開として、今回の成果を参照してきた日本の多くのユーザーからみれば理解不能な技術として敬遠されているような状況には変わりが無いらしく、まだまだ必要とするアプリケーションに出会わないという状況のようだ。バラード氏が、天啓を受けて始めたこのベンチャー技術のインキュベーションを、ようやく三つ目の会社として達成しようとしているのは、真のインキュベーターとしての山羽氏の心意気以外の何者でもないだろう。

まだまだ実用化に向けての障壁は、あるもののとにもかくにも商用マシンを出荷納入するというテーマを七年目にしてようやく達成したのである。栄えある最初の発注ということを実施した初芝通信時代のあの頃に達成していたならば、また別の展開があったのかも知れない。超大規模化を予感したI-mode時代の到来に備えるべきという警鐘を感じ取っての技術として評価してきたものの、それまでの技術から踏み出すには実績という理由が無きままに世の中は動いていかないものである。初芝をリタイアしてインキュベータの道を歩んでいる山羽氏が、こうした弁護士から技術屋に転じたバラード氏を本当に添い遂げていこうという心意気は、最初の投資家の人たちから発せられた詐欺師呼ばわりされつつも成果が出せずに破綻した二つの会社での歴史を拭い去りたいというものから来ているようだ。自らの活動に必要な資金を捻出しつつ、残っている時間を駆使してインキュベーションにまい進している山羽氏の生き様には、敬意を表したい。インキュベーションを重んじるという理念の会社方針を形式的に打ち出されている会社などもあるようだが、真のインキュベーターの精神までは社員に教え込んではいないようだ。

金曜日の夕刻には、20年振りの山の同好会の同想会が企画されていた。前の会社のハイキング同好会といった分類の仲間であるのだが、発起人である先輩からのメールでの連絡などがあり当日には15名ほどの方が集まった。もともとのメンバー構成でいうと、当時の初芝通信の無線事業部・周辺機器事業部・オートモビル事業部などを跨って組織されていたのだが、最近では事業部制からカンパニー制に移り変わったり事業分野の再編成などが行なわれている。そんな中で部外者となった私などにも声をかけていただいたのは有り難い事でもある。もともと発起人たちの同期メンバーとしての人の繋がりがあり、事業部を越えたグループ活動というものが実現出来ていたようだし、既存の活動として存在していたグループへの疑問などに対しての行動として新たなハイキング活動のグループとして出来たのが当時の背景だったようだ。そういった意味ではベンチャー的な要素を持ち合わせていた活気のある組織だったのだろう。私が新入部員として参加したのも25年以上も昔であり、同様な意識の世代で構成されてきたことが当時の活発な理由だったろう。

そんな活発な活動をしてきたハイキング同好会も、少しずつ仲間同士で結婚したり、転勤などが起こり世代が固まっているがゆえの若返りといったことに繋がらないままに活動を閉じることになった。気が付けば、最後の山行はなんだったか誰も漠として覚えていないという印象だった。組織として最後にリーダーを命ぜられていた時期があったことから当時のハイキング計画やら資料などをファイルした原本を預かったままに転職してしまったこともあり、後ろめたさも手伝い引っ越す度に思い返してはいたので、今回の同想会の参集要請は渡りに船というものであった。当時のクラブにいた中でカップルはいくつも生まれて我が家もそうした中の最後のカップルなのだが、今では事業経営のリーダーたる方もそうしたクラブのカップルである。今回は、ご夫婦で参加されて雰囲気を盛り上げていた。関東という土地柄なのかどうかは判らないのだが、会社の通勤範囲として90分程度はあるという中で実は通勤距離の広さを感じたのは当時のクラブの集まりを湘南地区で週末に行なうことになったのだが、当時は千葉県から通勤していた自分は切符購入すると窓口でしか買えないような距離だった。

週末にそうした距離を越えて会社の仲間が集い、コミュニケーションをとるような活動をしていた時代だった。そうした時代を過去に追いやったのはコアタイムをベースとするフレックス勤務だったろうし、開発プロセスがハードからソフトに変遷する流れがそれを押し流してしまったようだ。先輩達との付き合いを時間外にするなどということは「ありえない」ことに分類される時代になり、意識を共有したりする流れを事業部を超えて社風として堅持するようなことすら出来なくなってしまったようだ。冬のシーズンには、週末に各事業部の誰かが発起人となってスキーバスを仕立てたりする風景も最近では、グループ活動から個人同士の活動に変遷してしまっているようだ。昭和の時代から平成に移ったのだといえば、簡単だが同一世代だけでの付き合いしかないことが組織としての厚みをなくしてしまっているような気がするのは私だけだろうか。そんな山のクラブの中にご夫婦で山に来られる先輩のOさんが居る。

Oさんは、事業部は異なるものの、当時から開発を先導していく立場としてCADなどの技術に傾注されていた。私は、といえばソフトウェア開発という括りでコンピュータを日常的に利用するということから、インフラとしてのネットワーク整備などの社内委員会などでお会いしたりすることなどがクラブ以外の接点であり、転職前に技術管理に転籍したころは、より身近な分野としてお話しする機会も増えていた。技術管理という仕事を拡大解釈する中で当時の私が描いていた、エンジニアのコミュニティ創設という考えをミニコミ誌という実証実践をしている中でも、配布していたように覚えている。あいにくと全社活動というところでの文化醸成に至る前に、休刊のやむなきに至った中でネットワークなどを利用したいと思っていた矢先に転職を契機にメールと会員制掲示板というこのOneWayBlogのような仕組みの中でようやく有る意味でやりたいことに到達したのは皮肉な物でもある。Oさんは、私から送付する独り言メーリングリストをよくアクセスしてくれていて、こちらでもOさんにアクセスいただいたことをログから確認できると嬉しいものであった。

Oさんは、今回会社から示されたライフプランに応募されることになったと話してくれた。プリント板CADという分野で最先端の仕事を追及されてきたOさんにとっては、取り組んできた技術を集大成として技術書を発行したいという思いがあるそうだ。これについては強く共感するもので、Oさんの行なわれてきた組織での雰囲気をそうしたOさんの発言から羨ましく感じることが出来ました。Oさん自身も意識共有するための仕組みについていろいろな取り組みもされてきたようですが、会社のリストラクチャリングの中で会社としての強みをなくすようなコミュニケーション活動についての会社側の無理解があるのは、今でも変わらないようです。社外の2チャンネルに内情告発もどきで懊悩を書き込んでいる方もいらっしゃるのですが、社内でそうした活動をするインフラすら持つことが出来ないのは、プロバイダをしている会社とも思えない紺屋の白袴といった感じです。Oさんが寧ろ技術書を書き起こすことで、より広く貢献することになるだろうということは素晴らしいことと思う反面、社内で横展開出来ることが出来ないことに対する悩みを感じ取ったりもします。

ライフプラン活動という形で会社が資金を用意してくれるという姿を提示されるなかで、積極的に活用することでOさんのような形で、会社も含めて貢献していきたいという動きが出てくるのは良いことでもあるでしょう。会社を自己都合で退職してしまうことでは、退職金の額までも半額になったりする取り決めだったりするのが現実でする。そんな中で会社から提示された満額回答あるいは+アルファという内容に応えていく活動を自らにしていくということもコミュニケーションを重んじる意気を感じます。後進に道を譲りつつ、さらに外部から支援を差し伸べていくという考え方は、より前向きな技術者人生として、尊敬していく人物の一人でもあります。自分自身のライフプランを先ず自分として納得のいく形で考えて、家族を説得していくということを進めていくことからより良い結果が、自身の納得のいく生活に根ざして家族の協力があり幸せに繋がっていくものだと思います。私自身がOさんと同様な活動を取った結果は、必ずしも元の会社に対してよい薬になったとも思われないのですが、まだまだインキュベータの心をもって技術提供と共に良い成果が得られるまで対峙していきたいと考えています。

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