業界独り言 VOL249 次世代のソフト開発とは

暑い夏が、帰ってきた身に堪える。米国への三泊五日の仕事で休みを貰った月曜には作りかかりの無線機の組み立てもようやく二日目を迎えた。この日の成果としてはケース前面などが出来上がった。目に見えた成果が積み上がってくるのはキット作りの楽しみであろうか。世の中の電機業界の情勢は、いろいろらしくV字回復を遂げた電機メーカーのトップが気勢を挙げていたりするようだ。リストラを完了して企業としての体力回復を果たしたということも要因とはいえ、強い商品が台頭してきたこともあるのだろう。最近の強い商品というキーワードに関していえば、ソフトウェアが欠かせない要素というよりも、この開発方法や取り組みでコストが変わってしまうという事情がある。V商品を台頭するにはソフトウェアの開発力が欠かせないということになる。

日中韓の三国でLinuxをベースとする基本OS環境を開発するという話が出てきている。他方でLinux自体の自由さを阻むようなきな臭い訴訟も始まっている。Linuxのベースとなる技術がATTのUnixからの派生であるというのならば、確かにまったく異なるというのは言い切れないのだろう。Copy文化が蔓延している日中韓という三国において、Copy文化から生み出されたLinuxを利用するということは素直な流れといえるだろうし、版権やライセンスを主張されるMicrosoftなどからの離反をしていくということも多くの背景にあるのだろう。日中韓で進めようとしている矢先に、Linuxの基本線が崩れてしまったらどうなってしまうのだろうか、三国で出資してライセンスホルダーである会社を買い取ってしまえば問題は解決するはずである。逆に、その会社をMicrosoftが買い取ってしまったならばどうなってしまうのか。いつか見た風景のフラッシュバックしてしまうのは私だけだろうか。

いつかみた風景自体が、クレーム申し立てをした国からも問題が無い事は改めて申し述べられているのは事実なのだから、この道を三国で追求するということのほうが、どれほどスムーズに事が運ぶのか計り知れない。韓国の文化は、過去を否定したりするために歴史を捏造してしまうようなこともあるので判らないが、漢字を使う日中という立場でいえば、まともに漢字を捌けることも含めてTRONに戻るという選択をしない理由が判らない。コード処理という問題を安易に考える欧米圏とマルチバイトな国々とのギャップを16ビットで解決しようというようなことを考えている欧米圏の会社に巻き取られてしまうような戦争の仕方をしていくのはなぜなのか・・・。確信犯として、敗戦処理を想定した上で、灰色な中での仕事を進めていくような気がしてならない。米国からフリーであるとお墨付きを得たような完璧なソリューションを提供してしまうことでの全面戦争など出来ないのが、今の日本なのだろう。

わざわざTRONで書き起こしてきた商品ソフトウェアをLinuxに書き換えていくのだという。そしてその上でメーカーを越えて共有化をしていくのだという。共有化を進めていくのであれば、TRONの上で進めていったほうが明らかにメリットがあるのではないだろうか、わざわざ欧米圏の手に落ちるようなマイクロソフトとの対極に見せているような技術を採用して術中にはまる必要はないはずだ。政治家が世の中を変えるはずもなく、時期政権や選挙戦略の範囲で企業トップに一時的に受けるような施策を見せても、それにより振り回されるのはいつも現場なのである。この四半世紀の歴史を読み直してみれば明白である、電機メーカーなども経営というよりも政治のようにトップが替わる都度大きな方針変更などから技術が刷新するような施策を打ち出していくことで技術屋のモラルハザードがどれほど起こっているのか知らないのだろうか。

企業活動の一環として進められている、生産活動としての研究成果などを自由にする権利は、確かに経営陣にあるのだろう。研究者や技術者は雇われただけに過ぎない。そうした中で、企業が行ってきた会社人間教育でモラルハザードを防ごうとしてきた取り組みは、最近のリストラ騒動のなかで露見し破綻した。今、技術者は覚醒しかかりつつも、現実逃避しながら埋没しつつの生活を選択することが多いようだ。会社を唯一として選択してきた現在の技術者や研究者たちにとって自分の場所を再確認するということの難しさを、不況の中で身動きとれなくなっているようだ。理解ある妻子たちに相談を持ちかければ、人間らしい生活を選択していくことも出来ようものを自己に十字架を科している姿が目に付く。会社との契約再更新を迫りながら、自分の考える新たなビジネススタイルを提示するという勢いのある若者もいるようなのだが・・・。

さて、この先に続く世界についての予測を立てたいとは考えないのが最近の多くの若者たちなのだろうか。また、そうした先を考えてほしいと願うのは年寄りたちのの言い分なのだろうか・・・。端末バブルが破綻してからの月日の経過で少し収まったかに見える端末組み込み業界かと思いきやスチルいや動画も含めて問題を残しているようだ。問題の渦中はソフトにあり解決策もソフトにしかないようだ。四年余りQuadジャパンで進めてきたローカライズ作業など、どこへやら端末開発の課題はアプリケーション開発に戦場が遷移している。数が捌けることで定評のあったどこかの話も、開発費用補填などでようやく端末メーカーのペースが従来の青息吐息の状態に戻るような状況らしい。一機種あたりの開発費用が100億円で足りていた時代はどこへやらである。通信キャリア毎に貨幣価値が異なるのが、いままでの世界だったのだが純増ペースの変遷などから貨幣価値の合意をめざす大岡裁きが下されるようになるのかもしれない。

最近急増している短期端末解約の増加などが、そうした新ラウンドの締結や合意などを引き出すきっかけにもなりそうである。政府が政治的に圧力をかける究極の施策である端末番号の自由化などは、通信キャリアにとっては端末完全自由化に匹敵するような事態ともいえる。もっとも通信キャリア自体は、インセンティブをやめる良い機会ぐらいだと認識しているかも知れない。小さな政府を目指すどこからの国と同様に通信キャリア自体も小さなオペレーションに見合った収支確保を考えた多彩な事業に打って出ているように見られるのはそうしたことの布石でもあろう。端末メーカーとして、開発費用の圧縮という近視眼的な取り組みや流行廃りに従っての方法論の改変などをしているような会社ではサバイバルなどできるはずもないだろう。ライセンスベースでチップ作りをしているメーカーですらそうした危機感にたちユーザーの自立化の手助けをどのように出来るのかと考えている時代なのである。

物事に流されずに地道に技術開発の追求を続けている知己の会社の日経の記事に目が留まった。T-Engine追求を進めていく世界の人たちに向けた家電製品など不具合解析のための装置という触れ込みだった。よく見てみれば彼らのJTAGデバッガであり、おそらくカーネルの構造も理解した上で、アプリもドライバもカーネルさえもMMUベースでデバッグ出来る機能をさらっと説明したようだった。かの社長や専務などがいうところのさらっとした開発をこなせる様な文化や技術醸成がなしえている会社はあるのだろうか。少なくとも通信端末開発で、そうした当たり前のことを理解して自分たちが開発する携帯電話の端末ソフトとハードについて進めていくというのが、あるべき姿だと思うのだが、どこかで東北のひとなのかエンブリガッコをかじりたがるひどがいるのがもしんねぇ。フラッシュのように日本発の技術が起こした会社で認められずに海外で実用化されたりするのは、ソフト開発でも続くのだろうか。何か日本人は欧米に引け目を考えすぎているのではないのだろうか。

緻密な積み上げで築いてきたはずの日本刀のような端末の世界も、版を積み重ねていきそうな大鉈のようなPCの世界に組みかえられてしまうのだろうか。開発現場が無条件降伏を決めてしまったようなニュースも入ってくる、家電メーカーでありながらEWSの開発をした経験があるのにも関わらずにだ。Linuxを選択するだけでWindowsに対抗する自由な勢力になれると信じているのは大きな間違いだと私は思うのである。Gnuカーネルを使いフリーダムを目指すのもよいだろう、長年温めてきた自社カーネルを花開かせるときが到来したのではないのだろうか。アプリケーションが使えないから、作りにくいからといわれてきたITRONも最近では逆に広がりを見せてきたのにも関わらずなぜ、また離れていくのだろうか。WindowsベースのRADな環境のほうが考えやすいという人も多いのも事実であり、リアルタイム制御を突き詰めるとイベントドリブンな世界になるというのも事実である。アプリケーションのためのAPIを支える仕組み、ドライバやハードを支えるカーネルの仕組み、これらについて明確な答えがLinuxを選択するだけで実現できるとは思わないのである。

組み込み業界が、世界に伍していくには一枚岩のように結束を固めることが必要であり、そのためにモノリシックなOSが必要であると関係付けるのであろうか。国産メーカーでTRONを開発してきた知己たちが、OSは開発したものの現場に評価されずに辛酸をなめてトップ交代などと共に国策プロジェクトとして会社として取り組んできた成果を葬られた過去など知る人たちは少ない。カーネルとしてハードウェアの性能をどのように引き出すための技術追求の課題があるのか、アプリケーション設計に対しての指針を持ちつつ実装確認してきた成果を信じる前に、ハードウェアや宣伝に負けてしまった印象が強い。切れた技術開発のリンクは糸の切れた凧のようなもので投資も人の中のモラルも砕いてしまいやすいものである。いま、こうした仲間たちの技術こそが最大の評価をうけるべきときに、みえない内なる敵によりもろくも打ち砕かれてしまっているようだ。そんな彼らの技術を、彼らの会社が評価せずとも世界の仲間たちからみれば大いなる遺産であり、まさに現場が必要としている技術なのだ。どこかでこうした技術に対しての理解がごそっと欠如しているのはなぜなのだろうか。

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