学校時代の仲間と新年会をした、久しぶりに顔を合わせた仲間達とは互いに心配の残る髪の毛や、眼鏡や人相を変えてしまう白髪の髭やらでの再会ではあったが始まってしまうと気が付けばタイムスリップした時間を共有している自分に気がつく。高専という枠組みの偏った実践中心の技術教育というものを多感な時期にともに過ごした五年間という日々の重みは大きい。大学に進んだものもいたが、当時のオイルショックの後の未曾有の不況という時代も、いまでは笑ってしまうような状況の不況である。土地神話、高度成長などバブル以前のあの時期には産業界が求めていたはずの実践派技術者の就職も途絶えてしまった時期でもあった。
私の母校は国立高専の中でも新しいモデル校のようなところだったので私達の代でようやく五年生までが揃った格好であった。校舎が無い時代を仮住まいで暮らした諸先輩達の思いには届かないが、一期生達の雰囲気を知るインパクトを受けた世代でもあった。高専という進路を選択して文化祭に表敬訪問した中学の時代を思い起こすと赤面するのだが、当時はまっていたアマチュア無線の興味から無線部という展示のところでいかにも高専という感じの雰囲気の先輩学生に出会い憧れて翌年の入部を申し出たことがあった。この先輩という人もかなり変わった人であるのは事実で、入学式のあとで教室の後ろから顔を覗かせて「来たのかやっぱり」と確認しにきたのも懐かしい思い出である。
そんな先輩との付き合いは長く、今では母校で電子回路の教鞭をとっておられる助教授さまでもある。尤も彼は優秀な学生時代の成績からか大学・大学院と進学していつしか電子回路の研究家として教鞭に母校に戻られるまでにいたっている。彼の後を追っかけて西千葉や大岡山の校舎を訪れたのも懐かしい響きで思い出す。アマチュア無線という趣味が嵩じて選んだ進路というわけではないが、不況の中で選んだ電機メーカーでは当時はアマチュア無線の機器も製造していたことがあるようだった。見えない電波を堪能するというアプリケーションとしてのアマチュア無線は当時の知覚的な刺激をかなり満たしてくれたのは事実でした。今ならばさしずめパソコンがそうした刺激を満たしてくれるものでしょうが。私にとってはモールスの響きやノイズの中の信号に心躍った日々でした。
当時学校にあったコンピュータはといえば、アセンブラーあるいはFORTRAN教育に用いるHITAC10というミニコンとよばれるものでした。紙テープをパンチして入力したソフトでコンパイルしたりアセンブルしたりといった具合で実践的な教育ではありましたけれど限られた時間で共有して使うという形態では知識欲を満たすことは出来ずに卒業研究の頃に導入されたコンピュータを使って本格的な機械語での実験研究では、かなり満足が出来たともいえます。ソフトウェアを卒業研究のテーマとして選び何かコンピュータやソフトの仕事に就きたいという獏とした思いと市場の不況とはマッチせずコンピュータメーカーも付き合いだけの試験だったりする中で、なんとか幅のありそうな仕事が出来る電機メーカーに飛び込むことが出来たのは幸いでした。
実践教育を積んだ高専生活から社会人となり不況の中の船出となりましたが、おりしも吹き荒れる不況風で、その会社の中での配属先が手控える始末で配属が為されたのは翌年の五月という異様な事態で新入社員の二年生といった具合のある意味でゆとりのある時代だったのかも知れません。長い研修生活に終わりを告げていざ配属かと思いきや、若いからコンピュータの勉強をしてソフト開発について学んで来いとコンピュータメーカーに出向となりました。またまた新入社員生活に舞い戻りました。翌年のコンピュータメーカーの社員としての新入社員教育に紛れ込みました。流石に国産コンピュータメーカーでIBMと伍してやっているところには立派なコンピュータがありました。紙テープでの時代から考えるとパンチカードの利用はある意味で画期的でもありました。
出向先の技術者として自動車メーカーのお客様にさらに出向することになりました。開発を現地の工場で行うためです。開発期間の大半を群馬県にある自動車メーカーの工場と寮で過ごすことになりました。元の電機メーカーから入手した社内製品購入の証書などを離れた地域のお店で見せても奇異な目で見られるだけでしたが、なんとか通勤用の自転車を現地で手配してエンジニアとしての船出となりました。今考えると新入社員生活の場で自転車を買うのは、その後また米国で同様な事態に陥ったわけで自分自身の中でなんだか可笑しく思い返します。エンジニアとして開発したのは工場のラインに導入した付帯設備の装着指示を行う大型文字を印刷するプリンターのシステム構築で構築済みのミニコンシステムに拡張するという一切を任されました。
自動車メーカーでのシステム開発を続ける中で二年間の出向生活は終わり、無線機器を開発する本来の職場に戻りました。とはいえミニコンのソフト開発を学んでいる間から、もとの会社から送られて来ていた資料には「マイコンの勉強をしろ」と資料のコピーが添えられていました。ミニコンの豊富な命令から見れば当時のできたてのマイコンの命令は陳腐で足らないなぁと感じるほどのギャップがありました。考え方を変えれば、シンプルな命令を積み上げて従来のミニコン型の命令が構築できるわけで、まだまだ修行が足らないなと自戒していました。気が付けば本来の配属先はソフトウェア技術者だけで構成された特殊な部署だったのです。これからのソフト開発が出てくる時流に向けた経営トップの考えた戦略組織だったのでしょう。
ここで、他のハード技術者の方達に向けてマイコンを使ったソフトウェア研修を行うというお題を最初のテーマとしてもらったりしたわけです。開発ツールが無い中で行ったテーマの確認には二現象のオシロと機械語ベースの課題でUART制御してタイプから文字を拾い印刷するというのがテーマでもありました。確認する段階ではハードが正しく動作しているのかを二現象オシロで短いソフトのループを走らせて書き留めた方眼紙のグラフからUARTのレジスタのビットが動く様を確認しました。この辺りは高専でとった杵柄といえるものでした。古臭い使いにくいオシロスコープになれていた自分にとって会社で使える最新型の測定器の使いやすさはマニュアル要らずといった感じでした。ふんふんと鼻歌まじりで開発確認を行いテーマが動作することを見てからは教えるということの体験を二十名あまりの方達の理解を通じて体験しました。
仕事としての次のテーマは、なぜかデバッガ環境の開発でした。組込みソフトとしての最初の仕事をするために必要なものは開発環境ということでした。既に先輩がクロスアセンブラシステムを並行して開発してくれていたので、その電機メーカーでの戦略商品である自動車電話を開発するのに必要な環境の一翼はデバッガが挙げられていました。といってもすべてを作る時代から専業メーカーが出てきた時代に移り始めていたので戦略に則った系列のマイコンに対応するデバッガを用いて所謂エミュレーションメモリユニットを開発するというのがテーマとなっていました。なぜかソフト屋という肩書きとは離れて回路図を書き、P板設計をしてもらい作成して部品を手配して組み立てるというサイクルも経験することになりました。エミュレーションメモリの使いやすさを上げるためにデバッガの回路図を解析してデバッグモードと実機モードの信号を見つけ出して実機モードでは書き換わらないという機能を実現することが出来ました。必要は発明や技術向上の源です。
組込みソフトという最初の取り組みは、この環境を使った自動車電話の試作でした。既に商用化したモデルのソフトを異なった戦略マイコンへの乗せ変えも含めて行うということでアセンブラベースでの異なったマイコンへの移植作業ともいえるものでした。ソフトウェア技術者という分野で初めて配属された自分達と、会社の中で学びつづけてハードを興して自らマイコンユニットを開発してきた先輩達との温度差は大変なものでした。先輩の書いたコードを理解するのにも時間がかかりましたし、教えを請うのにもレベルが高すぎて理解できないのです。それでも頑張って読み取っていき理解を高めて納得し勉強しつつの仕事と言うのは今ではうらやましい仕事だといえるのではないでしょうか。そんな余裕がどこにある怒られそうな状況ですよね、今は・・・。パッチという言葉が似つかわしい形で机上試験と実機でのパッチしつつのデバッグ風景だったのは一回アセンブルして紙テープを起こすのには最低でも三時間以上かかる仕事だったのです。
出来た紙テープを通してデバッグが開始できてから判明したつまらないバグなどはパッチして潰すのが早かったのです。最近では高速のコンピュータでコンパイルリンクしてデバッグするまでにフルコンパイルしても二時間ほどのようですから進歩は凄いものです。とはいえつまらないバグを見つけると気分が悪くてパッチもせずに修正してコンパイル作業に戻るような風景があるのは残念なことです。もっと机上でデバッグを進めたりしていくのが、まずはあるべき姿ではないのでしょうか。半年ほど掛けて開発した自動車電話は先輩の資産や指導により組込みソフト初心者の私達に多くの示唆や指導成果を残しながら開発完了に漕ぎ着けました。無線という性格で起こる事象をソフトウェアの制御で理解対応していくといった無線と組込みの世界の始まりがここにありました。