VOL07 GW目前 発行2000/4/28

新人が現場に登場する時期である、当社も日本人スタッフとしてハードソフトともに若干名の方を迎えた。桜のあとの春の気持ちの良い季節を新人の季節にしているわが国では、代償として小学生の長い夏休みを学年中に迎えるということが課題かもしれない。効率的に考えると夏休みを学年から外した米国スタイルは、あながち否定できない。実は、この事が国民性に大きな影響を与えていはしまいか。新人時代から四半世紀近くを過ごしてきた。温故知新でバーチャルな世界をかえりみよう。

トレーサー
1976年に仕事をはじめてから、はや24年を経過した。昨年の転職からも半年を過ぎて、ようやく新会社での自我を確立しつつあるところである。さて、25年前に学生最後の年にやったのは卒業研究である。高専では当時最終学年での一年間が卒業研究に当てられていた。まだマイコンなどない時代であり学校に小型コンピュータを導入しようという時代であった。仮想記憶で動作するので大規模な計算も可能である鳴り物入りで説明を受けたマシンではあったが、実際にはページングの嵐となり実用的な計算には程遠いものであった。予算から割り出されたマシンにすぎなかった。この当時入りたての富士通のマシンの上でOSの構造を調べようとトレーサーを開発したりしたのが懐かしい。命令をワンステップずつ実行させていこうというものだった。仮想的にマシンのプロセスをデバッグしたいというようなものであったかも知れない。割り込みの概念を学び機械語を学んだに過ぎないともおもう。この機械語で開発したソフトをFortranで作成したローダーでローディングしてコンソールパネルに向かって仕事をしていた。おかげでFACOM230の機械語を覚えた。翌年初芝電器に入社してからは、一年の新人教育で図学や製図・工作といった高専のクラスのようなテーマや販売実習といったものを経験した。会社の仕組みの中での難しさといったものもいくつか経験した。一年間の研修の後に配属になったが早速富士通への出向を命じられて1977年入社の富士通の導入教育のラインに割り込んだ。はじめて見るCOBOLなどの世界をみつつミニコンの技術習得が目的であった。当時のミニコンピュータは現在のエンベデッドな世界ににていた。開発マシンとターゲットが異なったりすることや開発ツールが不備だったりすることもあった。富士通時代のお客様は自動車工業関係が多くあるお客様の生産ライン制御システムの仕事では先方の寮に3ヶ月ほどを過ごす結果となった。

シミュレータ
生産ライン制御システムの担当ではミニコンサイドの一切合切であり、新人(?)一人である。判らないことは先輩に聞くというスタンスだが先輩もミニコンに詳しいわけではない。当然の帰結としてマニュアルとドキュメントと首っ引きになる。富士通の会社としてミニコンを支援しているのは当時初芝と共同出資して興したPANAFACOM(現PFU)である。開発ツールを必要とするのは常だが固定ディスククラス(?)を搭載した大規模のミニコンでないと開発が出来ないということがあった。新橋に当時あったFACOMビルには地下にマシンルームがあり、その一角にミニコンのマシンも置いてあり時間を予約して利用したりしていた。マシンを使用するために、深夜の作業申請を行なうのだ。こうした環境を経る中でミニコンという特殊な環境にむけた開発環境が不十分であり、同僚達が和気藹々とカードパンチに向かってソースデックに積んでは、ときたまばらけてしまったりする風景とは相容れなくなっていた。ミニコンのエンジニアは”暗い”感じがした。昼間から使える皆と同様な環境のなかで出来ないものかと思案していた。

問題意識の芽生えであろうか。ミニコンの開発ツールとして大型で動作するSIMULATORソフトが開発されていた。ミニコンのソフト開発用に作成されていたようだった。システムソフトの開発としてはモジュールをくみ上げるシステム生成あるいはリンクと呼ばれる作業が必要であり、この作業がシミュレータで動くのかどうかが鍵だった。サポート部隊に連絡をするとそんなことは考えても見たことがないし動くのかどうかが不明だという。ありがちな回答である。前向きな回答を出したところで支援も出来ないからである。ともかく「やってみなければはじまらない」ので必要なソフトウェア一式の提供をお願いして磁気テープの入手とユーザーで稼動しているマシンは夜間まで運用しているので深夜停止後から朝までが勝負である。

システム編集
普段はリアルタイムOSで立ち上がっている中型コンピュータをシャットダウンしてバッチ系のOSに切り替える。シミュレータは、このバッチ系のOSで動作するように設計されていた。実際にシミュレータで仕事をする為には、仮想マシンがデバイスをアクセスできるようにする
ことが必要だった。マニュアルでの見て歩きによれば仮想空間に物理デバイスをマッピングできるようだった。システム編集というツールを動かすには磁気テープデバイスが動作すればよいのだった。またシミュレータの上で動作するシステム編集というツール自体は独立で動作するOSの不要なソフトウェアとして設計されている。ユーザー納入先でOSを編集する為には致し方ないブートストラップ的な位置付けでもある。稼動させたターゲットOSがバッチの機能をもっていれば、その上で動作するシステム編集ツールもあるのだが、そのときのお客様の用件はミニコンはセンサーあるいは配信用のFEPであってチャネルとよばれる高速インタフェースで接続されており特殊な端末群を制御するDI/DOといったインタフェースがもうけられている程度だった。シミュレータが動作するはずの仮想デバイス経由での磁気テープの操作を仮想のミニコンコンソールから行いテープが「カクッ・・」と動作するのを確認した。「これで・・いけそう」と思ったのであるが実際問題システム編集ツールを稼動させると時々思い出したように「カクッ」と動作しているような体たらくで仮想マシンのスループットと実務のギャップを世界に先駆けて思い知った。磁気テープというものは、「ククッククックーッ」といった音で動作していくのが通常の動きである。こうした周辺装置とのやりとりは100倍以上の処理時間との差があることから、OSというものの価値があったのだが仮想世界では物理デバイスに指示を与えて次の命令を実行していくうちにもう入出力処理が終わってしまっているというのが実情であった。通常の処理時間に比べても10分程度で終わる作業が、その日の夜間マシン時間を殆ど食い尽くして終わるころには、朝が白々あけてきていた。77年のことである。市場にはTK80が登場していた。

遅くても効率的?
一晩かかったシステム編集作業であるが、マシンを求めて群馬県のお客様のところから大田区や新橋のマシンセンターまでの移動時間を考えるとあながち非効率ともいえなか
った。出来上がったソフトウェアは高速チャネルインタフェースで瞬時にターゲットのFEPであるミニコンに転送されて立ち上がる。ミニコンにはディスクもなくRAMのみで動作していた。デバッグコンソールを使って確認を進めていく。こんな生活をしていると一週間は三日でおわる。月曜日に出社して火曜日の夕方帰宅、水曜日から木曜日、金曜日から土曜日という次第である。何週間かへた結果,残業時間が180時間を超えていることに気が付いた。初芝から派遣・出向としてきている関係で初芝の組合統治からは外れていた。こうした勤務形態自体も学ぶべき対象ということであろうか。もとより深夜勤務などが強いられていた富士通にあってはこうした残業時間の考え方が昼過ぎから出社して徹夜をするB勤務などがあった。初芝にはA勤務しかなかったのでA勤務8:00-16:45を超えた時間はすべて残業時間としてカウントされ翌日は休日をとったことになっていた。こうした結果残業時間が180時間というような事態になっていたのである。昼間でもつかえる開発環境がほしいという痛切な願いと仮想的な環境でも今後はつかえていくようになるだろうという思いとが交錯して過ごしていった。ほどなくお客様の別工場に少し大規模のミニコンが導入されたことでこのマシンを借りてシステム編集が出来るようになったのでシミュレータとの付き合いは一ヶ月ほどでおしまいとなった。

続く。

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