VOL50 似て非なる無線と携帯 発行2000/10/18

軒を貸したら母屋を取られる・・・・というわけではないが、無線通信の歴史ある無線業界と携帯の業界は乖離してきたように感じられる。かつては、無線といえば米国の某社であり、初芝通信などは、シカゴのそのメーカーを目指して追いつけ追いこせを進めてきたように思い返す。皆、ベースにあるのは自動車に取り付けた警察やタクシーの無線機であった。

無線機の最終ターゲットは一人に一台持たせることであった。どこでもだれとでも通信できるような時代を夢見てきていたのかもしれない。超再生のおもちゃのトランシーバーがあって、中学高校生はFMのアマチュア無線で遊び、海外通信などに短波のSSBやCWに耳を澄ましている時代だった。趣味の王様は、いつのまにか裸の王様になって身包みはがされてしまったようだ。

21世紀を目前にしてそうした目的は達成できてしまった。世界中どこでも通信できるという衛星通信のシステムも構築されたが、シャットダウンしてしまった。定期便の飛行機のように月までいけるはずのパンナムのロケットは、パンナム自体がなくなり、まだ毎回のロケットの打ち上げ直前に部品不良などのトラブルにおびえている。安心して飛行機の整備にゆだねるというところまでは到達していない。

無線で進めてきたことは、線がないことにより電波法の範囲で自由に無償で使えることが、道路や建物などの利権といったものとは隔絶して使えていたことがベースにあったかもしれない。今では、電波利用料を払わなければならないものの、周波数の権利を売買するまでにはわが国はいたっていない。こうした利権を売買することを普通と感じている携帯の人々の感性と、電波利用料でも・・・と考えている無線の人々の感性はかなり違ってきている。

いくつかのニーズに沿って仕事は成り立っているのだが、ニーズを持っている現場の方がたにしてみると携帯と無線の違いは見えないようだ。電波という媒体の性質をよく理解しているのが無線の人たちであって、ニーズという常識にたって有無を言わさず答えを追及しているのが携帯の人たちである。ニーズを持っている人たちから見れば、携帯での利用者からの常識を無線の分野にもちこんでしまうのは致し方ないことなのだろう。

無線の人たちの為に良かれと思って転職した基礎技術の携帯業界だが、そのように理解されてはいないということを最近つくづく感じることが多い。時期早尚なのだろうか。無線の方々からの数量や規模どを考えてみると十分にまかなえる方法論だと思うのだが、マクロに捉えることが出来る人を後輩に育ててくることが出来なかったのか、はたまた自分自身の大きな誤解なのか。開発スピードをもう少しゆっくりにできれば電機業界の技術者にとっては幸せだと思うのだが、携帯な人たちの常識に鉄槌を下せる政府ではない。

開発競争というものにISO14000などを適用してみると大きな疑問符が残るのではないだろうか。部品の再利用化は進んでいるのだろうがソフトウェアやユニットや投入される人たちの再利用は・・・そこまで達成できなければISO14000ではないのだろうと考えている私は愚か者なのだろうか。日本の開発競争のベースにあるものは、いつも自分たちの資源不足を追いかけつつ、そのことを正当化して戦争を誘発さているような気がしてならない。

周波数不足ということの解決策に携帯な人々がやっきになって欧米を巻き込んで正当化した戦争にしたつもりなのだが・・・無線な人々は北朝鮮のような状況に陥ってしまっているような気がしてならない。携帯な人々は、戦争の目的を忘れていはしまいか。メーカーにコストダウンを要求して開発競争を煽り投資をさせて生活が出来る目処が立てば誰も戦争を続けたいとはおもってもいないはずなのだ。出した拳固はひっこめられない。

この国は、戦争のたびに周囲からいいようにあしらわれて国土や利権を奪われてきているのだが、そうした聖職者のような生き方を進めていくのが国民性なのかもしれない。この戦争か負け戦だったときに気が付いてみると英霊達の想い等どこ吹く風のプータロしか教育していなかったとしたら国として滅んでしまうと思うのだが、マニュアル化してしまったつけで出来上がってしまった世紀末。世紀を越えたいとは思うが、こんな世紀末は越したくない。

誰もが信じている大本営発表・・・・次のポツダム宣言はどこであるのか。こんな夢想が、杞憂であることを願っているのである。

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