VOL35 先が見えない時代に 発行2000/08/23

さて、私の過去の不安な材料が見えてきた。それは、あの海を埋め立てた、関西国際空港だ。何をしてきたのかというと簡単にいえば無線機付きのデータラジオを開発提供してきたのだった。当時、アナログでの同報通信をうたい文句にした和製トランクドシステムであるMCAシステムを関西空港の埋め立てに利用しようというのがニッチ市場に眼の無い事業部としては、まさにシステム件名としても適時な取り組みであった。一定期間の工事の間だけ利用するシステム機器を納入するというのは後腐れがなくて美味しい仕事だったのかも知れない。
 
私は当時アナログ無線でのデータ伝送を行うということを命題に暮らしていた。この開発のためにクロスコンパイラも開発したし、当時の上司は私のためにスーパーミニコンを買い与えてくれたのだった。一人で占有するには当時のVAXは高い買い物だったのだが同様な性能をより安く高性能に提供してくれたHPのスーパーミニコンは魅力的なものだった。Sunが出てくる少し前はHPとDECの一騎打ちだったと思い返す。自分が開発したクロスコンパイラは、Cコンパイラでそれ自身書かれていて同様のUNIXの上ではコンパイルしなおすだけでそのまま使えたのである。
 
コンパイルされたコンパイラで自分自身の目的とする端末のためのコンパイルを行い、得られたソースコードをアセンブルしてROMに焼く。Cで書かれたソフトは、そのままICEの必要もなく動作して所用のステップまで到達して機能確認を続けていく。こうした作業を横浜で行い、開発協力してくれたメンバーとともに現地に訪れた。大阪というよりは和歌山といったほうが適切なくらい離れた場所に関西空港の予定地はあった。そこはただの海だった。樽井とよばれる駅に隣接した場所を借り受け鉄塔の上にはMCAと呼ばれる800MHZ帯域の専用のアンテナが海に向けてのっていた。下の局舎は気象庁の関連施設であった。
 
データ伝送ユニットというサブ基板は、無線機に搭載された無線モデムとマイコンののったものでシリアルインタフェースで外部と接続されるというものであった。このシステムでは、通常のMCAのシステムの上でショートメッセージを放送するのが目的であった。放送する内容とは、現在の潮位データである。海に浮かぶ船からは海底までの距離は測れるものの、相対距離しか求められない。この地域特有の潮位情報を24時間放送している衛星放送はまだなかった。この放送を目的として唯一海底から立ち上ったセンサー局にも無線移動局を設置してこのテレメータとまずデータを通信交換してデータ放送を行うのである。
 
無線のプロトコルはパケット化された誤り訂正可能なフォーマットを連送する一方通行の手順である。誤りが見つかった場合には後続パケットから必要なパケットを受領するというのが手順であり構成されたデータを外部機器に出力する。という簡単にものである。ただ、最初に受け取るデータは、テレメータ装置であり船につまれる端末の先にはbasicで動作するパソコンがあるのだった。パソコンのソフトはあらかじめ同時に開発したものでもあり、十分なテストを踏んで赴けた。しかしテレメータ装置は既存のものであり現地に行くまでは仕様書による仮想テストしか出来なかった。動作しない場合には最悪現物合わせとなる。
 
開発環境はスーパーミニコンであり専用ではあるものの、これを現地までは運べない。幸い、当時の国民機であるPC98にLTという機種が出てきて現地でターミナルとして利用することが出来た。私は当時の高速モデムであるEPSONの1200bpsのモデムとあわせて持ち込み現地から横浜に電話をかけてVIで仕事をしてmakeをかけた後に電話をきりしばらくしてから再度横浜に電話して出来上がったROMイメージのファイルを受領することを繰返していた。当時の規模で16KBほどのソフトに無線と有線の通信プロトコルを乗せて中継するのは最先端の技術でもあった。
 
16KBほどのソフトはIntelHEXのファイルにする32KBほどのサイズになり1200bpsの速度では、ダウンロードに5分ほどは要するという状況であった。大阪と横浜とをこうした環境で接続して一晩に何回か通信を繰返してROM焼きをしつつのデバッグをしていると一晩でも電話代が一万円を超えることは不思議ではなかった。最初にとまったホテルではまだ関西空港工事を当てこんで建てられた新しいホテルだったがまだあまり客もなくフロントのお兄ちゃんも要領をえなかった。私が予定外にかかった通信費用について現金の持ち合わせがなくカードも使えないということから次回来たときに払うからと借用書を書こうとすると「見なかったことにします」といってくれるようなのんびりした時代でもあった。
 
デバッグが進んでくるとなかなか現物の動作が仕様書通りではないことや無線制御との輻輳動作での内部バグがでたりとますます回数がかさみ、こうした電話を気象庁の局舎で行うことが続いた。あとで電話代100万円の請求書が事業部宛に送付されたことは記憶にあたらしい。のんびりした中でも海上のテレメータ局での試験は実際に漁船で近づき測定器をもって跳び移らないとできないことからブイの開発をしていた昔の先輩には敬意を表している。怪我も測定器の水没もなく開発は続き、落ち着いて関西空港工事事務所での最終テストなどになった。
 
パソコンから周期的に印刷される潮位データに基づき埋め立て工事は進んだ。工事事務所にいるといろいろな情報が聞こえてきた。海底の泥流は非常にやわらかくいくら打ち込んでも流れてしまうので凍らせつつ打ち固めているとか、測量にもレーザー技術を用いて正確なものが用いられているとか最先端の技術の集大成だった。そうした技術の確かさは、その時点では信ずるしかなかった。笑い話で終端しようと考えていたこの時代の開発に最近の新聞は警鐘を鳴らしていた。
 
「関西空港水没の危機」といった見出しである。当時の予測では50年たって地盤沈下は10m程度発生して落ち着くという内容だったらしい。しかし。この5年余りの間で既にその値に達しているというのだった。地盤沈下は続き、当初の予測を超えようとしている状況は表面からは判らない恐ろしい舞台裏となっているようだった。私は、工事に荷担したものとして関西空港という名前が気に係っていたのだが、こうした恐ろしい事態だったとは開発しているメンバーには知らされていないものらしい。
 
今いろいろな開発が続く中でこうしたことに似た状況があるのではないかといろいろな開発に思いを馳せている。

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