導師のもとに年に一度集う忘年会が、今年も行われた。Windows一筋でDbase路線を追究し続けてきている導師さまであり、忘年会に参加する仲間はユーザーであったり元社員であったり色々である。ある意味で埋め込みソフト業界の走りとなるような世代の人たちはかなりの恩恵を受けてきたテクノベンチャーの走りともいえるだろう。WindowsNTの内側を知りつくした上で、昨今のLinuxに傾注する業界の流れを正面きって批判もしている御仁でもある。そんな導師さまであるが、Windows版として開発してきたdbase開発環境ともいえるソフトウェアプロダクトをLinux版として移植するという偉業などにも取り組みつつこの一年余りを過ごしてきたようだった。導師いわく「Unix(WindowsNT)は、まともに出来ているのにLinuxはでき損ないで、とても使えたものではない・・・」といったような論調なのである。かなり誇張が入っているかもしれないが、路線は外れては居ないと思う。データベースをまともに動かすことの難しさをOSの仕組みから取り組んできた人の言葉の重みを知るべきである。
「WindowsNTは、まともなUnixである」というのが導師の持論でもある。内部構造としての振る舞いという意味で導師は、そうした呼び方を使っているのだろう。Linuxに関して起こっている訴訟問題などについても内部を把握したうえで「あれは、あのままではすまない」と背景も含めて話し出すといった。ある意味で業界話の坩堝というのが、導師を囲む忘年会の実体でもあり、そうした中で五十台半ばに差し掛かっている導師自身、未だにソフトウェアプロダクツの開発を通じて飽くなき知識吸収をしている姿に肖りたいというのもつどう仲間の姿のようだ。ソフトウェアサポートをしている最長老の御仁は六十五の齢にして、導師の開発しているプロダクツの支援作業をしている。二次会・三次会になっても導師との掛け合いの熱気は冷め遣らない。天才的な技術者が作成したパートを理解不能ということで切り捨てて修正改悪したりするといったサイクルの顛末などソースコードのコメントに書き添えられた作者ネームなどをめぐって繰り広げられる話などは、他人事とは思えない話題でもある。
Linuxの未完成具合という呼び方が相応しいのかもしれないのが、出来ていない関数群や、エラー処理に構わないスタイルの設計コンセプトが頭の痛いところのようだ。Unixのコードのコンパイルは通すようにしているかのごとき実体のない関数群や、プログラムの開発主体が神のごとき精度で書き上げたコードしか受け付けない実装のライブラリやらで結局のところ実績のあるWindowsNTで動作するアプリケーションの移植にはWindowsNTと同様な実装コンセプトのライブラリを作り上げることになってしまったらしい。そんな導師が話を振ったのは最近家電業界でLinuxを担いでいるメーカーのエンジニアである。彼は学生アルバイトとしてサザンパシフィックで働いていたことがあり米国までいってデータベースソフトの仕上げやデバッグに没頭したりしていたこともある。仕事としてのLinux支援のなかで基本要素技術提供といった位置付けの彼の部署のジョブセキュリティはこうした世の中のLinux傾注で確保されてはいるもののお寒い状況のLinux現況のなかで同様な状況に遭遇しているようすだ。実績のあるアプリケーションが殆どないのがLinuxの現状でもあり、世の中の多くのアプリケーションの現実がWindowsベースで開発されていることを考えると導師の咆哮には首肯するのみのようである。