業界独り言 VOL221 デジカメと携帯の違い 発行2003/4/13

二つの異なる業種のメーカーがデジカメという業界で出会い、レンズの開発の分担と高密度設計生産の分担というコラボレーションを成し遂げて異なる魅力的な商品開発を成し遂げているという事例が出てきた。携帯電話という商品もいまやカメラ付きでなければ売れないという状況にあるらしく玩具のデジカメ程度の解像度からメガピクセルに移行しようとしているようだ。デジカメのメーカーの中には、携帯電話の開発生産をしているメーカーも多いのだが、最近はデジカメ業界自体も淘汰されてきたようで猫も杓子もという状態ではないようだ。電卓のような状況は過ぎ去ったようだ。デジカメをはじめて世の中に送り出したというメーカーも電卓の雄であった。次の携帯のコンセプトは、デジカメと携帯の融合なんですとかつて語っていたのを思い出す。そんな会社がレンズメーカーとのコラボを成し遂げたのはうれしい限りでもあった。

さて携帯電話での状況を見てみると、そんなコラボという姿には中々到達しないギクシャクとした状況が続いている。たとえば3G端末の開発の難しさに加えてさらに政治的な難しさを追加してしまう状況が、日本仕様と世界仕様の共用モデルには存在する。国際仕様として次々と出てくるCRの追求と過去のスペックでの動作との共存という範囲で動かしていく国内での実用システムの稼動という条件がその状況の一つである。開発費用の負担という奨学金のような助成制度が通信キャリアからメーカーに向けて出ている状況もそうした難しさを顕しているといえる。ビジネスモデルとして成立していくのかどうかはユーザー次第ともいえるしメーカー次第ともいえる。開発費用の分担で端末開発費用に占めるソフトウェア費用が下がるという効果を期待しているのであれば、それは幾ばくかの効果があるのだろう。開発整備された共用コラボレーションというビジネスモデルは、中々携帯ではうまくいかないように見える。

携帯電話の開発をしているメーカー間の差が見えてきてもいるようだ。あれほど人員投入を繰り返してきたメーカーが、社内から赤紙召集してきたエンジニアをリリースし始めているようだ。先端分野への異動は、個人の希望と企業方針での赤紙召集の二つがあるようで、赤紙召集と中途採用とを繰り返して飲み込んできた人材を使いきれないという状況ではないと思うのだが開発テーマの絞込みといった状況が思い浮かぶのである。悪く言えば人あまりとなっているのかも知れない。人材派遣業界としての側面も大きいソフトハウスなどにおいてもプロジェクト失注といったことになり、こうした情報を買い叩き材料にして人をまだ集めようとしている会社に吸い込まれたりもしているらしい。携帯電話開発のバブルは確かに弾け始めているらしい。

健全な開発というスタイルが、どれほどの物かという尺度はないけれども、その企業規模の開発人員と生産規模や利益がバランスをとれているのかどうかということになるだろう。各メーカー毎に無駄な開発となるようなダブった開発投資をしているようなことでは決してバブル崩壊での成長あるいは企業活動の維持はありえないといえる。まともな仕事の仕方という見方をすると最近のデジタルカメラ業界のコラボレーションなどはうまく機能しているように見える。OEMと部品開発といった異なった側面で違った魅力の製品開発を同時に成し遂げている企業が見受けられるからだ。携帯電話においては、工場の稼働率確保や急な生産調整に耐え切れずにOEM生産依頼をした会社などはあったのだが、積極的なコラボレーションの成功例というものには、まだ到達していないのは通信機メーカーの通信技術へのこだわりなのかも知れない。

互いに得意とする部分が異なっているからこそ、相互補完するという姿となっているデジタルカメラの業界と、携帯での世界が違っているからだろうか。無線機から撤退するという選択をしてアプリに撤するというような大胆な行動に出るのであれば相互補完の完成度も高まるのかもしれないのだが、互いの仕事が似通っているためだろうか。企画のみに走るようなパソコンメーカーのような仕事の仕方の携帯電話機メーカーが生まれたほうが、今の携帯電話機メーカーのリソースを活用したうまい商品が出来そうな気がするのは気のせいだろうか。組み立てだけに撤したいという携帯電話機メーカーの登場もあってもよさそうなものである。何か、まだそこまで踏ん切りがつかないというのかもしれない。

ある意味でQuad社のソフトやチップセットというビジネスはプラットホーム提供という意味においては、こうした状況を下支えするということになる。安定市場に突入するような中で、自社の強みが発揮できない分野においての投資効果を改善するという目的では得意としない分野については企画のみで委託開発するというスタイルが一つの答えなのかも知れない。まあ、以前のPDC全盛時代での端末機器メーカーの中にはこうしたスタイルを実践してきたメーカーも多かっただろう。端末開発を一手に引受ける技術協力会社との協業で作り上げるという姿は珍しくはなかった。開発効率を上げていく目的で良くわかった小規模のチームで開発していくのは確かな事実でもある。

携帯電話がデジカメ化していく姿は、デジカメ業界での協業分業化の流れに繋がっていくのだろうか。メガピクセルのカメラとミスマッチしたスクリーンサイズとメモリデバイスまでも搭載したものが登場してきたのは、カメラ付き携帯ではなくて、携帯つきカメラになろうとしているように見える。撮った絵や映像を送るには、矛盾となってしまう通信速度や能力の問題などがあるのだが、誰も口に出したりはしない。携帯でデータを送らないように使うのであれば、これは電話機ではなくてパソコンやPDAの扱いなのかもしれない。確かにJavaや赤外線が使えますといった話を表立たせているのも、そうした戦略の一環なのだろうか。携帯のネットワークがダウンするとテレビの録画が出来なくなってしまうという時代に入ってしまったのかもしれない。

電車の中で携帯電話で父親を呼び出す女子中学生がいた。急ぎの用事があったようにみえた。最初は帰りの車の出迎えのお願いなのかと思ったのだが、耳を澄ましていると・・・。どうも帰宅時刻が彼女のお気に入りのテレビ番組に間に合わないのでビデオの予約録画のお願いをしたいらしかった。日曜日自宅にいる父親というものが生ごみ状態とでも考えているのか、状況を確認するでもなく一方的に、ボイス認識リモコンとして娘の忠実なロボットと化しているような父親に対してコマンドを次々と発信している。ロボット三原則に則ったと思われる父親の反応は自分の理解の範囲を着実に返送してくるらしく、主人となっている女子中学生は自分の思い通りにならないのでムカついた口調に変わっていくのがわかる。娘さんらしいけなげな姿は、そういった風景には見られないのである。

メーカーが使う中心として、据えている次代を担うユーザー達は、こういった子供たちなのである。昔から電話には、一方的な一面があるので、相手を慮る気配り配慮というものを教育するのが親の務めでもあった筈なのだが・・・。少なくともそうした空気を最近の世の中に見かけることはとても少なくなってきたように感じる。夢を持ち開発してきた携帯電話というシステムが、夢の道具から社会を破壊する凶器になりつつあるような気がしてしまうように思えるのはいかがなものだろうか。狂気のような状況で開発を続ける会社もあるようで人間らしい気持ちなど開発している人たちも持ち合わせていないのかもしれない。マナーモードという機能自体の名前の意味が解からないというのが、もしかすると今の時代を表しているのかも知れない。

携帯メーカーの中には、OEMをこれから本業としていくような会社も出てくるのかもしれない。しかし、そうした会社に依頼していく側に回るメーカーというビジネスモデルについては、成熟した組織としてうまく機能していく会社でなければ果たせないような気がするのは気のせいだろうか。あいにくと端末生産からは足を洗ったQuad社のビジネスはある意味でお客様に対してはニュートラルといったことになっている。端末性能評価用のモデルは存在してはいるもののお客様のビジネスを脅かすようなものではないのである。携帯電話のビジネスにおいて相互供給を果たした上で差別化しつつ物づくりをしていけるのかどうかということは、あたかもIBM-PCのマザーボードビジネスとWindowsなどの分離が出来るのかどうかということにもなるのかもしれない。

競争という名前の浪費をしていくなかで、会社としての機会損失となるような仕事にのみ埋没しているような会社も見受けられる。物を大切にしようというようなことを教えることもなく浪費するままにマナーも教えることもない国において未来に向けた製品を勝手に開発し提案していくことは文化破壊活動ともいえるのかもしれない。世の中のコミュニケーションを良くするという目的でもっと果たすべき役割があるはずなのに、そうしたことを忘れてしまう仕事の流れになってしまうのはなぜなのだろうか。会社が自立した未来を正しく描き、それに向けた商品を提供していくようにすることが社会活動としての務めだと思うのだが、気が付くと会社にもマナーがなくなってしまっていたのかも知れない。

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