業界独り言 VOL207 続々 無線から組込みソフトへ

待ちに待ったDVDが発売された、ダーククリスタルである。オリジナルの映画は83年のファンタスティック映画祭のグランプリをとったものである。83年というと約二十年も前のものであり、当時は新婚ほやほやの状況で最新のメディアであった30cmのレーザーディスクをVTRも持たずに購入していた。そんな状況であったのでダーククリスタルの作品はLDの作品として購入してみていたのだった。リアルタイムに映画館で見た記憶は無い。実は結婚当時、とんでもない状況下で生活していたのでそうしたゆとりなどこれっぱかしも無かった。結婚式を予定はしていたものの当時は両家からの連絡がつかないような状況で生活していた。家にも帰らず、会社と近くのホテルの間を行き来しつつ最後の詰めをしていたのだった。そんな時代を思い出させた当時のマリオネーションとも形容のしがたいファンタジーな映画だったのだが年月の経過でか、レーザーディスクが再生不能な状況に陥ってしまってDVDでの再来を待ち望んでいたのだった。

そんな思い入れのある映画を細君と見ながら、ようやくこの映画の当時の状況などをメーキングシーンなどから知ることが出来たのは、また素敵なことだった。コンテンツとしての形態がアナログ時代のレーザーディスクと現在のDVDのそれとでは大きく違っているのだが、当時のLDの中のブックレットを取り出してみると写真と文字で書かれていたものが、今回のDVDでは動画として記録されていた。20年間の技術の進歩発展は凄いと思う反面、こうした映画が作られなくなってしまった状況は発展とは呼べないようだ。この映画は構想から五年かけて様々な人たちの出会いとで完成に至ったと説明されているが、確かに当時の最新の技術で作られた撮影方法は斬新である意味で日本の円谷プロの怪獣たちと同系列なのかと考え込んでしまったり、映像の凄さはなぜこの迫力が作られるのだろうかとも改めて思い直してしまったりもするお奨めの映画でもある。

さて、そんな20年も前の自分はと言えば、駆け出しの技術屋から中堅のまとめ役への変身を迫られる中で分散マイコンシステムのシステム開発をしつつボードのネットワークドライバーを開発していた。目指す目標は、小型コンピュータシステムをマイコンで置換するこという大胆不敵なプロジェクトだった。システム商品といえば、以前であれば系列のコンピュータメーカーのミニコンに手足のI/Oをつけて作るのが関の山であったのだがカリスマのプロジェクトリーダーが提案したのは圧倒的な斬新なものというコンセプトでもあった。自動車電話のプロトコルや端末としての機能実現に心を割いていた時代を駆け出しの頃に過ごしていた自分を社内でのトレードで移籍させられた先では、趣味では使用していたZ80の世界に踏み出すことになり端末での68系列との対比が自分としては端末とシステムの違いでもあった。ソフトを守備範囲としているものにとってハード中心の世界での常識に少しずつ工夫を加えていくということが楽しみでもあり自分の存在理由だと考え始めていた頃でもあった。

トレードされてからシステム商売の楽しさにも弾みがついた幾つかの事件があった。当時のシステム商品とは、事業部のエンジニアが開発兼保守サービスあるいはSEといった幾つもの仕事をするのが常であり、お客様の御用聞きをしてくる前線の営業マンたちの言いなりになりがちな職場でもあった。お客様への説明した仕様の解釈の食い違いなどはあるもので、ソフトウェアの変更の必要が納入後発覚して対応したりもする。そうした場合には事業部にある同様な予備システムでテスト確認をして、そのROMを現地に持ち込み設置確認までをしたりもしていたのだった。私は、事業部で確認してROM交換が簡単なこともあり間違いなく現場の営業マンで行えると判断したので手順を説明した紙とROMを送付したのだが、現場の営業マンからのお叱りの電話が掛かってきた。「どういう了見なんじゃ間違いがあったらどうするんじゃ」といったような内容だった。「こちらで確認していて問題が無く、恐らく交換にも間違いがないと思うので交換して動かなかったら直ぐに飛んでいきますから」と啖呵を切り返した。そんな時代でもあった。「小窓さんよ、あれな動いたわい、ようでけとるのぉ」と電話が後で掛かってきた。

当時の無線機の大口ユーザーはなんといっても物流業界であるトラック屋さんであった。無線室と呼ばれる人たちの部屋の一角に置かれた専用のコンピュータでトラックへの指示連絡を果たすといった目的で無線機と簡単なシステムを開発して納入していくのが、それまでの事業だったのだが新規分野として、物流業界の受注増加の切り札として集荷荷主であるお客様からの電話注文を複数の端末で受け付けるデータ照会登録システムを端末とデータベースとで構築して更には該当のトラックに集荷指示として無線でデータを飛ばしてプリントアウトさせるという壮大なシステムの開発がプロジェクトリーダーから切出されていた。こうした目的のために無線機を開発してきたんだなと自分自身が実感したときでもあった。ある意味で無線機は単なる紐なのだが、お客様のアプリケーションを紐と自分達の技術でシステムアップさせていくという仕事を非常に魅力的に感じた仕事でもあった。そうした最終形態に行き着くまでには多くの難しいテーマが山積していた。

照会端末自体から作らなければならない。この端末のソフトはお客様ごとにカスタマイズあるいは今後の改版が必要であるということ。漢字での表示が必要であるといったこともあったのだが生憎と時代はPC8801やFM8の時代でありマトモナ漢字表示が可能な端末はなく自前で作ることが求められていた。当然CPUはZ80だし、複数の端末を接続するのにもLANすらなかったのでした。トランザクションベースのシステム構築という構成で分散端末で照会処理を動作させて、トランザクションを中継するネットワークを構築してデータベースを作成していくということがシステムの用件であった。すでにお客様が利用しているのは中型の立派なコンピュータシステムであり、何かとんでもない仕事をしてしまったのではという印象もあった。幸いにも大規模なシステム開発として分散コンピュータで構成された電子交換機の開発プロジェクトが行われていたこともありメッセージングの設計手法などが参考にできた。そのシステムで開発されたのはネットワークを構成する新型メッセージングバスを起していたのだがLSIではないのでスペースファクタとしても利用はできなかった。

当時、ソフトウェア開発に利用していた環境はHP社の分散マシン構成の開発マシンであり、この機器はHPIBで接続されて高速にディスクやプリンタを共有していた。見かけ上からもHPIBのシステムを構成すれば同様なシステムを構成できそうだったし、HPIBであれば専用のLSIが開発されていたのでZ80のDMAチップなどとのコンビネーションでパフォーマンスも実現できそうな印象があった。システム構成の中核をなすネットワークドライバーの開発が急務だったのでHPIBでトランザクションをネットワーク配送できる仕組みを開発したのである。アセンブラーベースでの開発でシステム間のリアルタイムOSベースでのデバッグをすることで非同期なシステム同士のさまざまな問題を経験することができた。大変な仕事ではあったが、貴重な経験であった。現在のシステムでも何ら変わる要素はない。ひとつのシステムではなかなか経験できないことを分散ボードでの開発を通じて状態管理ベースでのイベント駆動型での設計を徹底することで理解が深まったといえる。この仕事に忙殺されていて結婚式直前までICE漬けの生活を余儀なくされていたのは、今となっては懐かしい思い出でもある。

照会端末にはグラフィックLSIを搭載して漢字描画を行う形で端末開発をした。アプリケーション自体はUIであり照会トランザクションを生成したり、通知されてきたレスポンスに基づいて表示をしたりするのはネットワーク構成のシステム設計と同じである。ただし、LANがない時代だったので光ファイバーを利用した高速なシリアルインタフェースでHDLCのフレームでチップやシリアルデバッグの能力などを考えて76.8kbpsといったものを利用したのだが、プロトコルアナライザでは38.4kbpsまでしか対応できずデバッグ時点では低速モードにして利用していた。クロック生成などはZ80ファミリで固めていたこともあり制限が生じてしまったことも原因ではあったのだが、デバッグが日常化していたために76.8kbpsで使うことはほとんどなくいつも38.4kbpsの設定で利用しているのが普通だった。このシリアルインタフェースをHPIBで終端するネットワークカードもZ80で開発することになっていたのだが、Z80DMAの制限などがあり四チャネルを収容してポーリングする方式で設計していたのだがタイミングによってはレスポンスの遅さが見えてしまうこともあり、さらにクロックを下げて19.2kbpsで四チャネル同時サポートを割り込みで果たす形にしたところ平均応答速度は遅くはなったものの最悪の応答時間が緩和されたことから寧ろお客様には受け入れてもらえたようだった。

大規模なシステムのデータベースとなるのはHDDでのデータベースであり、また照会端末自身もリモートからシリアルでブートする構成にしてありネットPCのような状況でもあった。ブート形式にしたことでソフトの更新も容易になった、ただし38.4kbpsといった速度で40kBあまりのコードをダウンロードするのには時間が必要だったので立ち上げ中はお客様の会社のロゴをグラフィックで表示してごまかすということも組み入れたりした。20名弱のメンバーで開発したシステムであったが、雛型としてZ80アセンブラーとしてできることのシステムのプロファイルにはなった。最終目的である無線データ配信のカードなどのシステムでは一枚のZ80で構成していたことに比べれば内実は、かなり異なったシステムになってしまっていた。ある程度その時点で出来ることの限界を極めた感のあるところには新たな上司がやってきた。上司に開発がほぼ完了する中でシステムを説明した、私に振り下ろされたコメントは、「なんで開発環境にUNIXを使わないのか?」だった。新たな上司は、電子交換機開発を米国で第二世代の開発として取り組んできた経過であり、コメントを的を得ていた。大規模な開発になりモジュール管理などの観点からもUNIXの時代に入ろうとしていた。

1983年の春になりシステムから端末開発に戻ることになった。以前の職場で開発していた業務用無線機の開発主体が移管されてきたからでもある。自動車電話やパーソナル無線の台頭により以前の職場では、業務用システムの無線機開発までには手が回らなくなっていたからでもある。第二世代の端末には先の電話受け付けシステムも大エリアをカバーする無線システムへの移行も含められていてアプリケーション用にモデム通信カードを搭載してデータ伝送のアプリケーションとしてプリンタを接続したりするといったことが車載機器にも求められる時代にもなっていた。新たなボスの下で取り組む端末開発にはUNIXとCを適用して行ったのは、膨れ上がるアプリケーションを見越してのトップの意識と現場技術者の私自身の好奇心からだったように思う。小文字で書かれたC言語のソースを読みにくいと思っていた自分であった。しかし、会社から与えられた機会を通じてUNIX環境の整備や作りこみといったことを行ったもののターゲットの開発には失敗してしまった。この経験を通じて、小文字に抵抗もなくなり日常のツール開発も普通になり、失敗を契機としてCコンパイラを起して逆転勝訴に漕ぎ着けるまでになってしまった自分とを思い返す。

仕事に情熱を持たない若者が多くなりすぎたこの頃なので、それを持つ若者を見ると感激したりする。技術を使いたくてあるいは、吸収したくてうずうずしている若者がもっといても良いと思うのに、現実には何故か、若くして老成して技術者から担当を目指すものが多い。会社と雇用の関係は互いの契約であり、一定の技術や知識をもつ者を雇い入れ活躍する場を与えて世の中に貢献してもらい会社としては社会から利益の還元を受ける。個人の目から見れば、会社に属することで個人では入手できない環境や機会を得て自分の力を伸ばしつつ社会に貢献した成果を会社から還元されていくのである。個人でやっていく事よりはリスク回避が出来るということでもあるが、最近は会社に属していることがリスクである場合も増えてきたようである。自らが伸張しようとしない社員や期待に応えない社員との契約を更新しないという形態にすらなりつつあるようだ。結婚を契機に自分自身の仕事の方向性や納得性についても家族と話す機会も増えて自己の意識がさらに高まっていった気がしている。当時みていた映画もやはり、なかなかDVDにはならないようだ。ちなみに、今待ち望んでいる、そのDVDは、風の谷のナウシカである。

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